或る憧れと、その結末。
自分とは無縁のものが目の前にあったとき、人の反応は二つに分かれる。
一つは、つまらぬものとして切り捨てる。
そして、もう一つは、
◇
「あなただけが辛いわけじゃない。自分ばかりが頑張っていると思うのは傲慢よ」
光属性の力を持つ少女――ゾーイ・モリスが言った。
闇属性持ちの私は、感情を抑えなければならない。感情を揺らせば魔力が動く。闇属性の力は「奪う」ものである。周囲の人間の魔力を、場合によっては生命力までも奪ってしまう。なるべく静かに、心を動かさないで生きることが必要だった。そして、これは誤解されやすいところで、闇という言葉から怒りや悲しみといういわゆる負の感情と結び付けられがちなのだが、抑えなければならない感情に区別はない。喜んだり楽しんだりしても私の力は発揮される。喜怒哀楽のすべてを動かさないよう努めなければならないのだ。
心を動かさないために、表情も動かさない。何も考えず頭を空っぽにして無表情でいるのが最適な方法だ。
だが、表情が動かない私はつまらなさそうに見える。
ゾーイから最初にそう言われたのはもうずいぶん昔の、互いにまだ子どもだった頃の話。
貴族の子息令嬢が集まる茶会の席。私は場違いにも出席することになり、知り合いもおらず、だからといって勝手に退席していいものかもわからず、一人でぽつんとしていた。そこへゾーイが寄ってきて「何が不服なの? あなたがつまらなそうにしていると、わたくしたちも楽しめないわ。もう少し楽しそうにできないのかしら?」と告げられた。
言わんとしていることは理解できた。私の存在が周囲まで興ざめさせている。他の子のためにも注意する。それは確かに一つの正義だった。
「彼女は闇属性持ちだから、感情を出してはいけないんだよ」
かばってくれたのは、この国の第一王子セドリック殿下だ。
セドリック殿下は、物事の道理を理解していらっしゃる。
国民が必ず受けなければならない八歳の選定の儀式で闇属性の判定が出た後すぐに、その強靭な力を保護するという名目の、その実、監視下に置き、有事には有用に使えるようにと親元から引き離され、王城の離宮の一つで暮らす私を気にかけてくださっている。
無論、それは優しさや同情という感情からではなく、ひとりぽっちの私を気遣うことで、私が心を許し、頼りにするようになれば、闇の力を取り込めるという思惑があってのことだ。打算。だけれど私はそれが嫌ではなかった。不用意な親切はかえって不気味だ。目的がある分、余程安心できる。
こんな考え方になったのはおそらく両親との関係が希薄だったからだろう。
私が生まれたのは王都から随分離れた貧しく小さな村だ。
両親は小作農をしていて、妹が一人の四人家族。
私は物心つく頃には闇の力に目覚めていた。ただし、知識としてはまったくなかったので、それが何であるのかは不明のまま、ただ、感情的になると辛くなるということだけがわかっていた。
感情を揺らすと本当に辛いのだ。身体が鉛みたいに重たくなって、心臓がどくどくと早鐘を打ち、肺が膨らみ切ってはじけてしまうのではないかと思う。それに、私が苦しくなると周囲の者たちも調子を悪くする。その連動に気づいたのは本能によるものだったのだろう。そうでなければ、私は無自覚に誰かの生命力を奪いつくしていたかもしれない。でも、そうはならなかった。すべては私の喜怒哀楽が原因であると、理由はわからないけれど確信を持ち、なるべく感情的にならないようにした。
笑うことも、喜ぶことも、泣くことも、怒ることも、何もしない。無表情で生きる。そうすることが一番楽でいられた。自分を、そして周囲の人を守る術だった。
でも、それは人々にとっては不気味に映った。
小さな村では、闇属性なんてものほとんど知られていない。知っていたとしても私のそれが闇属性であると指摘する知恵者はいない。私もまだ幼くあったから、状況を上手に説明するだけの言葉を持たず、自分の中だけでどうにか処理をし、その結果、表情の抜け落ちた、感情のない、不気味な子として次第に疎まれるようになっていった。
