ようこそ「0」へ
時計の動作音だけが響く室内
窓から入って来る光が白い矢となって眼球を攻撃してくる
たまらずカーテンを閉めるもその攻撃は激しい
おまけにその矢は熱気と湿気を纏い、建物全体を蒸しあげていく
僕は暑さに耐えかねてエアコンのスイッチをオンにした
溜息を吐くように、排出口から冷たい空気があふれ出て来る
「あっちーなぁ・・・」
暑さのせいなのか、読みかけだった本を読破した夜のせいなのか
どうも頭が冴えない
脳には靄がかかり、電気信号を伝達するはずの脳細胞は鳴りを潜めている
どうやらカフェインと程よい糖分が必要らしい
柔らかいミルクのコクとひんやりとした冷たさも欲しいところだ
すんなりとアイスラテを思いつき
アイスラテを求めて身支度を始めた時、1人の女がドアを開けて入ってきた
肩で切り揃えられた真っ直ぐな黒い髪
うっすらと血の色をたたえた紅の唇
白いワンピースからは、同じような白さの華奢な手足が顔をのぞかせている
女ではない。女の子といった方が的確だろう
「こんにちは」
にっこりと微笑みながら、真っ直ぐにこちらを見ている
「あぁ、すいません。ちょうど出かけようとしていまして。どうぞこちらへ」
バタバタと手荷物をデスクに置きながらソファーへ促す
「はい」
返事をしつつ、辺りをきょろきょろと見渡しながら女の子がソファーへと向かう
「何か飲みますか?」
落ち着かない様子の女の子に声をかけると
「あ、えぇっと、オレンジジュースありますか?」
少し戸惑っていたが、屈託のない素直な返事が返ってきた
「オレンジジュース・・・あったかな・・・・」
冷蔵庫内をゴソゴソと捜索していると
「別に何でもいいですよ。水でもお茶でも」
慌てた様子で女の子が声をかけてくる
「あぁ、ありました、ありました。氷入れますね」
冷蔵庫横に置いてあるステンレス製の棚からグラスを手に取り
製氷庫からガラガラと氷を入れていると
「暑いですね・・・・」
うんざりとした様子で女の子がつぶやいていた
「そうですね。まだ、5月なのに・・・」
こぼさないように注意深く持ちながら
ソファーに浅く腰掛けている女の子に手渡すと
すうっと手に取り、こくんと1口ジュースを飲みこんだ
少し落ち着いたのか、女の子はふぅ・・・と一息ついた後
手に持っていた鞄から封筒を取り出してテーブルの上に置いた
目的だったアイスラテではないが、冷たいお茶を持ちながら
僕もゆっくりとソファーに腰掛ける
テーブルの上に置かれた封筒に目をやりながら
「はい。分かりました。拝見させて頂きますね」
そう言ってから手に取り、中に入っていた紹介状に目を通す
きちんと紹介状に目を通した後
「ようこそ「0」へ」
言い慣れたその言葉を僕は、いたって普通な音量で言い放った
「暁脳循環器センター」これが大元の施設だ
脳や循環器の病気を専門にしている
大きな施設でベット数も多い
脳死に伴う臓器摘出手術や臓器移植手術も行っている
この施設から少し離れた奥まった場所に「0」がある
大元の施設と通路でつながっていて、距離もそんなに離れているわけではないが
周りに植えられている木々が視覚的に距離感を生み出し
大元の施設に対して少し斜めに建設されている事もあり
パッと見で分かりづらくなっている
表向きは「暁脳循環器センター精神科」として存在している・・・が
本質は、本来の医療目的とは真逆だ
生きるため・・・ではなく死ぬため
死にたい人が臓器提供をしにくる場所・・・それが「0」だ
生きたい人には生きてもらい、死にたい人には死んでもらう
そこには社会の営みとも言える需要と供給が成り立っている
需要と供給か・・・・そんなことを考えていたらなぜか自然と笑いがこみあげてきた
口角がすっ・・・と上がっていくのを感じる
「楽しそうですね」
少し首を左に傾けながら、女の子がこちらを見ている
「あぁ・・・そんなに楽しくもないんですけどね・・・」
皮肉交じりの女の子の問いに
つい、僕もそれと同じようなニュアンスで返事を返してしまっていた
その場の空気が微妙に歪んでしまったことに気づいた僕は
それを悟られぬよう、平静を装って書類を取りにデスクへと向かう
多少怪訝そうな表情を見せつつ、女の子はジュースに手を伸ばしていた
「では、こちらに記入をお願いします」
テーブルに書類を差し出しながら女の子に記入をうながす
もったりと体を起こしながら、女の子は書類を覗き込んだ
A4サイズの紙2枚にいくつかの記入事項が書いてある
しげしげと内容に目を通しながら女の子が口を開く
「めんどくさいなぁ。書くことってニガテなんですよね」
「あぁ、適当でいいですよ。あくまで形式上のものだから」
「すべてが終わったらきちんと処分しますから安心してください」
女の子の正直な感想と、若干の不安を感じた僕は
にっこりと微笑みながら、そう言葉をかけていた
「そうですよね!死んじゃえば何も必要ないですもんね!」
満足そうに頷きながら女の子はペンをとり、黙々と記入を始める
エアコンの動作音だけが響いている室内
記入を終えた女の子がそっと書類を差し出す
「では、1週間後にまたいらしてください。都合が悪いときはこちらに連絡を」
