旅立ち ②
漁港の灯台が見えたのは次の日の明け方だった。
いつもこの時間に入港しているルカンにとってはごく普通のことだったが、一晩中波に揺られ続けたハイリは眠気と疲労で目をとろけさせている。
筏で眠るのはさぞ不快であったろう。
ベッドで休むのとは勝手が違いすぎる。
早く上陸した方が良さそうなので、ルカンは速度を上げた。
港には多くの同業者たちが仕事に励んでいる。
彼らは今日もルカンの筏がやってきたと視線を向けたが、なんとそこには人間の女の子が乗っているではないか。
中年の漁師がルカンの背びれに小船を寄せ、銛の柄で彼の背を叩く。
「おい、おい、ルカンよ。ここは人身売買はやってねえぞ?」
「まさか。いくらなんでも、そんなことはしませんよ。売り物は別に獲ってありますし」
「じゃ、じゃあ、まさか嫁か!?」
「ただの友達です!」
言葉は選んだが、鋭い牙が生え揃った口で叫べば屈強な男でも身を引いた。
桟橋に筏をつけてロープで固定し、眠っているハイリの肩を揺する。
「ん……ついたの? ここはどこの港?」
「ここは、トスダール王国のリーメン漁港だよ。疲れたろう?」
「ううん。大丈夫。ルカンこそ、ずっと泳いで疲れなかった?」
「僕は平気さ。ちょっとこれからお金を作ってくるから、桟橋の木箱にでも座って待っていて? 筏みたいに揺れたりしないから」
「うん。待ってる」
ルカンは捕らえた深海魚を、待ちかねていた学者やら食通相手に商売をしている業者に売りさばいた。
通常の網ではとても捕らえられない深海魚だけに気前よく払ってくれるので、それなりの金額を得ることが出来た。
当面の宿代や食費に使えるだろうが、それでも徐々に無くなっていくものなので、なんとか安定した旅を続けるために工夫する必要がありそうだ。
ルカンにとって海から離れることはかなりの勇気を必要とした。
このさきに待っているのは、いつでも水がある島ではない。
川どころか水たまりさえ無い大地が何日も続くことだろう。
しかし、彼は不安を顔に出さなかった。
もう、行くと決めたのだから。
桟橋に戻るとハイリの周りに三人ばかりの若い男たちがいた。
いずれも地元の漁師の息子やら孫たちで、遠目から見てもハイリをナンパしているようにしか思えない。
一方のハイリはといえば、彼らの誘い言葉をポーッと聞くばかりで視線は桟橋の周囲を泳ぎ回る小魚に向いていた。
若者たちもこれは参ったと困り果て、そこへルカンが戻ってきたものだから早々に退散していった。
今まで何の反応も無かったハイリも、ルカンが近づくと彼の側へ駆け寄った。
単に男性に興味が無かったのか、それとも人間嫌いに起因する無視だったのか、どちらにしても若者たちには面白くなかっただろう。
「お金、たくさん貰えた?」
「うん。ナンパされてたみたいだけど、無視することは無かったんじゃない?」
「だって興味無かったんだもの。それに嫌な欲望しか聞こえなかった。私は人間なんかよりルカンの方が好き」
「じゃあ、もしも僕が人間になれたら嫌いになっちゃうの?」
「……いじわる」
膨れるハイリを宥めながら、ルカンは一先ず休める場所を確保することとした。
市場は港に隣接しているので漁師には重宝されており、ルカンもよく利用していた。
おかげで露店の主や街の人々にもルカンの顔はよく知られており、中には気味悪がって近づかない人もいたが、気さくに声をかけてくれる者の方が多かった。
それはとても有り難い一方で、辛くもあった。
人間としゃべるとき、彼は無意識に人であった頃と同様に振る舞う。
だが話が終わってふと窓に映った自分の姿を見る度に思い知らされるのだ。
自分は人間ではないのだ、と。
「ルカン? どうしたの?」
「え? ああ、なんでもない。それより今日はあそこで休もう」
指さした先には1軒の酒場を兼ねた宿があった。
看板には【ホワイトパール亭】とある。
店内の酒場には多くの漁師たちが昼間から酒を楽しんでいた。
それもそのはず。
ここの店主こそがこの町の漁業組合長なのだから。
海の荒くれたちが集う店の雰囲気にハイリは怖気づくが、同業者のルカンは誰もが気のいい連中だと知っているので遠慮なく店に入った。
元漁師の店だけあってそこかしこに潮っけを感じさせる。
顔に大きな傷が残る組合長はカウンターの内側で常連に酒を振る舞っていたが、流石にルカンが店に入ったことでドカドカと歩み寄ってきた。
「おおぉ、ルカン! お前さんがうちの店に来るたぁ、珍しいことがあるもんだ。ほぉ、港の連中が噂していたベッピンってのはそこの嬢ちゃんのことかい?」
ハイリはルカンの背後に逃げ込んだ。
組合長は呵呵と大笑すると、二人の席を用意してくれた。
