蓮の根埋めてる水鉢、月夜の秘事
書生の三郎は僕の家庭教師の一人だ、くるくると入れ替わる彼ら達、遊び相手でもあり、外を教えてくれる存在。中にはいけ好かない奴もいたが、中には郷里にいる弟と、重ね合わせるのか、真摯に付き合ってくれる者も少ないがいた。
三郎も数少ないそんな一人。何を聞いても優しく教えてくれて、誰にも言われぬのに、細々とした世話を焼いてくれていた。
「今流行りの童話ですよ」
そう言って町の書店で見つけたと、手渡されたのは『宮沢賢治、注文の多い料理店』不思議な世界だった。この二人、クリーム塗るまで分かんなかったの?わくわくして、一息に最後まで読んだ。
結果、夜ふかしをし翌日早々に熱を出してしまい、寝る前に、本を読むのは両親から禁じられてしまったけれど……。
清ら、ほらご覧。夏の前に、メダカを放した。
庭道楽に行き着いた祖父は陽当たりの良い庭先に、特別に作らせた大人の一抱えもある水鉢を幾つも並べて、蓮を植え込み楽しんでいた。水をはり育てるために、夏場が来るとぬるりとした水に、孑孑がわく。成虫にならぬ様、喰わす為に放していたそれ。
身体が弱く屋敷うちから出る事がなく育った僕。訳があり隠れ住む様に暮らしていた。身体の成長を殊の外、気にかけていた祖父母は、庭で日光浴との誘いを、天気が良い限り三日と置かずに、散歩を共にと仕掛けてきていた。
髪は舶来のリボンで、ばあやの手により結われ、赤い地色に美しく花模様が染め抜かれた、季節に応じた着物の姿。とんちきな身なりを恥じている為、間に一日は必ず、病を持ち出し断っている。
物心つかぬふり下げ髪の頃は、恥ずかしくはなかったが、やがて年離れた妹がひとり二人と産まれた。子守りが襁褓を変える時にふと垣間見た、性別による身体の作りの違いを知った時に、気持ち悪い羞恥心を持った僕。
母親、祖母、妹、乳母や、姉や達。
父親、祖父、爺や、小僧に書生達。
久子、梅子、紅子、お松、お三津……、
清十郎、清之介、一太、三郎、そして僕の本当の名前、清一郎。
……持った違和感に思い悩み、夜も眠れず過ごせばたちまち熱を出し寝込んでしまった。伏せば早々に、医師が呼ばれて、口が捻れてどうにかなりそうな、苦い薬を置いて変える、忙しくしている父母が時を作り、祖父母が青ざめ心配顔で見舞いに来る。
「どうした、眠れぬのが病の原因と聞いた、何が心を病している?何を知った?」
枕元で優しく父親が問うてきた。何を知った?外に出ぬ僕が何を知るのだろう、分からず首を振ろうとしたが、上手く出来なかった。
「……、知らぬのなら良い、どうなるかはわからぬ、よく休んで力をつけなさい」
父親がそう言う。母親がじっと見てくる。何時もと違って悲しそうに。祖父母が何も心配しなくて良い、そう言う。ああ、これはそろそろあの世にと子供心に感じた僕は、せめて心残りを残さぬ様、この情けない悩み事を解決しておこうと思いついた。
なので皆が深刻そうな顔をし帰ると、離れ座敷に世話を言い付けられ残った三郎が、ぬるま湯と薬袋を飲む様、差し出してきた折に、情けない女装姿のことを、そろそろと聞いてみた。
「清一郎様は、産声を上げられずにお産まれになられたと、聞いております。その折、長くは生きられないと医師の宣告をお受けになられたとか。それで卦を立てたと大奥様から聞いております。その折、大人になるまで、女の身なりをして過ごせ、さすれば家運隆盛とか。そうご神託をお受けになられたと聞いております」
……、一族で唯一無二の男子で御座います。健やかにお育ちにならねばなりません。朴訥に話してくれた三郎。両の手の指を、全て折り数えた年に幾つか足した僕は、大人になるまで、あとどれくらい?と考えると、その歳月に絶望を感じてしまう。
「三郎はどうして僕にやさしいの、おかしくない?桃色やお花の着物ばっかり、洋服、着てみたい、でも妹みたいなのじゃないの。名前だってちゃんと呼んでほしい」