たとえば、食事中にコップの水をこぼしてしまったとき。それをしたのが妹なら、彼女は泣いてしまう。自分が失敗したのに声を上げて泣いて、そうしたら母は「あらあら、びっくりしたのね」と頭をなでて慰める。けれど、これが私なら、無表情で硬直するだけの私に母はため息をこぼして、無言でテーブルを拭く。「ごめんなさい」と言えば「気を付けて」と短く返される。頭を撫でられることなんてなかった。
たとえば、畑での雑草処理。それは私と妹の仕事だった。仕事はやらなければならないことだが、妹は終われば「褒めて、褒めて」と無邪気に両親に抱き着いた。二人は「頑張ったね」と抱きしめ返した。私はそれを見つめた。やるべきことはやらなければならないことで、当然のもの。それをしたからといって褒められたりはしない。でも、それを褒めてと言っていいのか。そして、言ったら褒めてもらえるのか。
私だってやっている。ずっと、ずっと、やっている。
感情を出さないように、頑張っている。
「あの、」
言葉はそれから先をつむげなかった。胸が苦しい。これ以上考えてはダメ。口にしてしまえば抑えがきかなくなる。何も見ない、何も考えない。
寂しい、と思った。
悲しい、と思った。
私だって本当は泣き叫んで、心配してもらいたかった。大丈夫だと頭を撫でてもらいたかった。ずっと我慢して頑張っていることを知って、よくやっているねって言ってもらいたかった。
けれど、それを出せば苦しい。
寂しいより、苦しいの方が辛い。
悲しいより、苦しいの方が避けたい。
私は、全部を飲み込んだ。
ただ、たんたんと、その物事の是非を判断し行動する。感情よりも思考。頭で理屈をこねくり回して、気持ちの揺らぎを押さえつけていく。そうやって生を繫いだ。
黙っていてわかってもらえるわけがないから、私はますますひとりぽっちになった。
そして、運命の選定の儀式の日を迎えた。
私が闇属性持ちであったことが周知され、城で暮らすことになった。
あのとき、父も母も困った顔をしていた。たぶん闇属性と言われてもよく理解できなかったのだろう。ただ、私がいなくなることに困った顔をして、でも、悲しんだり嘆いたりする様子はなかった。きっと私はいてもいなくてもよかったのだろう。いや、いないほうがきっと。妹だけが、私が迎えの騎士団が用意した豪華な服を着たのを見て、「ずるいー!」と無邪気に文句を言っていた。素直で可愛らしい我儘。私がずっとできなかったことを最後まで当たり前にしていた。
城に来てから、私は与えられた離宮で暮らしている。
闇の力に詳しい魔術師により、力の調整の勉強も始まった。魔術師はこれだけの力があるのに、一度も暴走させなかったことを大層褒めてくれた。知識ある人により、私はようやく自分がしてきたことを認められたのだ。でも、それを嬉しいと思うことはもうなかった。完全に麻痺してしまっていたのだ。分厚い脂肪に覆われたら外からの攻撃に強くなるみたいに、どんな言葉も跳ね返してしまう。
それに、城の者たちは私についてよくよく指示されているようで、無表情でいることを、無感動でいることを、ひそひそとされたりしないのもよかった。私はここで堂々と能面でいられた。
「やぁ、こんにちは」
そんな新しい日々に、来訪者は突然やってきた。
セドリック殿下は親し気に私に挨拶をした。
それから、こうおっしゃった。
「私はいずれこの国の王となる。戦は嫌いだが情勢によっては動かなければならない。だから、君の強靭な力を必要になったら貸してほしい。そのために、君とは友好な関係を築いておきたい」
私は少しだけ面食らった。自分に力があることはすでに重々承知してはいたが、戦の役に立つというところまで考えてはいなかった。……いや、王城にまで連れてこられたのだから想像できる範疇ではあったが、意識することを避けてきたし、私と接する者たちも少しずつ慣らしていこうと明言を避けてきた話題だった。それをこうもはっきりと告げられて、どう返せばいいのか困惑するしかない。
私が「戦に手を貸すのなんて嫌だ」と言ったらどうするのだろう?
