まるいお月様とヒヤシンス(前編)
前編は胸くそ展開全開です。暴力描写に女性に対する非道徳な行為があります。
主人公は洗脳になりそうなくらいの虐げられっぷりと低い身分なので、あまり自分から行動を起こすことができません。乙女ゲームの悪役令嬢の一家がとことん悪役な場合どうなるかな?って考えて書き始めたお話です。ちょっと読んで無理そうなら、戻るを推奨します。
乙女ゲーム要素は前編には入ってません。
夜のお屋敷は好きだ。
特に春は裏の庭園に植えられたヒヤシンスが一斉に花開く。
紫のヒヤシンスの花言葉は悲哀とか悲しみとか初恋のひたむきさとか、あまり良い意味は持っていない。だけどエナは紫のヒヤシンスが一番好きだ。
今夜はまるいお月様。月明かりの下でヒヤシンスの絨毯が揺れている。
「エナ、また花を見に来ていたの」
「セドリック様……」
「君は本当にこの花が好きだね。ヒヤシンスだっけ?」
夜中に使用人が出歩くことは本当は良いことではない。少しだけ体を強張らすエナに、セドリックはくすりと笑って傍らに腰を下ろした。
「あっ、いけません。セドリック様、お召し物が汚れます」
「僕たちはまだ子供だし大丈夫だよ。それよりエナはまたラヴィニアに叩かれたの?」
ラヴィニア・アリンガム。ラヴィニアはエナの仕える主ということになっている。が、本当は少し違う。エナはラヴィニアの奴隷なのだ。
(お母さんが悪いことをしているから娘の私が罪を償わなければならない)
優しいセドリックには知られたくない。浅ましい気持ちだと知っている。だけどエナはいつも願っていた。もしも嫌われてしまったら立ち直れないかもしれない。何故なら、この屋敷にはセドリック以外に優しい言葉をかけてくれる人間はいないから。
目を伏せる少女の旋毛をセドリックは傷ましそうに見つめる。
(違う!罪深いのはこのアリンガムの屋敷の人間だ。領主も婦人も娘も使用人も。自分だって無力で手を差しのべることすらできない……)
ためらいがちに伸ばされた少年の手は、けれど静かに降ろされる。視界の隅でサヤサヤと紫色が揺れた。
エナの母親、ハンナは亜麻色の髪に榛色の瞳の儚げな色彩の美人だ。
小さな商会の娘で、父親は元々は行商で渡ってきた外国人だった。ハンナの父親はアリンガム領の城下町であるローリンガムでハンナの母親と恋に落ち店を構えた。
ハンナは父親の色素の薄さと母親の優しげな風貌を引き継ぎ、町でも評判の美人で気立ての良い看板娘となっていった。
彼女は優しい両親の元で愛されながら幸せに過ごし、父親の店舗もそこそこの規模の商会となった。成人すると父の下で経理を担当していた男と結婚した。結婚式には従業員総出で祝福をしたものだ。花嫁姿のハンナは女神の様に美しかった。
幼いころから店に出入りしていた経理の男とハンナは相思相愛で、結婚してすぐに子供ができた。その子供がエナである。母親によく似た優しい顔立ちの娘を周囲は奪い合うようにして抱きたがった。
しかし、ハンナの幸せはそんなに長く続かなかった。ある日、店の前に騎士を携えた豪華な馬車が停まる。家紋が付いている。貴族用の馬車だ。周囲の町人はどよめき一斉に道を空けた。
馬車から降り立った壮年の男の名はアリンガム侯爵、グラエム・アリンガム。領主である。
彼は数人の配下の騎士と従者を連れて店に入ると、あっという間にハンナとまだ乳飲み子のエナを拐っていった。
この時、押し留めようと立ちふさがったハンナの父親は騎士に斬られ、その時の傷が元で亡くなっている。
その日、たまたま商売で店を空けていたハンナの夫は、店に戻った瞬間に、雑然とした店内で呆然とへたり込む義母と、血塗れなのに店を飛び出そうとしている義父を必死に押さえつける従業員たちを見た。
ハンナの夫は一瞬、何がおこっているのか分からず、抱えていた紙袋を落とす。バラバラと床に散ったそれは赤ん坊用の遊具だった。
響く物音に義父はゆっくりと視線を義理の息子に合わせ、何かを喋ろうと口を開き、そのまま倒れていった。
悲劇はそれで終わらなかった。
妻と娘を取り戻そうと侯爵家に向かった夫は、翌日になって川縁に遺体で流れ着いた。その顔貌は原形も残らないほど痛めつけられていたが、衛兵は川に落ちて溺れた男が水流で損傷しただけで事件性は無いと判断し、そのまま遺体は店に放り込まれた。