差し出された書類に目をやりながら、名刺を手渡す
ちらりと名刺に目をやり、女の子は持ってきた鞄にそれをしまいこんだ
「では、よろしくお願いします」
そう言って女の子はこの場を後にした
あいかわらず蒸し暑い日が続いている
夏本番の7月や8月になったらどうなってしまうのだろうと思いつつ
書類の整理に追われていると、あの女の子がドアを開けて入ってきた
「こんにちは」
薄いピンクのワンピースに、つやのある黒髪には
赤いリボンのついた麦わら帽子が乗っかっている
「こんにちは。どうぞこちらへ」
促すのと同時に女の子はソファーへと向かっていく
オレンジジュースを用意していると
「今日は、何をするんですか?」
何気ない疑問をこちらに投げかけて来た
「そうですね・・・今日はカウンセリングです」
カウンセリングという言葉に身構えてしまったのか
女の子はきゅっと唇を噛む
「難しく考えなくていいですよ。単なる世間話です」
軽くウインクをしながらジュースを手渡すと
女の子は、にっこりと微笑みながら嬉しそうにジュースを飲み始めた
「さて・・と」
先日書いてもらった書類と提出された紹介状に改めて目を通す
14歳女性、AB型、○○メンタルクリニック通院
「紹介状、読ませて頂きました。よく来たね。分かりづらかったでしょう?」
こくこくとジュースを飲んだ後、女の子が頷く
「0」は、ほとんどが紹介制だ
精神科や心療内科に通院している患者さんの中で
患者さん自身がカウンセリングや投薬治療に限界を感じ
患者さん自身が本当にそれを望んだ時
ここを紹介する・・・というシステムだ
現在の生と死の倫理観からするとそれにそぐわない部分が多々あるので
アンダーグラウンド的にこのシステムに賛同している医師のみで「0」は成り立っている
「ほんと、分かりづらかったですよぉ」
「紹介っていっても、変な地図渡されただけだし・・・」
ひとしきりジュースを飲んだ女の子が不機嫌丸出しでつぶやく
「そうだね。かなり不親切だよね。でもちゃんと辿り着いたでしょ?」
あまりにも素直な感想に笑いをこらえながら答える
「じゃあ・・・・話を始めようか。ここがどんな施設かわかる?」
キョトンとした表情で女の子が答える
「死にたい人が臓器提供をしにくる場所でしょ?」
何を今さら・・・といった面持ちでこちらを見ている
「そうだね。じゃあどうして死にたいのかな?」
「生きているから。生きているのなら必ず死ぬでしょ?」
即答で女の子が答える
「そうだね。でも生きていれば楽しいこともあるんじゃないかな?」
その問いかけに女の子は鼻で笑いながら答えを返した
「楽しい?じゃあ聞くけど楽しいって何?」
「そうだな・・・ご飯がおいしかったとか、面白い動画を見つけたとか」
「それ、楽しいじゃなくて、おいしいと面白いだよ」
「そうだね。でもその延長線上に楽しいがあるんじゃないかな?」
「話にならない。もっと他の話をしてよ」
女の子は呆れた様子で、どっかりとソファーにもたれこむ
「そうだね。じゃあ・・・・」
僕が話をし始めようとした瞬間
「あのさ、どうして人は生きているのか知ってる?」
嬉しそうに僕の顔を覗き込みながら問いかける
「どうしてかな?」
その話に興味があるような面持ちで、僕は身を乗り出した
「心臓が動いてるからだよ!」
そう満足そうに言い放つと、とても嬉しそうに笑い始めた
「みんな、バカなんだよね~そんな単純すぎて当たり前のことも分からないなんて」
「みんな、生まれてきたこと、生きていることに意味や理由や使命をつけたがる」
「みんな、動物的繁殖行為の末、生まれて来ただけなのにさ!」
「子供を作るなんて全部、親のエゴ」
「好きな男や女をつなぎ留めたいから子供を作る」
「くだらないホームドラマを体感したくて子供を作る」
「世間体で子供を作る」
「子供を盾にして、自分自身を弱者として世間に認めてほしいから子供を作る」
「全部自分自身のため!!自分の欲を満たしたいだけじゃん!!」
矢継ぎ早に言い放った後、女の子はさらに声高に笑い出した
「そうだね。確かにそのとうりだ」
僕のこの淡々とした口調が意外だったのか
ピタリと笑うのをやめた女の子が不思議そうな顔で僕を見る
「君は頭がいいね」
「それに、生きているということは首輪がついている・・・という事でもあるんだよ」
「君にはわかるよね。社会の仕組みが」
「働いてお金もらって税金を納めてってやつでしょ・・・」
首輪の意味が分かり始めたのか、女の子は頷きながらソファーにもたれる
「人間は、みな同じなんだ。どこの国で産まれようが」
「産まれたら必ず首輪がつけられる」
「人として社会に産まれて来たら社会を回していくという首輪がね・・・」
「だから、さっき君が言っていた生きている意味だけど」
「それなりに意味があるんだ。強制的にね」
「その首輪は死ぬまで取れない。人としての命が終わるまで」
「それに、人はみな考え方が違う。思想や思考が違うんだ」
「ゆえに摩擦が生まれる。だから苦しい。もう1つの首輪かもしれないね」
「みんな、その首輪を少しでも緩めたいんだ。だから、欲望にはしる」
「弱肉強食は自然界にあることだけど、人間界では陰湿で、えげつない」