皆が誤魔化してきたことを口にして、台無しになってしまうではないか。殿下は愚か者なのだろうか。
違う。
そうではない。
初めて会ったのに、そんな風に断言できるなど不思議だったが、彼が短慮から口にしたことではないと思えた。むしろ、誤魔化さないところに私は好感を持った。
「やるべきことをこなさねばならないのですね」
そして、私は告げた。
「ああ、そうだよ。僕は皇太子だからね」
殿下は同意された。
それで十分だった。
ただ、そこにいるだけで認めてもらえるような、無条件に愛されていると実感できるような日々を私は送ってはこなかった。そういったものがない私はいつもどこか不安定で、けれど不安になって心を揺らすわけにはいかないから、細い糸の上を綱渡りして生きてきた。
でも、ここではそうではない。
なすべきことをなすために私は必要で、そして必要だから親切にする。この忌まわしい闇の力も肯定してくれる。彼は次期王で、そのためにはなんであろうと力はあった方がいい。私は生まれて初めて必要という価値を得た。厳密にいうなら、それは私というより、闇の力に付与されたものではあるけれど、そんなことは些末な違いだ。私と闇の力は分離できないのだから同一視しても許されるだろう。元々この力のせいで私は孤独になったが、でも今はこの力のおかげで、私の存在に意義と意味を持った。打算的な、理由のある友好関係こそが、私が初めて与えられた私への肯定だった。
それから、殿下はたびたび私のご機嫌伺いにやってきた。
私が師事する魔術師と、世話をしてくれる侍女以外で、唯一私の元を訪れてくれる人。狭い世界で、二人だけで、特に何かするわけでもなく、挨拶を交わし、すべきことはしているかの確認をするだけの、他愛のない間柄。それでも私には得難い関係だった。
「まぁ、殿下! それではわたくしが悪いとおっしゃいますの?」
ゾーイの理解不能という声に現実へと引き戻された。
殿下が私を庇ったのが気に入らないと可愛らしい顔を膨らせている。
「……いや、そうではないけれど、彼女にも彼女の事情があるのだよ」
「そうはおっしゃいますけれど、感情を出さないことと、無表情でいることは違うのではなくて? 貴族たるもの感情を抑えるのは普通。腹が立ってもにこにこしているものだとわたくしは教わりました。ええ、表情とお腹の中で思っていることは違っていても、笑顔でその場を取り繕うことはできるものですわ。そうでなければ場の雰囲気を台無しにします。闇属性持ちだからってそれをせずにいるのは怠慢です。わたくしはそれではいけないと忠告申し上げたのですわ」
殿下は困ったように笑い、ゾーイをエスコートして私の前から連れ去って行った。
これがゾーイと私の出会いだった。
彼女は公爵令嬢で、セドリック殿下の婚約者候補だと知らされていた。未来の王妃様。そうなれば王族に忠誠を誓って生きる私にも深く関わりを持つことになる。
しかも、彼女は光属性を持っている。
光属性。それは人を癒し、与える魔力。
私とは対極の力を持つ少女。
そうでなくても、貴族のご令嬢というだけで何もかもが違う――想像もつかない暮らしをしている人。未知のものは恐ろしい。私は彼女に苦手意識を抱いた。
感情の中には、蓄積されていくものとそうでないものがある。
たとえば喜び。誰かによって、何かによって、もたらされた喜びは、その時々で満たされる。状況いかんではこんなに満たされたのだから、先々がどれほど辛くても、この瞬間を思い出すだけで生きていけるまで思う。けれど、実際のところは難しい。色鮮やかな記憶から距離ができるほどに次第に不満を抱き始める。この先、もう喜びはないのかと考えると目の前が真っ暗になる。
たとえば怒り。誰かによって、何かによって、もたらされた怒りを、素直に表出することが許されずに飲み込んだとして、それは消えてはくれない。時間が経過しても、いや、経過するほど、発散できなかった反動で憎しみが増していく。もうあれは終わったことと言い聞かせてもなくならない。薄まってしまえばいいのに、どんどん粘りを出してこびりついてくる。