かすれる声でそろりと聞いた。書生の中にはわざと『きよら様』、そう呼んで見下す様な態度の者もいたからだ。
「洋装は楽ですよ、そうですね、奥様にお話しておきましょう。おかしくありませんよ、田舎にいる弟も、身体が弱くて、死神に攫われぬ様、まじないで小さい頃は女の子の格好してましたからね、子供はたやすく、あちらからお迎えが来るそうですから、ですから大旦那様は、『きよら』とお呼びになられるのでしょうね」
「女の子の名前みたい嘘の、やだな。死神?女の子の着物を着ていたら?攫われないの?」
「ええ、死神の手下のお迎えの鬼は、何でも、氏名性別年齢を記した書状を、その手に携えてくるそうです。なのでお間違いお間違い。ここにいるのは女の子です、と追い返す為にだそうですよ」
「うそだ……」
「ふふ、でもよくある事らしいです。丈夫に育つ様、願掛けですかね、お名前の事もそうだと思います。さ……」
優しく苦い薬を飲む様勧めてくる。飲んでも飲んでも、元気になどならないそれ、本当なら屑籠に棄てて、知らぬ顔をしたいのだが、何でもよく知ってて、優しくて、身体の丈夫な三郎。こんな風に大きくなりたいなと思う存在。そんな人に笑顔を向けられ差し出されたら……。
飲まないと。元気にならないと。そう思ってしまう。誰かの為に……書物でよく読む世界に『恋』とかある。よくわからないそれ。男と女の運命の出逢いとか、特別な感情とか。読んでると、三郎の顔が出てくるし……でもそれって変。
おかしいのだと思う。どきどきとするのは。だって同性だよ。そんなの無い、僕がへんてこだから……どきどきするんだ。熱が出てドキドキと違う、どきどきなんだけど……意味がわからない
その時はそれで終わった。顔をしかめつつ、飲み下した薬の効き目で、どろりとした沼の中に引きずられる様にズブズブと眠りに落ちた。
……、遠くでザワザワとした気配が、静かな離れ迄届いた気がした。妹の誕生日なのか、それとも御先祖様の法要……、眠っていたからよくわからない。
ついつい、ツイツイ、うこうこと悶えるようなそれを、喰うために追いかけるメダカの水鉢。緑の葉っぱ、口綻ばした桃色の花、開いている花。蕾、蜂の巣の様な握りこぶしみたいな実も伸びている。
ようやく床上げが出来た頃には、しとしとと陰鬱な雨の時期も終わり、水滴のかわりに蝉しぐれが降り注いでいた。朝顔を染め抜いた、一重を着せられ、少しずつ身体を動かす様役立たずな医者にいわれたので、日が暮れ幾分涼しい時に独り庭に出た。
ばあやは部屋に居なかった。夕餉をお運びしますから、お待ちしてて下さいと、言いおいて下がったきり、それから来ない。最近誰もが忙しいらしく、こうしてぽっかり独りになることが多い。
書生の彼らもそう。近々、父親が英国に渡るからか、その準備でバタバタしている様子。
チキチキチキチキ、チキチキ……日暮が震えて鳴いている。
ほんぎゃぁ、ほんぎゃぁほん……赤子の鳴き声が聴こえる。
どういう事なのか?親戚の?不思議に思い、引き寄せられる様に庭伝いでそちらに向かう。なんとなく行けない気がして、欅の後ろに隠れて眺める。子守りが妹達の様にして、白いおくるみに包んだ赤ちゃんをあやしている。
「ゆき、清太郎は寝た?蓮の近くには連れて行かないでね、どうしても蚊がいるから……」
母親が縁側を降り出てきた。どきどきしながら隠れて眺める。
「はい、坊っちゃんお眠りになられましたよ」
「本当に手のかからない赤子だこと。これなら放っておいても育ちそうね、妾の子だけあるわたくましい。清一郎がアレだから、引き取り育てる事になったけれど、良かったこと」
がんがんとする。クラクラも。僕がアレって何。
「この先時代が動くそうよ、弱い当主だと乗り越えられない……あの子は私の子供だけど、この家には相応しくないのね、ことある毎に倒れて……、正妻のお子に跡を継がさない『お燐の呪い』はあるのやもしれない……。明日のこの子のお披露目だけど……清一郎をどうしたら……」