「自分の欲望を満たすために皆、血眼になりわがままになる」
「その陰でダメージを受ける人が日々量産されているのに」
「そのことに気づけない、気がつかない、気づこうとしないんだ」
「でも・・・君は気づいていたんだね。僕が今話したことすべてを」
僕の話を黙って聞いていた女の子がニヤリと笑いながら体を起こす
「そう。だからうんざりなんだよ。バカばっかりでさ!!」
「資本主義社会である以上、搾取する側とされる側の構図からは逃れられないし」
「必然的に貧富の差が生まれるという現実からも逃れられない」
「学校っていう狭い社会でも似たようなもん。ヒエラルキーってか!!」
「政治家や富裕層は自分の私腹を肥やして、庶民は底辺で這いずり回ってるってか!!」
室内いっぱいに奇声とも言える女の子の笑い声が響き渡る
のけぞって笑っていた首をゆっくりと戻しながら
「だから終わりにするんだよ。このくだらない現実を」
「うんざりなんだよ・・・・すべてが・・・・」
女の子は疲れ果てているのだ
このどうしようもない現実に
人として産まれてしまった・・・という事実に
僕を見ているようだった
そもそもこのシステムを思いついたのも根底にそれがあるからだ
人として産まれてしまったという事実
人として社会で生きていくという現実
その事に、僕自身も疲れ果てていたのだ
安楽死ですら喧々諤々で認められていない、議論すらほとんどされていない
カラダの細胞が壊れ続けて暴走、または機能を停止し
正常な機能を果たせなくなりそれに伴う耐え難い痛みや苦しみを
イヤというほど味わっているのに自由に死を選択することが出来ない
医療の限界に達している目に見える病で苦しんでいる人達だってこのありさまだ
精神的に苦しんでいる人達はもっと厳しい
その痛みや苦しみは誰にも見えない、本人にしか分からない
どんなに苦しくても、痛くても誰にも分ってもらえない
その苦しみを吐露したところで完治出来るような解決策は誰からも得られない
自殺者は年々増え続け、児童虐待も後を絶たない
突発的な殺人事件も多発している
苦しんだ末に、さらに苦しみながら自らの命を絶った人
自分の苦しみを他人を傷つける事で解消しようとした人
悩み苦しんだ人が死ぬ時まで苦しむ必要があるのだろうか
他人を傷つける前にそれを解消することが出来なかったのだろうか
そんなことを考えている時に、臓器提供を待ちわびる患者はたくさんいるが
ドナーとなる患者は圧倒的に少ない・・・という現状を知ったわけだ
外科医を目指していたが精神科の医師となり、クリニックを開業していた僕は
死を渇望している人の臓器を臓器移植を待ち望んでいる人に
提供できないだろうか・・・と考えたのだ
自由に選択して生きる権利があるのなら
自由に選択して死ぬ権利があってもよいのではないか・・・と
「ねぇ、ジュース飲んじゃったんだけど、まだあるかなぁ」
カラカラと空になったグラスを揺らしながら軽やかな足取りで
女の子が冷蔵庫へ向かっていく
「何考えてんのかわっかんないけどさ、救われてるよ。私はね」
冷蔵庫に頭を突っ込んだまま僕に話しかける
「死ぬのって勇気いるじゃん?」
「私、自殺する人って勇気あるなぁ・・・って思ってたんだ」
「ある意味、尊敬してる」
「痛いのも苦しいのもイヤじゃん」
「それに比べたらここは最高。麻酔で眠ってしまえばそれがピリオド」
「痛くも苦しくもない、安らかな永眠が手に入る」
「それに私の臓器が誰かの役に立つなんてオマケ付き」
ほくほくとした足取りでソファーに帰って来る
その様子を微笑ましく感じながら、僕は女の子に問いかけた
「じゃあ、死ぬってことはどういう事なのかな?」
「心臓が止まるって事でしょ!」
「そのとうり。その他に未来が途絶えるという意味もあるんだ」
「なあにぃ?お説教じみた、くだらないおとぎ話でも始めるつもりですかぁ?」
ニヤニヤしながら女の子が僕の顔を覗き込む
「そうかもしれないね。でもある意味事実でもある」
「誰も自分の未来に起こる事を予知できない」
「唯一、分かっていて確定しているのが死ぬ事だ」
腕を組み、憮然とした表情で女の子は僕を見ている
「ゴールは決まっている」
「じゃあ、そのゴールに向かって自分が何を選択し進んでいくか・・・」
「それが未来。ただただ日々、漫然と流されて進んでいく・・・それも未来」
「そういった未来という名の事柄があるのは事実だろ?」
微動だにせず、同じ体勢のまま女の子は黙っている
「良い事もあれば悪い事もある」
「首輪がつけられているから基本ベースとしては悪い事の方が多い」
「そんな中でも自分が心地良いと思える事柄に出会うこともあるわけだ」
「それは小っちゃかったり大きかったり、それ自体に出会える回数も人それぞれ」
「その心地良さを自分で作り出すこともできる」
組んでいた腕をほどいて、だらりと体をソファーに預けながら呆れ顔で女の子が口を開く
「はいはい。夢や希望・・・・ってやつでしょ」
「夢や希望に向かって努力しましょ~努力はムダにならないですよ~ん」
「あのさぁ、それって何の解決策にもならないんだけどぉ」