ハンナの母は度重なる衝撃に倒れ、寝込んでしまう。長年勤めあげていた従業員たちがハンナの父を医者に見せ、店を臨時に閉めて、ハンナの夫の葬式の準備をした。
バタバタと動く従業員たちは時に怒鳴り、時に泣きながら動く。重たいような沈黙のあとには決まって誰かの嗚咽が響いた。
意識を取り戻したハンナの父は愕然とし、唇を震わせながら呪いの言葉を吐いた。声は掠れ誰にも届かない。そしてそのまま再び意識を失い今度は目を覚ますことはなかった。誰もがもう、どうしていいか分からなくなっていた。憔悴した顔でお互いの顔を見る。今度は誰も喋らない。
結局、従業員達は黙々と二人分の葬儀の準備をして、ハンナの母親が回復するのを待った。
目覚めて旦那と義理の息子が亡くなり、娘と孫が拐われたまま戻ってこないと知った母親の嘆きは凄まじかった。ただただ泣き喚き蹲る。幼子のように丸まりながら泣き続けた。
そうして、号泣する母親の元に再びアリンガム侯爵からの通達が届く。
恭しく騎士が渡してきたのはハンナとエナの身元をもらい受けることと店舗の権利譲渡の命令だった。譲渡先は領主お抱えの強欲な商人である。
母親の代わりに使令の書状を読み上げた従業員は怒号をあげた。何故こんな鬼畜な所業ができるのか!
その夜、従業員達は一斉に家族を引き連れてローリンガムを出奔した。ハンナの母親も連れて。
(あのアリンガム侯爵なら母親だけでなく従業員もその家族にも何かをするだろう。若奥様とお嬢様のことは気になるが、これはもう自分たちにはどうにもできない。せめて、奥様だけでも……)
しかし、最早ハンナの母親の眼は虚ろで何も映さない。いつか雪辱を果たすことはできるのだろうか?
ハンナはアリンガムの邸宅としていた城に連れ込まれ、その日のうちにグラエムに陵辱された。
城についてすぐに引き離された娘は人質だ。さめざめと泣くハンナにグラエムは嗜虐心を大いに満足させ、夫の死について話す。次は夫と父親の葬式の話。その次には無くなった店舗の権利。最後は消えた従業員と母親の話。
そのころにはハンナの心はぽっきりと折れていた。
ハンナはそのまま城の一室に囲われてることとなった。部屋は城の東側にある高い塔の先端でとても窓からは逃げ出せない。鍵もグラエムとその侍従だけが持っていた。
幼い娘に会いたかったが、それを言うと娘も殺されてしまうかもしれない。娘のことを考えると彼女は何も出来なくなった。目を閉じれば肩から切られ血飛沫をあげる父親の姿が浮かぶ。
怯えて震えるハンナの姿にグラエムは満足気に紫煙をくゆらせた。
部屋の角の窓の下には小さな庭園がある。春になると眼下に紫色の絨毯が広がる。ここからでは何の花かはまでは分からない。だが、時折そこに亜麻色の小さな頭が見えるようになった。いつしか金色が増えて二つ。二つの色が揺れる度、ハンナはほろほろと泣くのだった。
引き離されたエナは最初はただの人質だった。まだ乳離もしていない乳児だ。死なないよう娘のラヴィニアの乳母に世話はさせたが後回しのため乳の出は足りず、乳母はそれを水で薄めて与えた。
グラエムはエナに欠片も興味を持っていなかった。偶然町で見かけた美しい若い女の肢体を貪るのに忙しい。だが、ある時、少し成長したエナを見て考え方を変えた。
まだまだ幼いがハンナに似た整った顔立ちをしている。あれが歳をとった時には娘も成長しているだろう。女はいつか歳をとり崩れるものだ。替えがあるならこれ以上のものはない。
翌日から、エナは使用人見習いとして屋敷で育成されることとなった。ちょうど乳離れもそろそろ終わるころだ。最初はただその辺に転がしておいても構わない。
外から来ていた乳母はただの市井の女でエナを不憫に思い、自分の子供のように育てていた。実は乳母も本当の自身の子とは引き離されていたのだ。自らの寂しさと悲しさを埋めるように赤子を抱く。
エナがほんのり母を思い浮かべるとき思い出すのは赤髪とソバカスのこの乳母の顔である。
やがて乳母の女はラヴィニアとエナの授乳を終えたので、無事に町に戻されることになった。戻されるといっても侯爵家から追い立てられるように出されただけだ。城門を背にちらりちらりと振り返る女の頭にあったのは薄めた乳で一回り小さく育ってしまった子供の顔だった。
(あの子供はまともに育つのだろうか?死んでしまうのではないのだろうか?)