反対だったらいいのに。嬉しいことを忘れず、腹立たしいことを忘れる。でも実際は逆で、蓄積したくないものほど蓄積してしまう。
ゾーイはお茶会以降も、なにくれと私に物申してきた。
平民に過ぎない身分でありながら、王家に必要とされて王宮に招かれ暮らしている。これほど恵まれているというのに、表情がなく、暗く、陰気で、何が不満なのか。もっと感謝するべきなのに、とても傲慢。
言い方は違えど――ただ闇属性を持っているというだけで、取り立てられるなんてずるい――要約するにそういうことだった。
そして、彼女の言葉に賛同する子たちも多かった。
驚くべきことに彼女たちは私をやっかんでいたのだ。
小さな村で、不気味と嫌われ遠巻きにされてきた私が、煌びやかな生活をする貴族のご令嬢たちから羨ましがられる。これを皮肉と呼ばずに何と言うのだろう。
だが、蔑みも、やっかみも根底は一緒だ。
相手を深く知りもせず、ただ見えているものだけで判断し、排斥する――それを寂しく思ってきた。ずっと、寂しくて、ずっと、悲しくて、きちんと理解されたかった。自分から理解されようとはしなかったくせに、誰かが少しでも興味を持ち、おかしいと感じ、声をかけてくれていたらと考えたことがある。私はそのようにしてもらえる人間ではなかったことを切なく思ったことがある。それが再び繰り返されている。
どこに行こうと私が私である以上、こうなのだな。
諦念、諦観。私には情熱というものがおおよそなかった。ずっと諦め続けてきたから、そうすることが最も痛みを感じずに済むから、だから、私はこれまでそうであったように、彼女の言葉を黙って聞く。反論も、同意も、何もせずに、ただ黙って。そもそも感情的になることを禁じられていたし、そうすることに慣れ切っていたので、たいして難しいことではなかった。
「困ったものだよ」
恒例となっているお茶会で、セドリック殿下はおっしゃった。
私は最初それが誰のことを指すのかすぐにピンっとこなかった。私は彼にとっての切り札であり彼の邪魔になりそうな者たちの話を聞かされている。王家を巡る貴族間の権力争いという国内の人間関係から、近隣諸国との関わりまで、機密に近しいことまで知っている。命令が下れば私は指定された人物の生命力を奪いつくす。それが私がここで暮らしていく対価である。とはいえほいほい実行していては恐怖政治になるため、表立って力を使うときは私の力を疑う者に対して見せしめに威圧を行う程度だけれど。それでも、我が国が闇属性の人間を保護している――そう周知するためのパフォーマンスとしては有用で、情報だけで抑止になる。
「彼女の言動は近頃目に余るだろう? どうやら力も弱まっているようだね」
続いた言葉に、それが想像していたような国家の要人ではなく、ゾーイのことだとようやく理解した。
その通り、ゾーイの私に向ける感情はここ数年より悪辣なものになっていた。
たとえば夜会。近頃では近隣諸国からの来客があるときぐらいしか顔を出さずによくなったが、一時期は私の存在を誇示するという目的で頻繁に出席させられた。エスコートは婚約者の決まっていないセドリック殿下である。婚約者候補のゾーイはこれが気に食わない。彼女は公爵令嬢として政治的政略的な立場とは別に、個人的にも殿下に思いを寄せているので仕方ないことだとは思う。
だが、その嫉妬心をぶつけられるのは困る。
私が一人になると目敏く近寄ってきては、
「貴方はどれほどわたくしが忠告してさしあげても何も変わらないのね。相も変わらず仏頂面で、殿下がお可哀想。そんなに嫌ならご辞退なさればいいのに」
などと言うのだ。
もっともらしい言い分で、正しそうな忠告を装って、だがその裏側にあるのはやっかみである以上、光属性の力が落ちていくのも当然だろう。
光属性――私はその力について学ぶ中で知った。
光属性は稀有な力だが、実際は光属性を継続させることが難しいだけで、発現する者は一定数いる。では何故継続が難しいか。光属性が糧とする慈悲の心、思いやりは喪失しやすいからだ。