「そんなもん、効き目の短い麻薬みたいなもんだよ」
「いつだって現実は、最強で残酷」
そう言って女の子はテーブルに頬杖をつき、にっこりと微笑んだ
「そうだね。そのとうりだ」
女の子に合わせて僕もにっこりと笑う
「要するに、いろんな経験を体感出来る・・・ってことなんだ」
「その機会が途絶えてしまう・・・っていうことなんだよ」
女の子がグラスを手に取り、氷を口に含む
イラついた様子でガリガリと氷を嚙み砕き始めた瞬間
手に持っていたグラスを思い切り床に叩きつけた
グラスは見事に砕け散り、破片が氷と共に散乱している
ゆっくりと立ち上がった女の子がそこへ向かい
大きな破片を手に取り、僕の方へ歩みを進めてきた
その破片を僕の目の前数センチに突き当て
「うるせぇーなぁ・・・オマエもそこらへんの人間と同じかぁ?」
握り締めている破片には血が滲み、それが手首の方まで流れてきている
顔を近づけて、ニヤリと笑うと
「それが何になるっつーんだよ。疲弊して摩耗するだけだろぉ?」
そう言いながら破片を持っていた手をすっ・・・と振り上げた
僕はその女の子の一連の行動をたじろぎもせず、ずっと見ていた
恐怖や怒りを面に出すこともなく、そっと、ずっと見ていた
すると、女の子は疲れてしまったのか
電源が切れたかのようにその場にペタリと座り込んでしまう
目はうつろで、ぼぉ-っと遠くを見ている
僕は女の子の元へ行き、その手から破片を取り出そうと試みる
だが固く握られたその手からは、なかなかそれを取り出せなかった
仕方なく女の子を抱き上げてソファーへと向かう
そっと女の子を横たえると、グラスの破片がポロリと床に落ちてきた
血の付いた破片がペタリと床に張り付く
固く破片を握り締めていた掌からは、じわじわと血が滲み出ている
傷の深さを確認し、止血処置をする
いつの間にか女の子は眠っていた
膨大な感情に身体が耐えられなかったのだろう
女の子の呼吸と共に胸元が静かに、ゆっくりと上下している
一息ついた時、ふと、オレンジジュースの残量が気になり僕は冷蔵庫へと向かった
案の定、ジュースが底をつきかけている
ジュースを補充すべく、身支度を始める
目覚めた時、女の子が欲するであろうジュースを買うために
にっこりと嬉しそうに微笑みながらジュースを飲む女の子のために・・・
2リットル分のオレンジジュースが入っているビニール袋が重い
指に食い込むビニールがその重さを物語る
その重さに苦戦しつつドアを開けると
女の子が窓を開けて外を眺めているのが見えてきた
エアコンがついているのに窓を開けて外を見ている
ジュースを冷蔵庫に入れるため室内に入っていくと
「おかえりなさい」
女の子が振り向きながら声をかけてきた
「ただいま。出血はどう?止まったかな?痛みはどう?」
止血処置がされ、包帯がまかれた掌を眺めながら女の子が答える
「血は止まってるっぽい。でもやっぱ痛いよね」
「そりゃそうだろう。3針縫ってるからね。1か所傷が深かったから」
「生きてるんだね・・・私・・・・」
「そうだよ。君は今生きている」
「いろんな細胞が君を生かすために働いているんだ」
「君にとっては大きなお世話かもしれないけどね」
クスッと笑いながら女の子が答える
「ほんとにそう。何頑張っちゃってんの?って感じ」
ジュースとお茶を用意して女の子と共にソファーへと向かう
お互いにソファーに腰を下ろし、それぞれの飲み物に手を伸ばす
たわいない話をしていたら、何時しか窓の外がオレンジ色に染まっていた
「じゃあ、1週間後にまたいらしてください。その時に必要な検査をします」
「分かりました」
大きく伸びをしながら女の子が窓の外を眺める
「もう日が暮れ始めてる・・・なんか時間が経つの早いね」
そう言いながらドアの方へ向かっていく
「それでは、失礼いたします」
軽く手を振って女の子は外へと歩みを進める
グラスの中の氷がカラン、と音を立てて夕焼けの中溶けていった
灰色の空の下、デスクから何気なく窓の外を眺めていると
バラバラバラバラ・・・けたたましい音と共に、大量の雨が落ちて来た
その雨は勢いを増し、灰色の線となって視界を埋め尽くす
しばらくそれを眺めていたら
「こんにちはぁ・・・・」
息を切らして女の子が入って来た
手に持っている傘はずぶ濡れで、その下には小さな水たまりが出来ている
「もぉー最悪。いきなりなんだもん」
「雨が降るとは聞いてたけどさ。どうなってんのぉ?」
白い7分丈のTシャツの裾からは水が落ち
黒い薄手のロングスカートの裾も水を含んでその色を濃くしていた
慌ててタオルを持ち、女の子の元へ駆け寄る
「もぉ、やだぁ、背中までびしょびしょ。傘さした意味ない」
タオルを1枚手渡し、僕はもう1枚で背中側を拭き始める
華奢なその背中は寒さからなのか、少し震えていた
少し蒸し暑かったのでエアコンをつけていたが、それを一旦止める
「じゃあ、検査服に着替えようか。ちょっと待ってもらうんだけど」
着替えるのにちょうどいい服がないので検査服に着替えてもらう
女の子の前に予約が入っていた方の検査が遅れているので
しばらく女の子には待ってもらう事になった
薄い検査服1枚では寒すぎるのでバスローブを着てもらう