僕の扱いをどうするか、僕の目の前でぼやきつつ、三人揃って屋敷の中に入って行った……。チキチキチキチキ、日暮が響いている。
どうやって帰ったのかわからないけれど、気がつけば僕は離れの座敷に、ペタンと座り込んでいた。庭から上がってきたのか、コオロギがピョンと畳の上を跳ねていた。
不条理という単語の意味を知った。悔しいという感情が初めてこみ上げ来た。やがて運ばれてきた夕餉の膳。食べても食べなくてもいいやと、投げやりになったのも初めての事。
「少しばかりお召し上がりにならないと……」
給仕のばあやが話してくる。何か言いたいのだろう。察しはついている。
「……、明日は、僕の弟のお祝いだそうだね、僕も……祝ぎに行くから、お母様にそう言ってきなさい」
「は?坊っちゃん、どこでそれを?め、妾のお子を憐れんで引き取られただけですよ、それを親戚にお披露目するだけで、その!坊っちゃん」
「聞こえなかったの、そう言ってきて、返事!」
おろおろとするばあやを切り捨てる様に、強く命じる様に話したのも初めて。はい、と豹変した僕に恐れをなしたのか、慌てて部屋を出ていった彼女。
普段使いの塗りの膳を眺める。今日は前祝いなのだろうか、煮物には縁起物の先を見通す蓮の根が幾つか、炊合せに入れられている。それを箸で摘んでさくりと歯を立て齧った。
シャクシャク……独特の食感。広がる粘着質がある味。大小の楕円、丸、穴がある。こられは泥の中から水面を超え、青空にツンと立っている葉に、花の台に繋がっているそうだ。
先を見通す。考える。食べながら苛々としたのも初めてだ。味が熱のせいではなく感じないのも。今までの鬱々としたものが火種となり、グツグツと煮えたぎる様な心持ちも初めてだ。
「決めた!」
僕は顔を上げた。お下げに編んだ髪が揺れる。みつ!そこに居るのなら、そうだな、月が登った頃に、三郎を蓮の所に呼んで来なさい。廊下で控えている姉やにそう命じたのも初めて。
約束の時間が来る前。僕はみつ編みを解くと、誰の手も借りず長い髪を櫛で幾度も漉いた。懐に懐紙に包んだ物を忍ばせて、閉じた花、半開きの花が夜を過ごすそこに僕はいる。先に来ていた三郎が、こちらも話がありました。月明かりの下で口を開く。
「旦那様に英国へのお供を言いつけられ、明後日ここを離れます」
「……そうなんだ。一度家に帰るの?」
「いえ、遠いですからね、無理かと。手紙は出しましたから……清一郎様と過ごせて楽しゅう御座いました」
「そう、それは良かった……僕も楽しかった」
何かな、恥ずかしくなるのは。
何かな。どきどきするのは
どうして泣きたくなる、何時もある事なのに。
「また……日本に戻って来ましたら、仲よくしてくださいますか」
黙ったままで気まずいのか、そんな事を言ってきた。
「いいけど……今から僕の言う事を、ひとつふたつ聞いてくれたらそうしてあげる」
「なんですか?」
何かな。いけない気がしてしてくる。
何かな。決めたのに震えてくる。
どうして悪い事だと思ってしまうの。
じっと見てくる三郎に、僕は包みを取り出し手渡す。怪訝な顔をしつつそれを開くと、何を一体?と阿呆な声出し聞いてきた。
「うん、それでね髪切ってよ」
「はい?この剃刀で?」
「うん、君の様にスッキリと!」
「い、良いのですか?」
「いいも何も……今の時代に、古臭い迷信なんて、信じちゃいけない気がしてね、それと、用意して欲しい物がある、洋服が欲しい。金子は後でお母様が払うって、明日の祝宴迄に用意して」
つけつけと話した、髪が長い僕。
何かを想い、じっと見てくる三郎。
やがて僕の何かに気がついた様。いたずらっぽく笑う。僕も笑う。近づいて来る三郎。
「……そうですか、わかりました。何か昔の元服のようですよ」
「何それ?」
「平安時代には、貴族の男の子は、髪を伸ばしてるのですけどね、元服という大人の仲間入りをする時は、剃刀を当てて、髪を短く切りそろえるそうです」