ぶるりと頭を大きく振って女は歩き出す。涙が頬を伝うが、立ち止まれば殺されてしまうのだ。
乳母には不憫な子供を思いやる優しさがあった。だが、城の使用人たちは違う。庭師の老人と厨房の人間は別として侍女や執事は下級貴族の子息子女だった。彼らは権力におもねることに慣れきっていた。
務める城の水は溝色だ。ローリンガム城と呼ばれる城はまっとうな人間のほうが少ない場所だった。
グラエム自身にエナを虐げるつもりは無かったが、グラエムの奥方は別だ。奥方のシャーロットは夫がハンナに耽溺するのが許せなかった。
侯爵家を取り仕切るのは女の仕事である。ハンナの子供の存在はすぐに分かった。娘のラヴィニア以外の小さな子供の存在は目立つ。
一目、その子供を見て更に嫌悪感が増した。成るほど見目麗しい子供だ。夫が屋敷に留め置いている理由など分かりきったもの。成長すれば子供を新しい情婦とするのだ。
シャーロットは別にグラエムの寵愛などどうでも良かった。しかし、自分を蔑ろにし他の女を追いかけているのは気に食わない。子供が成長するころにはシャーロットは更に老いている。許せるものならこの手で親子ともどもくびり殺してやりたかった。
シャーロットは顔には傷つけずエナを虐げるよう周囲に指示を出した。
万が一、グラエムが裸にひんむいて折檻の痕が見つかってしまっては不味い。体罰はせいぜい水をかけたり食事を抜かせたり、転んで擦りむくくらいは、まあ構わないだろう。
死んでしまっても不味い。食事は厨房の人間に言って最低限は与えるように命じる。粗相をしたら罰として食事を抜かせることにした。下着を汚してしまう子供はほとんど食事を与えられないはずだったが、こっそり厨房の誰かが野菜くずを柔らかくしたものなどを与えていた。下着は見かねた下女が洗っていた。
幼すぎたエナはほとんど厨房の隅にいるようになり、厨房に貴族は立ち入らないので少しだけまともな幼少期を送ることが出来た。
また、シャーロットは娘のラヴィニアにも色々と吹き込んだ。もちろん半分は事実である。あの女のせいで夫は自分を愛さないのだから。
ことあるごとにハンナとエナのせいで父親がラヴィニアに会いに来ないと嘆き悲しむ様子を見せる。
それはとても貴族らしいやり方で、娘は歳を重ねるごとに癇癪が酷くなり、エナの悪口を言うようになった。
ラヴィニアが六歳になったころ、自分の友人にエナを侍女見習いにして欲しいと言い出した。シャーロットは優雅に微笑み、娘を褒めた。優秀で従順な子供は可愛いものだ。
ラヴィニアがエナを陰で虐めていてもシャーロットは何もしなかった。
侍女見習いとなったエナは厨房にはもう入れない。使用人部屋にも入れてもらえず、夜は庭師の作業小屋の床を借りて寝るようになった。
使用人たちもエナには冷たかった。ラヴィニアと一緒になって行われる虐めは大体こんな感じだ。
まず、ラヴィニアが落としたグラスを片付けていると頭に水が降ってくる。そこで動きを止めるとお仕置きだ。
破片を届けようと廊下を歩くと誰かに足をひっかけられる。それを見た侍女頭や侍女はエナを叱る。食事は抜かれ、床の掃除を更に言いつけられる。
庭師のお爺さんは表立っては助けてくれないが、こっそり厨房からの残り物を小屋に置いていってくれていた。時折はお爺さんの私物もあったのかもしれない。エナはそれだけで気持ちが慰められた。
ただ、助けを求めてはいけない。以前、入れ直しを命じられたお茶を前もって用意してくれた新人のメイドがいなくなったことがある。
「貴女のせいでいなくなったのよ」とラヴィニアに笑顔で教えられた。あの女の人は名門貴族の使用人をクビになり、紹介状も貰えなかったそうだ。
次の仕事を探すときに紹介状が貰えない場合には下級貴族の評判は地に落ちる。これもしばらくして、ラヴィニアに教えてもらった。こういう時のラヴィニアは親切だ。
メイドだった子爵の次女の女性は親よりも歳上の商人の後妻になったという。
「貴女のせいよ」
その言葉がエナの耳から離れない。
そんな生活を送っていたエナがセドリックと会ったのは八歳も終わりのころだ。あの時も春の夜で庭園には一面のヒヤシンス。