「バスローブって始めて着たぁ。なんか変な感じ」
女の子には少し大きめなバスローブの袖を引っ張りながら
それを物珍しそうに眺めている
「あったかい飲み物でも飲みたいところだけど、検査前だからね」
「そだね。う~ん、あったかいココアが飲みたかったかな・・・」
「ココアかぁ・・・。わかった。用意しておくよ」
時間が気になり腕時計を見ていると
「検査って何するのかなぁ・・・・」
もぞもぞしながら女の子がつぶやく
「そうだね・・・まず採血して血液検査から」
「そのあとCT検査やエコー検査」
「とにかく色んな検査で全身状態を見るんだ」
検査の進行状況を確認するため、首に下げている医療施設用携帯を手にしたとき
「失礼いたします」
車いすを押しながら1人のナースが施設に通ずるドアから入って来た
優しい微笑みをたたえているが、どこか悲しげだ
彼女の弟はこの施設から自由になって逝ったうちの1人だ
先天的に脳に異常があり社会で生きていくのがかなり困難だった
弟さん自身、生まれてきてしまった事を苦痛に感じ
日々を悩み苦しんで過ごしていた
それをどうにかしたいという一心で彼女は医師を目指していたが
元々体も弱く、経済的な理由もありそれを断念してナースになったのだ
彼女の一途で純粋な願いすら、現実は踏みつけて粉々に砕いていく
僕と軽くアイコンタクトを取り、女の子の元へと歩み寄る
ソファーに座っている女の子に腰をかがめてにっこりと微笑み
「こんにちは。検査中はずっと一緒にいるから安心してね」
そう言いながら女の子の手にそっと触れた
「よろしくお願いします」
彼女の微笑みに応えるように女の子も柔らかな微笑みを返している
車いすに乗り込みドアへと向かっていくと
その途中で女の子が振り向き、ニコッと笑いながら手を振った
それにつられて僕も軽く手を振る
飲みかけのキャラメルアイスラテの香りだろうか
灰色の空の下、甘くてほろ苦い香りが空気中を漂っていた
さっきまで土砂降りだった雨がおとなしくなっている
申し訳なさそうにかすかな雨粒が風にあおられ流されていく
ガチャっとドアの開く音の後
楽しそうな笑い声が聞こえて来た
「そうそう。だからそんなことないんだって」
「やっぱそうだよね。そんなことありえないよね」
楽しそうな会話が気になって目線を2人に向ける
「戻りましたぁ」
小さく敬礼をし、女の子が僕を見る
「じゃ、後はあのお兄さんにお任せするね」
車いすにロックをかけながらナースの彼女が女の子に声をかける
彼女と僕は軽くアイコンタクトを取り
僕は女の子の方へ向かう
「お疲れ様。色々大変だったでしょ?」
「そんなことないよ。アトラクションみたいで楽しかったよ」
事も無げに女の子が答える
「次はあっち、次はこっちって」
「色んなとこ回ってちょっと目が回ったけど」
車いすから立ち上がり、ソファーに腰掛ける
「なんかちょっとフラフラする・・・」
「採血した量が少し君には多かったかな?」
「そうかもしんない・・・」
「落ち着くまでゆっくりしていくといいよ」
「あまり良くないようだったら処置するから」
温めたココアをテーブルに置き、横になっている女の子を見る
タオルケットを取りに行き
リクライニング式のソファーの背もたれを倒してフラットな状態にし
タオルケットをそっと掛けると
女の子は僕に背を向け、反対側にゴロリと横になった
無理もない、昨日の夕食は検査のため食べていないし、飲める物も限られている
ここにたどり着くまでの体力も相当なものだ
おまけに土砂降りの雨に見舞われてプラスαの体力消耗もある
僕は女の子の脈を確認し、額に手を当て発熱していないかも確認する
少し脈が速いがリズムは一定で問題なさそうだ
発熱もしていない
たくさんの大人たちが自分の体をあれやこれやと調べる事に
緊張と若干の恐怖を感じていたのだろう
女の子の体は本能的に防衛体制を取っていたはずだ
そのストレスは計り知れない
ある意味、検査という名の拷問だ
そんな事を思いながらハンガーにかけておいた洋服の乾き具合を見に行く
ジットリと濡れているわけではないが、乾いているとは言い難い
施設内にはコインランドリーがある
臓器移植を待っている患者さんなど、長期入院する方が多いので設置されている
普通のコインランドリーより安く利用できるのでなかなか使い勝手が良い
ハンガーから洋服を外し、いそいそとコインランドリーへ向かう
ふと外を見ると灰色の隙間からほんの少しだけ白い光が見えた
女の子が帰路につく頃には晴れるといいのだが・・・
ほわほわと暖かい洋服を手に「0」のドアを開ける
心地良い暖かさの洋服をきちんと畳んで脱衣かごの中に収納する
もう一度、脈を確認するため女の子の元へ向かう
眠っているわけでもなさそうだが、女の子は目を閉じてじっとしている
平静を取り戻すために一生懸命なのだろう
脈拍は先ほどより落ち着いていて、リズムも問題ない
安心して女の子から目線を外すと
テーブルに置かれた白いマグカップが視界に入ってきた
手に取ると冷めた感じが伝わって来る
このまま放置するわけにもいかないので、冷蔵庫へと移す
扉を閉めて間もなくブーンという作動音と共に