ルカンは背もたれを使えない上に普通の椅子では体重に耐えられないので、柔らかいクッションを積み上げて座らせて貰うことにした。
ここリーメンの名物といえばやはり魚料理に限る。
他にも、組合長の妻が作る隠しメニューのケーキも中々のものだとか。
ルカンはお品書きを見ながら、やはりハイリには甘いものの方が良いのではないかと思ってこっそり注文しておいた。
間もなく店自慢の料理と果実酒、ハイリには新鮮なミルクが運ばれ、二人の旅立ちを記念して乾杯した。
食事をしながら気づいたことだが、どうやらハイリはかなり良い家の生まれのようだ。
ナイフとフォークの扱いが上手く、他の男どものように下品な音を立てることもない。
一方のルカンはといえば、手掴みの方が体の構造上楽に食事が出来るのでそのまま魚肉を千切っては口に運んで、どうも彼女の前では恥ずかしく思えてならない。
ハイリも不思議がっている様子だった。
「ナイフ使わないの? 手が汚れちゃうよ?」
「いやさ……恥ずかしい話なんだけど、ナイフとかフォーク使ったらかえって食べ辛いんだ」
「なぜ?」
言葉で答えるのが嫌だったので、ルカンは自分の牙と顎を指さした。
軽い力でもフォークを硬さも感じずに噛み切ってしまうのだから。
「手は汚れるけど、まあ、料理は楽しめるからさ。それにスプーンなら口に流し込めば大丈夫だし。それはそうと、ハイリのケーキがきたみたいだよ?」
と、二人が組合長自ら持ってきたケーキの皿を見て目を丸めた。
普段ならせいぜい一切れのはずが、なんとまん丸いホールでもってきたのだ。
生地には白いクリームに豪快にカットされた種々の果物がこれでもかとのっていた。
「ほい! せっかくの異種間デートだからな、たっぷり食え」
「異種間って……まあ、そのとおりなんですけどね。というかデートってわけでもないですよ!」
「ケーッ、男と女が一緒にいりゃあデートになるんだよ! じゃあごゆっくり」
店内の漁師たちも愉快そうにゲラゲラと笑い、ルカンがすっかり顔を赤くしている間にも、ハイリはケーキを切り取って食べ始めた。
ルカンも自分の皿に取りながら彼女の反応を伺う。
「甘っ……」
「美味しい?」
するとどうしたことか、ハイリはフォークを咥えたまま口元を歪め、首を横に振った。
まさかと思ってルカンも一口摘んで味わってみたが、決して不味いものではない。
むしろ美味いほどだ。
「もしかして、甘いの苦手?」
「うん……」
「あいや、まさかなぁ」
「魚だけに……」
「洒落で言ったつもりはないんだけどな。まあ、好き嫌いは仕方ないか。残すのももったいないし、あと貰うね?」
「どうぞ。もうお腹一杯だから」
1ホールケーキでもルカンの胃袋にかかればあっという間に平らげた。
見た目にはサメが大口を開けてケーキを貪っているというのだから、中々どうしてシュールな光景であったろう。
食事も程々に終えた頃、組合長が席に近づいてきた。
「ところでルカンよ。おめえ随分とでかい荷物持ってるが、どこぞに旅でもするのかい?」
「ええ、まあ。長旅になりそうですから、しばらく水揚げは休ませて貰おうかと」
「ほお。どこに行くんだ?」
これは適当に誤魔化してもダメそうだ。
この手の噂の種になりそうな話題には貪欲に食いつく男なので、いやいやながらも正直に白状した。
「ちょっと、神の国、というところまで」
途端に店内は静まり返り、皆がぽかんとルカンの言葉を反芻した後、店内は耳をつんざくほどの大笑に包まれた。
「ギャハハハ! 神の国だってえ? そりゃおとぎ話の伝説さ!」
「第一、魚のお前さんがどうやってあの大山脈を登ろうってんだ?」
「やめとけやめとけ。どんな願いでも叶うなんて大嘘だよ。大人しく漁をしていた方がいい。あんまり生意気なことしてると、エミリアの兵士に睨まれるぜ?」
「そうそう。お前さんなんてあっという間に三枚におろされるのがオチさ」
やはり、こうなったか。
と、ルカンは反論する気にもなれずに黙りこくった。
ところが黙っていられなかった人物がいた。
「笑わないで! あなた達なんかより、ルカンはずっとずっと強いんだから!」
ムッと頬を膨らませて怒りを顕にしたハイリに圧され、静寂が訪れた。
「ルカン、もう行こうよ。私、ここ嫌い」
ハイリはルカンの手を取るや、彼を引っ張って店の外に……出ようとしたがルカンの体はビクとも動かず尻もちをついた。
「もう、重いよぉ」
「ああ、ごめんよ。じゃ、じゃあ、組合長。ごちそうさまでした」
呆然とする皆の視線を背に浴びながら、二人は酒場を出た。
だが彼らを責めることは出来ない。
ルカンの強さを知っているのは、ここではハイリだけなのだから。
しかしやがて思い知る時が来るなど、誰も予想していなかった。