人は脆く弱い生き物で、自分が満たされていない状態では慈悲や思いやりを持ち続けることは難しい。いついかなるときも、自分が不幸であるときまでも、親切であるなんて、そんなことができる者は人間ではなく化け物である。
故に、光属性が発現するのは貴族が多い。
衣食住が満たされ、心に余裕があり、人を思いやれる環境にいるのだから、可能性が上がるのは理解できた。それでも全員に発現するわけではないので、元々の気質によるところも大きいのだろう。
だから、ゾーイに光属性が発現したのは公爵令嬢だからだけではないとは思う。だが、彼女の不幸は両親がその事実を喜びすぎたことだろう。彼らは何をしても、何をやっても、流石は光属性を発現させただけはあるとゾーイを褒めたたえた。すべてを肯定される生活――いくら両親がそのように振る舞ったところで、世に出れば自分の正しさだけが正しさではないと知る。様々な人間がいて、様々な考えがあり、世界は多面的であるとわかる。だが、彼女は公爵令嬢で、力があった。なまじ彼女の言動が間違ったものではなかったが故に、権力にあやかろうと、或いは権力を恐れて、皆が両親同様に彼女を肯定した。結果、彼女の世界が広がることもなく、自分は優しく立派な人間で、だから光属性を得たのだと信じ切った。こうしてゾーイ・モリスという少女は形成されたのだ。
自分が最も立派で、慈悲を与える立場であるという世界は、今も何も変わってはない。ただ、一つの例外を除いて――それが私だ。
あの日、七年前の出会いの日。
ゾーイにとって、生まれて初めて否定を受けた。
皆のために、私に注意したのに、それを殿下に窘められた。何故? どうして殿下は自分の味方ではないのか? ――ゾーイには信じがたいことだっただろう。
彼女の真っ白な心に、一滴の黒い雫が落ちた。
あれからずっと彼女は私に固執している。汚点は取り除かなければならないから。そして、その取り除き方は、私が改心することでしか果たせないと思っている。
「殿下から、お話しにはならないのですか?」
公爵令嬢で且つ光属性持ちなんて婚姻相手として最良だ。せっかく好条件なのだから、このまま彼女が光属性を継続していられるように、何かしら策を講じることはしないのか。彼女は殿下を好きなのだから、殿下の言葉なら耳を傾けるのではないか。どうにかできるのではないか。私は単純にそう思った。
「話なら何度かしたよ。君のことを、闇属性というものについて、彼女が私と婚姻を結ぶならよくよく理解して、君への敬意を持ってもらわなければならないからさ。でも、その度に彼女は言ったんだよ。私だって大変な思いをしている。彼女だけが特別ではない。それなのに甘えている。それは正すべきだとね」
殿下の目に暗い影が差した。
私は彼女が逆鱗に触れたことを知った。
「私だって大変な思いをしている……それは事実なのでしょうね」
「ああ、そうなんだろうね。孤児院や病院で傷ついた人々を癒す行為は簡単なことではないだろう。だから私から言うべきことはもうないかなって……モリス家も少し増長しすぎているし、頃合いだろう」
何が大変で、何が大変でないかを判断するのは自分自身でしかない。当人が大変だというのならそれを否定することなどできない。たとえそれが私の目には左程大変に映らなくても、それはしてはならない。人の痛みは人の尊厳だ。
だから、私たちは彼女の大変さを肯定する。
けれど、彼女は私の大変さを否定した――故に殿下は彼女を諭すのを諦めた。
殿下は特殊な地位にいる方だ。理解されない苦悩を知る人の前で、無理解を披露するのは悪手すぎた。それをわざわざ口に出して説明する気はないし、そのような人物を将来の伴侶にはできないというのが殿下の下した判断。見限られるときは静かに見限られる。
「近々、動きがあると思うよ」
殿下は優雅にお茶を飲みながらおっしゃった。
その日はほどなくやってきた。
ゾーイが光属性を失った。
だからといって、何かが大きく変わるわけではない。光属性がなくなっても彼女は公爵令嬢なのだ。貴族の令嬢としてトップの地位にいることは揺るぎない。
むしろ、悪い評判が立ったのは私だ。