冷蔵庫が庫内を冷却し始める
さまざまな事が小さく変化していく空間の中
僕は女の子とは反対側のソファーに座り、まだ曇っている空を眺めた
しつこく空は灰色をとどめている
雨粒は落ちていないが、どんよりとしたその光景は変わらない
たまに見える微かな白い光も、数分で訪れる灰色にかき消されていく
検査を受けた方たちの結果データをパソコンで見ていると
女の子がゆっくりと体を起こすのが見えた
すぐに女の子の元へ向かう
「どうかな?どこかつらいところある?」
「うん。ちょっとダルイけど平気だよ」
「それより、喉乾いた。なんか飲みたい」
「冷蔵庫にココアがあるから温めようか?」
そう言いながら冷蔵庫に向かうと
「温めなくてもいいよ。冷たいの飲みたい」
そう僕に言葉をかける
冷蔵庫からココアの入ったマグカップを手に取ると程よく冷えていた
カップの底にココアが沈殿している可能性があるので
コーヒースプーンでかき混ぜた後テーブルへ持っていく
リクライニングしていたソファーの背もたれを元に戻し
掛けていたタオルケットを折りたたんで女の子の背中に据え付ける
そこにじっともたれている女の子にココアを手渡すと
ゴクゴクと勢いよく飲み始めた
甘くてそこそこカロリーのある飲み物が恋しかったのだろう
ひとしきり飲んだ後満足そうに、ふぅ・・・と一息ついた
かがんでその様子を見ていた僕ににっこりと微笑み
「あぁ・・・おいしい・・・」とつぶやく
その状況を見て安心した僕は
自分もお茶を飲むべく冷蔵庫へ向かう
お茶をグラスに注いでいると背後から
「もうココアなくなっちゃったぁ。まだあるかなぁ」
そう言葉が降りかかってきた
ちらりと背後に目をやると
女の子がカップをぷらぷらさせながらこちらを見ている
ココアがもうない事を知っている僕は慌てて庫内を見渡す
「残念ながらココアはもうないんだ。レモンティーならあるけど」
「あ、それいい!レモンティー飲みたい」
弾んだ声で返答が返ってくる
しょうがないなぁ・・と思いつつ
紙パックに入っているレモンティーをグラスに注ぐ
僕用のお茶とレモンティーを持ちながら女の子の方へ向かい
先に女の子にグラスを手渡す
手に取るとすぐに口元へ運び、ゴクゴクと美味しそうに飲み始めた
僕もソファーに腰を下ろし、お茶を1口喉へ運ぶ
「なんか、お腹空いてきた」
これまた素直な女の子の感想に思わず笑ってしまう
「何笑ってんの?しょうがないじゃん。お腹減ったんだから」
両足を浮かしてパタパタさせながら女の子がつぶやく
「不思議だろ?君自身は命を終わらせたいと思っている」
「なのに体は命を持続させようとしている」
「ココロとカラダは一致しているようでしていない」
「一致していないようでしている」
「人間は複雑だね。だから生きづらい」
「首輪がついてるから、なおさらだ」
パタパタさせていた両足を下ろして
ソファーの背もたれに首を預け、天井を見上げながら
「自由ってなんだろうね・・・」
しみじみと女の子がつぶやく
「本当の自由なんてこの世にあるのかなぁ・・・」
「君はもう気づいてるんじゃないかな?」
天井を見上げている女の子に声をかける
「うん。そんなもん、ない・・・って気づいてる」
「生きてる限りそんなもんはどこにもないって」
「死んじゃったら何もないから同じなんだけど」
「色んなしがらみから解放される・・・って事は」
「それが本当の自由って事なんじゃないか・・・ってね」
天井を見上げたまま、とつとつと話し続ける
その話を引き継ぐように僕が口を開く
「言論の自由、宗教の自由、職業選択の自由・・・・」
「色々、自由と名の付くものはあるけど、どれも本当の自由ではない」
「社会の渦という現実の前では、どれもかりそめでしかない」
「でも、すべての人間がそれぞれの自由を実行したらきっと人類はいなくなるだろう」
2人の会話が止まる
この空間に何もなくなってしまったような虚無感が漂う
女の子は天井を見上げたまま、僕はお茶の入ったグラスを眺めたまま
何も言葉が出てこない
そんな空間の中さまざまな事が頭にぽつぽつと浮かんで来ていた
3人も子供を作ってしまった両親はその事をかなり後悔していた
長男だった僕は幼いながらにその後悔を感じ取っていた
虐待を受けていたわけではないが
日々の何気ない両親の会話と疲れた表情からそれがひしひしと伝わっていた
僕たち兄弟が知らないところで喧嘩も多々あっただろう
自分たちが生活していくのもしんどいのに
3人もの人間を食べさせていかなければならない
裕福でもないごくごく普通のサラリーマンだった父親
家事に追われながらもその隙間時間をパートに出ていた母親
避妊をすればいいのに父親はやりきれない日々のストレスを
母親の体にぶつけていた
母親もそれを拒めばいいのに父親のやりきれなさを哀れに思うのか受け入れていた
それを愛と言うのか否か僕には未だに分からない
行為に満足し、満たされて眠っている父親を残して
母親はいつもリビングでコーヒーを飲んでいた
行為がなくても母親は家族が寝静まった後1人で
インスタントのコーヒーに砂糖とミルクを入れて甘く優しいコーヒーを飲んでいた