エナは何時でもその場面を憶えている。
金色の髪と青い瞳が月明かりの下でキラキラしていた。セドリックはあの時何か悲しいことがあったのか、泣き場所を探していたようだった。
がさがさと茂みを掻き分け、音に怯えていたエナを見つけると思いっきり顔を歪めて話しかけてくる。
表情が険しいので詰られるのかとびくびくしていたが、降ってきた声音は穏やかだった。
「ねぇ。君、こんなところで何しているの?」
エナにとっては、物心ついてから初めて聞いた冷たくない言葉だった。ぱちぱちと目を瞬かせるエナにセドリックも思うところがあったらしい。すとんとエナの隣に座り、しばらく二人で無言で花を眺めた。
やがて、ぽつぽつとセドリックはエナに話し出す。青い瞳はずっとヒヤシンスを見つめたままだ。
ラヴィニアが第一王子の婚約者となり、後継ぎがいなくなるかもしれないのでセドリックがこの屋敷の養子となったこと。だけど、それは仮の後継ぎで王子とラヴィニアに子供ができたら家督は引き渡し、どこかの僻地に飛ばされることなどを語りだした。
セドリックはアリンガムの親戚筋ではあるが、遠い血筋でこれまで交流もなく、半ば人質のような扱いを受けているらしい。
「もう、母上や皆のところに帰りたい……」
俯く、セドリックにエナも共感を受けた。自分より大きなお兄さんが泣いている。エナは自分以外の人間が泣いている姿を見たことが無かったので胸が痛くなった。鼻もなんだかつーんとしてくる。
「何だろう?分からないけれどエナも帰りたい」
「分からないって何だよ?変な子だな」
「フフフ。だって、エナのお家ここだもの」
「違うぞ、それ。アリンガムって姓を持たないんだから、ただのエナはここの子供ではない」
「そうなの?」
だって、エナはこのお屋敷の記憶しかない。セドリックは賢い男の子だと感心して頷いた。
「そうだ」
セドリックはいつの間にか涙も止まってしまった。エナの不思議な発言がどこか引っかかる。
ふと隣を見ると代わりにエナって女の子の方が泣いている。本当に変な子だとセドリックは笑った。
それから二人はヒヤシンスが咲く庭園でこっそり会うようになった。
セドリックと話すといつでも心がほんのり温かくなる。だけど、月明かりのヒヤシンスの下では何時もと違う特別な感じがする。だからエナはヒヤシンスが咲き出すとどうしてもそわそわしてしまうのだった。
セドリックは屋敷に馴染むにつれ、グラエムが東の塔にエナの母親を囲っていること、ハンナが受けた仕打ちなどについて知っていくことになった。
ハンナのことだけではなくアリンガム家の非道は至るところに溢れていたし、厨房や町の人間の口は軽かった。
始めの怨嗟の声は商店街での子供の轢き逃げの話だったかと思う。それから行方不明の人間の話や無残な婚姻をさせられた貴族の話、災害時に人柱にされた市民の話など耳を覆いたくなるものを沢山聞いた。
お忍びでふらりと立ち寄った先で、特に何も言わなくでも勝手にあちらこちらで囁かれているのだ。よほど悪どいことをしているのだろう。それに加えて近年はじわじわと税も上がっているらしい。
聞こえてくるのは怒りか嘆きか不満ばかりだった。鬱憤解消の為か悲惨な話は誰もが好んでいた。その中でも飛び抜けて悲惨さを語り継がれていたのがエナの母親の話だった。
少し水を向ければ誰もが詳細に話す。セドリックは当事者では無いけれど、非常に正確にエナの周りで起きた悲劇の全貌を知ることができた。
東の塔を見るたびにセドリックの背にはぞわぞわと悪寒が走る。いや、まだ悲劇の全部では無いのだ。今もまだ続いている。エナの母親はもう八年もあそこに囚われているのだ。
(エナだって、最近は卑屈な態度が増えた。あの子はここにいる限り幸せなんかになれない)
十歳で家族と引き離された少年は、ひそかに自らの心に決意した。いつか、アリンガムを潰しエナとその母親を解放してみせると。
ツッコミどころは多々かも?でもノリと勢いで極悪非道を目指してみました。
後編の前半ももう少しだけ非道にして貴族が断罪されるほどの悪行を重ねます。
煙草を紫煙に変えました。グラエムが持っているのは煙管です。