ゾーイの力がなくなったのは、私のせいという噂が流れたのだ。
「不敬すぎて笑ってしまうね」
セドリック殿下は美しい双眸を細めておっしゃった。
噂の出どころはモリス公爵家だ。
娘が親切に忠告していたというに聞き入れずに逆恨みして呪ったに違いない。王家の後ろ盾があるからと好き勝手に振る舞って、あのような忌まわしき力を取り込もうとする王家も洗脳されているのではないか。この国の貴族として憂慮する。
モリス公爵がゾーイのこととは別に、私の存在を疎んじているのは知っていたが、流石にこのような話を流すのはセドリック殿下のおっしゃる通り王家への不敬だ。
「モリス公爵家は、王家の傍系になる家だし、陛下と現公爵は学生時代から仲が良かったというので随分大目に見てきたが、私にはそんなもの関係がない。未だに君の力を軽んじる発言をするのだから、そろそろわからせてあげよう」
「仰せの通りに」
私は両手を前で交差させて、膝を折り、忠誠を示した。
黒のローブを羽織る。
それを着るときだけ、私は感情を揺らすことができる。
そのように力を調整する訓練を積んできた。
私が初めてこのローブを着て、命を奪ったのは、城に来て二月が経った頃だった。
丸々とした兎が鉄の籠に入っていた。
意識を集中して対象を捕獲する。兎はぶるぶると震えだし、くたりと動かなくなった。はじめて命を奪い切ったが、動揺はそれほどなかった。兎鍋を食べたことがあったから。狩人が獲物を射るのと何も変わらないだろうと諭され、私は納得したのだ。納得するしかなかった。
その夜の夕食は、兎肉のステーキだった。
私は全部食べて、そして全部吐いた。
兎、鶏、豚、鹿、熊――人。
対象が本来の目的に到達したとき殿下はおっしゃった。
「ありがとう」
私は首を振った。
「いいえ、やるべきことをこなしただけです。礼には及びません」
殿下に認められた私は、貴族たちの前にも出ることになった。
暗部に徹すると思っていたので驚きはあったが、存在を詳らかにする方が抑止になるというのと、私にどのような態度を見せるか試金石にもなるというので表舞台に引っ張り出された。
貴族たちの反応は概ね否定的だった。
あまりに目に余る振る舞いをした者には見せしめに威圧をした。私の力が本物だと分かれば目を付けられては困るとあからさまな態度をとる輩はいなくなった。それでも、陰では揶揄や悪口は止まらなかった。
「平和というのは恐ろしいね」
殿下は憂えていた。
本当に恐ろしいと思う。私がその気になればすぐにでも命を奪い切ることができるのに、彼らはまだどこかでそれを現実のものと認識できてはいないのだ。目の前で私の威圧に倒れた者を見ても少し体調が悪くなる程度とそれより先の不幸を考えない。我が国は身分制度があるとはいえ法治国家だから、いくら王家とはいえそこまで無茶をするはずがないと思っている。実際、余程のことがない限り無茶はしないのはその通りだが、それでも危機管理能力が機能していないのはいかがなものか。今もって、戦争を行っている国は存在しているのだから。
一方で、近隣諸国の中でも大国と言われるロキシア帝国からは特使が送られてきて私への献上として美しい織物や宝石が届いた。近年、我が国とはそれほど密な国交を行ってはいないというのに。
「殿下がお知りになりたかったことがおわかりになりましたね」
殿下はこの国の安寧のため考えうる最悪を想定し対処する方法を用意する。それが理解されようがされまいがやるべきこととしてこなしていく。ただ、それでも知ってはおきたいのだ。誰が理解者で誰が理解者ではないか。
王宮の謁見の間でモリス公爵と娘ゾーイが並んでいる。
私は深くフードを被って、セドリック殿下の傍に立っていた。
「今日の呼び出しの理由はわかっているかな?」
殿下の問いかけにモリス公爵はニヤニヤと笑う。
何故、笑えるのか私には不思議だった。
「娘と共にとのことでしたので、それはもう心得ております。婚約が内定したのでしょう」
「……どこまでもめでたい頭だな」
本当に、おめでたい。