「へえ……よく知ってる。じゃ、僕は今晩大人になるんだね」
「一応国文学っていう勉強してますからね、でも勝手に良いのですか?清一郎様の場合は願掛けみたいな意味があるでしょう、旦那様や大旦那様に、一声かけたらと思いますが」
「じゃあ聞くけど、散髪するのにいちいち、誰かに聞かなきゃだめなの?妹なんて勝手に行ってるし、願掛け?ここまで大きくなったんだから、もういいよ、それに君がグダグダ文句を言って、やらなきゃ僕は自分でやる迄だけど」
あー、刃物なんて今迄、これっぽっちも、使ったことないんだよな。手もとが誤って、首元ざっくりいったらどうしよう。と脅したのも初めての事。
「……、はぁ、お教えした事に、何かいけない事があったのやら?仕方ありません、立ったままで、動かないで下さいよ、それと……」
「あー、大丈夫、お父様には自分でやったというから」
何故かな。どきどきするのは。
何故かな。わくわくするのは。
どうしてなのだろう。とっとと、やっときゃよかったなって思うのは。
背が高い三郎。僕は立ったままでいい。ザクリ、音がひとつする。バッサリ……そう言ったけど一度には無理らしい。小さく小束に握って削いでいる。
「散髪できるの」
「ここに世話になる迄、貧乏学生でしたからね、仲間と散髪は、しあいっこしてたんですよ」
「へぇぇ!そうなの、じゃあ思いっきり!短いのがいい!」
ザッ、パサリバサリ。切る音。落ちる音。離れたり身をかがめたり、近づいたりしている三郎。音と共に軽くなる、いい気持ち。真剣を首元に感じる。近くで息が当たると、熱くてくすぐったい。
こうこうとした白い月の下、しっとりとした黒い夜半の空気の中、混じる甘い香りの中で、三郎は僕の髪を懸命に、削いでいる。
「洋装ですけどね……どんなのが良いのです?」
「何でもいいけど、合うのあるかな……?」
「既製品もありますから、それなりには、スボン等は長さはお直しですが、それより短くなってたら、朝にはバレませんか?」
「お母様には内緒だしってか知ってるから、独りでするなら黙ってるって、!大丈夫、具合が悪いって布団に潜っとく、医者は明日は来ないよ、僕知ってるから」
明日は来客が朝からひっきりなしだろう、大丈夫寝てるといえば、誰も僕には近づかない。
「はあ……何か悪い書物をお薦めしたのでしょうか、裾丈なら縫いましょう、運針位は出来ますから、終わりましたよ」
髪を短くし終えた三郎が溜息をつく。足元にはうねうねと黒い髪がある。不思議な感じがした。それまで身の内の一部だったものが、そこに落ちている。
軽い!涼しい!うなじに手を当て、僕は振り返り三郎の顔を見上げる。
「へんかな?」
「かわいいですよ」
「女の子じゃない」
それに膨れて答えた。
サワサワと風が吹く。誰にも見つからない内にとっとと帰って、布団に潜っとこ、姉やには小遣い渡して口止めしたから大丈夫。明日は、僕は洋服を着て弟の顔を見に行くんだ。お母様は無理しなくてもと、こっそりとお返事もらったけど……
「ふふ、お頑張りなさい、好きにしなさい。ただし独りでね。清一郎ならきっと出来るわ、お母様の子供だもの。まとまった金子がいるようなら……お母様が後で払うから心配しなさんな」
お見通しのお墨付きを貰っちゃっている。少し楽しみな明日。明後日の事は考えない。しゃがんで、僕の髪をひと束を握る三郎が、ここから居なくなるのが悲しいから。
「そんなもの拾ってどうするの」
「お守りにしたいのです、船旅で異国に行くのですから」
何かな。どきどきするのは。
何かな。こんなのおかしい。
絶対ヘンだよ、僕達、どっか違うくない?
りりり、コロコロ……ケロケロ、庭に住む夏の虫に蛙が、あちらこちらで鳴いている。甘い蓮の香りが広がっている。空からは月が僕達二人を覗いているのに……。
ぎゅっと……抱き締められて、目を白黒していた僕。
蓮の花香る、夏の夜のお話。
みいっつ、終わり。