母親がそのほんの僅かなやすらぎの時間を過ごしている事を知っていた僕は
トイレに行くふりをしてそれとなく母親に寄り添っていた
トイレから出て暗闇の中、電気がついているリビングへ向かう
母親は僕を見つけてにっこりと微笑み
幼かったころには砂糖を入れて温めたミルクを
大きくなってからは母親と同じ甘くて優しいコーヒーを入れてくれた
何を話すわけでもないがとりとめのない会話をして
最後に明日もがんばろうねと言ってそれぞれの寝床へ帰っていく
僕は日々の生活に疲れきっているのに、僕達兄弟に優しく微笑む母親のため
状況を少しでも良くしたいと思い医師を目指した
両親にそれを打ち明けた時、ひどく怒られたのを覚えている
医師になるには莫大な金が必要になるのだと懇々と説明された
そんな金がどこにもない事を僕は知っていた
だから僕は働きながら医師を目指す事を両親に伝えたかったのだ
小学生のころから医師を目指し、勉強を頑張った
塾に行く金などないから分からないことがあれば図書館へ行き
父親が仕事で使っているパソコンを使わせてもらったり
近所に住んでいた大学生と友達になり勉強を教えてもらった
中学生になり母親と共にパート先にアルバイトとして雇ってもらえないかと頼み込んだ
コンビニのお弁当製造工場は慢性的な人手不足であっさりと雇ってもらえた
母親がまじめに会社に貢献していたのも大きかったようだ
学校が終わってから夜10時まできっちりと働いた
仕事が終わって帰宅してからも勉強を重ね、眠るのはいつも午前零時過ぎだった
そんな中、工場で働いていけばいくほど人間のドロドロした部分が見えて来ていた
みんな苦しんでいるのだ
金を求めて働きに来る
働いても働いても金はどんどん生活という名の底なしの大食漢に食い尽くされ
跡形もなく消えていく
少しでもその現実から逃れたい、自分自身が少しでも心地よく過ごしたい
僕自身も含め皆、同じように苦しんでいる社畜同士なのにそれを全く理解できない
我が我がと言わんばかりに醜い争いを繰り広げる
それは学校でも全く同じだった
生活という切実な金が絡む問題は直接的にはないのだが
人間のパーソナルな部分に対する争いが熾烈だった
社会で働くという事も、パーソナルな部分に焦点があたる事があるが
ある程度結果がすべてなので、あまりそこに重点的に重きを置かれない
だが、学校という狭い社会ではその部分がすべてなのでタチが悪い
ダイレクトにそこを攻撃されるのでダメージは重篤だ
人が大勢集まれば集まるほど色んな不満や感情が噴出し渦を巻く
その渦の中から脱出すべく争いを繰り広げる
だから僕は人混みが嫌いだ、人の集合体が嫌いだ
というか、人間自体が大嫌いだ
僕自身が人間なのにかなり矛盾している感情なのだが
人々のありとあらゆる感情や思惑が僕の頭の中に入り込んでくる
産まれて物心ついたころからその現象は起きていた
人のちょっとしたしぐさや視線、なにげない表情、言葉の抑揚、その場の空気
人が発するありとあらゆる現象から人の感情や思惑や本音が分かってしまうのだ
人が発する微弱な電気信号を僕の脳が敏感に感知してしまう
それは意識していないのに僕の脳に矢継ぎ早に突き刺さってきて
僕の脳と精神をどんどん疲弊させていく
幼いころから両親の苦しみを感じ
学校でも先生やクラスメイトの苦しみを感じ
働いていた工場でも社畜となっている人々の苦しみを感じ
僕の脳と精神は限界を迎えていた
その日の夜、僕は何かに焦っていた
刻々と過ぎる時間の中、沈黙が続く虚無感が漂う今のこの空間で
僕は自身に起きた過去の出来事へ記憶をたどる旅に出ていた
まず記憶に浮かんで来たのは病院のベットの上からの記憶だ
酸素吸入器をつけられ、体中からいろんなチューブが生えているのを感じていた
心電図モニターの規則正しい電子音が耳に入って来ると共に
ぼんやりとした意識の中
何回か僕の名を呼ぶ声が聞こえてその声のする方へ目線を向けると
母親が僕の顔を覗き込んでいた
また何回か僕の名を呼び、僕の手をそっと握り始める
よかったぁ、よかったぁ、とつぶやきながら傍らに置いてある椅子に座り込む
徐々に意識が鮮明になって来るにつれて
お腹に引き攣れたような違和感と若干の痛みを感じ始める
その無理やり寄せて引っ付けている感じと
熱いジンジンとした痛みに思わず顔が歪む
巡回していたナースがそれに気づき
程なくしてもう1人のナースと1人の医師がやってきた
互いにアイコンタクトを取り、医師の指示のもとテキパキと処置がされていく
医師が僕の名前を呼び、手術は成功したから安心してと告げている
母親に何か話した後、僕の様子を確認しナースに再び指示をして
一通りの処置を終えると母親に一声かけてこの場を後にした
母親は何度も医師に頭を下げてそれを見送っていた
痛み止めが入っているであろう点滴をつなぎ終えたナースが
母親に話しかけた後、優しい微笑みを浮かべてこの場を後にする
また頭を下げながらナースを見送る母親
痛みや引き攣れた感じはまだどうにもならなかったが
処置をしてもらえた安心感からか少しだけ気が楽になった
母親も安心したのか落ち着いて椅子に座っている