確かに殿下の婚約者の選定は大詰めに入っているが、もし内定したのであればまず先触れが届けられる。根回しは貴族社会の基本だ。だからこれは単なる召喚でしかなく、そして召喚される心当たりならあるはずだが……自分には良いことしか起きないと信じていられる図太さはある意味では尊敬に値する。
「其方が、ここにいる闇の女神の悪評を流している件について申し開きがあるのなら申せ」
殿下はモリス公爵の世迷言を無視して本題を告げた。訂正する気も起きないのだろう。
それにしても闇の女神はやめてもらいたい。
「悪評などとそのような……」
「ゾーイ嬢が光属性を失ったのは呪われたからだと主張しているのだろう? 彼女は私が直々にその身を保護している。それを知っていて尚、そのような話をするということは私への不満があるということではないか」
「いいえ、そのようなことは。殿下に不満などあるわけがございません」
「ではなにゆえ、このような出鱈目を流す」
「出鱈目では……事実、我が娘は光属性を失ったのです」
「それと彼女に何の関係があるというのか」
「ですから、その娘がゾーイを呪ったせいで失われたのです」
私が力を奪った証拠を示せと求めているのに、ただその主張を繰り返すばかり。
公爵様がそうおっしゃるならば……日頃からそのように言われているのだろう。自分の言うことに間違いはないと、無条件で信じてもらえると、当たり前に思っている。
「公爵はこう言っているが、ゾーイ嬢はどう考えている?」
殿下の問いかけにゾーイは俯きがちだった顔をあげた。
肌の艶を失い、頬がこけ、魅力的だった大きな目は窪んでギョロギョロと動く。見るからに憔悴していた。
「わたくしの力が失くなりましたことは真実にございます。その原因となるべきことは一つしか思いつきません」
ゾーイは私を見た。
「光属性は継続させるのが困難なもので、発現から数年で力を失うのが常だ。君もその時期がきただけとは思わないのか?」
「いいえ、わたくしは……わたくしは十年以上も継続させてきたのです。他の者とは違うのです。わたくしの慈悲を否定して言うことを聞かずにいたその娘が呪ったと考える方が自然。だって闇の力とは奪うものなのでしょう?」
「そうか。それは真に残念だ」
殿下は静かに告げた。
殿下の発言を肯定ととらえ公爵はわかりやすく「おお」と喜色を浮かべたが。
私はフードを脱いだ。
対象者を捕獲する。
途端、ゾーイが膝をついた。かはっと呼吸を求めて口がだらしなく開くが悲鳴がもれることはなかった。そんな余裕もないのだろう。代わりに声を上げたのは公爵だ。
「何を慌てる、公爵。其方らの言い分の通りになっただけであろう?」
「は、はぁ?」
「ゾーイ嬢は闇の女神に呪われたのだろう? まさに、その通りに呪われ、今まさに生命力を奪われ絶命する。可哀想に思うよ。だが、彼女も故意にしたわけではないのだ。闇の力の暴走。そのきっかけを作ったのは他ならぬ、ゾーイ嬢、君だ。夜会でも闇の女神を糾弾している姿はたびたび目撃されている。闇の魔力は感情に起因する。我慢に耐えかねて感情が爆発して暴走したとて自業自得というものではないか。覚悟の上であったと諦めよ」
私は殿下の傍を離れて彼女に近づいていく。靴の踵が大理石を蹴る音が響いた。カツン、カツン、と距離が埋まる。
彼女の美しかった金髪が、ゆっくりと朽ちて白くなり、生命力を失っていく。
私はその光景を眺める。
ゾーイは大理石の床に崩れ落ちた。
地べたを這いずるような真似、これまでの人生で一度もしたことはないだろう。
一度もすることなく終える選択もあったはずだ。
だが、彼女はここでこうして死ぬ。
すべて、私のせいなのだろう。
彼女と出会った茶会。その二週間前、私は殿下から厳命を受けて仕事をこなした。この力を使って最初の人殺し。王家に仇なす者を葬る。それが私に与えられた役割。仕事を終え、その忠誠を認められ、私のお披露目にと開かれたのがあのお茶会だった。
茶会には私と同じ年頃の子どもたちもいて、甘いお菓子と、紅茶が並んだテーブルで、流行りのリボンや髪飾り、新しく作ってもらうドレスのこと、キラキラと楽しげな会話が繰り広げられていた。