カーテンが閉められている窓からは、うっすらと青白い光が差し込んで来ている
夜が明け始めているのか、日が暮れているのかどちらか分からない
母親はずっと僕のそばにいたのだろうか
泣いたのか睡眠をとっていないのか分からないが、なんだか目が充血しているようだった
そんな事をうっすらと考えているうちに猛烈な睡魔が襲ってきた
僕はそのまま睡魔に連れ去られ深い眠りの谷へと落ちていった
白いカーテンをすり抜けてまぶしい光が室内全体を明るく白く染め上げている
酸素吸入器はまだつけられていて、口元には変な違和感がつきまとっている
僕の視界に絶え間なくナースや医師の方たちが流れるように行きかうのが見え
その流れの一部が途切れて1人のナースが僕の元へやって来た
「おはよう。色々くっついててなんかイヤだよね。ごめんね」
にっこりと微笑みながら僕の体から発せられるさまざまなデータを収集して
点滴交換などの処置をテキパキとこなしていく
すぐにまた流れの一部から1人の医師が僕の元へやって来て
僕の足元の白く細長いテーブルに乗っかっているパソコンをじっくりと覗き込んだ後
さまざまな作業をしていたナースに話しかけた
ナースは僕の枕元にやってきて酸素吸入器を外し始める
「もう外して大丈夫だって。口元、すっきりするからね」
優しい微笑みをうかべながらスムーズに作業を進める
続けて医師がやってきて
「データも落ち着いてきているし」
「もう1日様子を見て明後日には一般病棟に移れそうだね」
腰をかがめて僕に、にっこりと微笑みながら語り掛ける
僕も医師の目を見て小さくうなずく
心電図モニターの電子音と医療関係者の方たちが行きかう足音
消毒薬と患者さんの体から発せられる臭いが入り混じる白い空間で
それぞれの人々の細胞がそれぞれの目的に向かって懸命に働いている気配を感じていた
同じベットが6つ等間隔で並んでいる
白い空間に同じく等間隔で6人の人が横たわっている
そのうちの1人である僕に窓から差し込む光が眩しい
窓際に連れてこられたことがいいのか悪いのか
僕にとっては微妙なところだ
その眩しさを嫌だなと思いつつ周囲を見渡していると
視界にスーツのジャケットが入り込んできた
黒に近いような灰色のスーツ
目線を上に向けると父親の顔が目に入って来た
他の患者さんに気を使いつつゆっくりと静かに僕の元へやって来る
もう面会時間なのだろうか
どうやら長い時間ずっと眠っていたらしい
父親がなぜか申し訳なさそうにベットの横に置いてある椅子にそっと腰掛ける
腰掛けてしばらく落ち着いた後
「どうだ?具合は・・・」
少ない言葉だが優しく僕に話かける
「うん。今んとこ大丈夫だよ」
大丈夫じゃない状況と言えばそれなのだが、今のところこれと言った支障はない
「ごめんな。手術中は仕事で来られなかった」
僕自身は全く記憶がないので言わなければ分からないのに
父親はなぜかそれを謝ってくる
「そんなこと気にしなくていいよ。そもそも記憶ないし」
「そうか・・・・」
そうつぶやいた後、父親が僕の顔を眺める
一呼吸置いた後
「お母さんがお前を見つけたんだ」
「台所でお前が倒れてるところを」
「お前が包丁で自分の腹を刺して倒れている所をな」
怒るわけでもなく呆れるわけでもなく普通のトーンで僕に話しかける
僕がここにいる理由がそれだったのか・・・
そう思いながら天井を見た
過去の記憶をたどるうち、自分に起きた出来事の詳細が少しずつ浮かび上がって来る
僕はあの時何を思い、なぜそうなったのか僕自身をさらに振り返ってみる
あの日、バイトは休みだった
僕は自分の部屋で勉強していた
なぜか、全く頭に入ってこないことを感じていた
体全体がだるくて、僕の体の真ん中で黒い液体が渦巻いているのを感じていた
赤い血液の中に渦巻いていた黒い液体がサラサラと素知らぬ顔で流れはじめていく
どんどんとその比率は増していき僕のカラダの色が指先から黒く変色していく
僕のカラダの真ん中、腹の辺りから黒い液体がブクブクと沸き続け
心臓の拍動に連れ去られサラサラサラサラと静かに流れていく
その黒い液体に侵蝕されて僕のカラダの色がどんどんと黒くなっていく
それに伴って徐々に僕のカラダの体温がどんどんと下がっていく
僕はそれをどうにかしなくちゃと焦ったのはなんとなく覚えている
少しずつ記憶をたどってはいたが、そこから先の記憶が全くない
多分、僕の理解をはるかに超えてしまう事柄が僕自身の中に起きてしまい
それに僕の脳が対応しきれなくなり、僕の脳が僕自身を守るために
非常事態宣言を発動し、僕のカラダにそうするべく電気信号を送ったのだろう
カラダは素直にその電気信号に従い、僕はあの状況下にいたのだろう
「お母さんが見つけなければ、お前、死んでたぞ」
父親が僕に語り掛けた後、僕の目を真剣にまじまじと見た
母親が僕を見つけていなかったら、僕はどうなっていたのか
そんな事、その時の僕には全く分からないことだ
ただただ、僕の脳が発した命令にカラダが正直に反応しただけの事だから・・・
僕がその父親の目線にピンと来ていない事を察知したのか
「まあ、いい。とりあえず体を治す事だけに専念しろ」
「じゃ、仕事に戻るから。あんまり余計な事考えるなよ」