その中でもひときわ明るく目立つ存在。皆の中心にいたのがゾーイだった。
公爵家の娘で、光属性を持ち、傷ついた人々を癒して回る優しいご令嬢。
私は事前に茶会の招待客たちを教えられていたが、顔と情報は一致してはいなかった。でもゾーイだけは一目見てわかった。そこにいるだけで輝きを放つ姿はとても眩しくて、私は不躾に見てはいけないと思いながら意識せずにはいられなかった。
だから、彼女が近づいてきたとき柄にもなく緊張した。
お姫様みたいな女の子が私に話しかけてくれる。慈悲深い光の力を持つ少女は、私のような者にも気をかけてくれる。――憐れにもそんな風に思っていた。しかし、告げられたのは辛辣な非難で、自分ばかりが頑張っていると思うなと言い放たれた。
その発言は、他の子たちのためのもの。彼女が慈悲を向ける者たちが楽しく過ごすために私は邪魔者で、彼女の優しさが思いやりが向けられる中に私は含まれない。
光は、私には注がれない。
そんなの今にはじまったことではない。いつだって私は仲間外れで、いつだって私はひとりぽっちだった。今更何も驚くことなどないはずだ。だいたい、私の手は血に塗れて、もう引き戻せないほど汚れてしまったのだ。まともな生活に戻れるはずがない。真っ当な関係を結べるはずがない。煌びやかな世界になど歓迎されるはずがない。それなのに――それなのに、私は彼女に優しくされると一瞬でも思ったことがたまらなく恥ずかしかった。無自覚に、無意識に、光の力を持つ彼女は特別だから、誰にでも優しくしてくれると、私にも優しくしてくれると、そう期待していた。
何を夢見ていたのだろう。
私は羞恥で心が乱れないように、黙り込んだ。
あの日から、ずっと私は彼女の前でだんまりを決め込んでいる。
私は、きっと怒るべきだった。
何も知らないくせに、綺麗な場所から自分の正しさだけを握りしめて、世界を取捨選択できると、それを許されると疑うこともない、そんな貴方に何がわかるのだと。自分ばかりが頑張っていると思っているのはどちらなのかと。私がしていることを貴方にできるのかと。同じ土俵に立って、罵り合うべきだった。
そうすれば、彼女は私を羨むことなどなく、こんな風に拗らせて、こんな風に惨めな最期を迎えることなく、幸せなお姫様でいられたはずだ。
けれど、私は一切の反論をしなかった。
それは何も、彼女を幸せにしてやるものか、何も知らずに私をやっかみ続ければいいと見下していたからではない。――私は、彼女から嫉妬されることを好ましく思っていた。私なんかを羨ましがり嫌味を言う間は、彼女の世界に私は存在したから。まばゆい光の世界で生きているはずの彼女が、闇と向き合うことなど本来ならありはしない。私はその事実が嬉しかった。
それに、私の真実を告げたら、きっと彼女は断罪する。
人の命を奪う役割など、彼女は許さない。
たとえばそれが国家のために必要であるとしても、人の命は尊いのだからと正しさをもって糾弾し、それでもやめないとわかれば私の存在をなかったものとして、今度こそ完全に彼女の世界から排除されるのだろう。
それが、とても恐ろしかった。
光が、失われることが。
彼女が私と向き合うとき、彼女の中の一番醜い部分で私を見ていたのだろうけれど、それでも私には彼女は美しく光り輝くものだった。彼女の汚泥のような感情も、私には美しいものだった。
私の光。
私の憧れ。
憎めなくて、ごめんなさい。
腹を立てられなくて、ごめんなさい。
嫌えていれば、怒りを感じていれば、私は沈黙せずに言い返し、そうしたら彼女は何処かの段階で、私を切り捨てて、幸せに暮らしていたのだろう。そうさせずに、地べたに引きずり降ろした。
ゾーイの碧い目に宿っていた光が小さくなっていく。
私はそれを真っすぐに受けとめる。
最後の力を振り絞るような、苦しみと絶望と怒りと憎悪、それから恐怖の浮かんだ瞳は、それでもどうしても美しかった。
読んでくださりありがとうございました。
ご感想、ご意見等ございましたらお手数ですが下記の「web拍手ボタン」からいただけると嬉しいです。ご返信は活動報告にてさせていただきます。