旅立ち ①
島に戻った二人が先ず取り掛かったのは、林の中でのびていたアゾットを小船にのせる作業だった。
ボートにはアゾットがエミリア王国に戻るまでに必要な水と食料を積み込んでやり、沖まで押し流せばあとは潮流によって自然と島から離れていった。
目が覚めたときには広い海原の真ん中にいるだろう。
「くしゅんっ!」
「わあ、大変だ! はやく服を乾かさないと!」
ルカンは小屋に入ると、乾いた薪を適当に積み上げて火打ち石を叩いた。
しかし慌てていると中々上手にいかないもので、火花は散るのだが炎が灯らない。
すると、毛布に身を包んだハイリが薪に近づく。
手をかざして瞼を閉じると、彼女の手が仄かに赤く光り、手のひらから小さな火が吹いて薪に燃え移った。
「ハイリは魔法の名人だね?」
「そんなことないよ。ルカンも、少し練習したら出来ると思う。それだけの魔力量があるなら、出来ない魔法なんて無いよ?」
「そうかな。じゃあ、教えて貰っても?」
「うん。助けて貰ったお礼をしたかったから、それくらいなら」
ルカンは一夜の間、ハイリと夕食を楽しみながら火、風、地の魔法の基礎を教わった。
教わるままに手のひらに火を灯してみたが、仄かに温かさは感じるが熱くは無い。
しかしやはり火は火なのか、段々と手から腕にかけて肌の乾燥を覚えたので握って消した。
風も同じだった。
地に至っては魔力はあっても才能が伴わないのか、思うように形にならないときたものだった。
やはり水が一番身体に適しているらしい。
そういう意味では、四元素全てを操るハイリは流石に聖女と讃えられるだけあって、人間の中でも特別な存在だったのだろう。
翌朝、ルカンとハイリも長旅の支度にかかった。
といっても必要な物品は港町で購入するので、家の中にある食料を集め、他にも道中の生活に使えそうなものを大きな背負カバンに詰め込んだ。
仕事で使う筏に荷物とハイリを載せて、ルカンが身体に綱を括り付ける。
「結構波で揺れるから、しっかり掴まっててね?」
「うん……こうして見ると、本当にお魚にしか見えない」
水面から出ているのはルカンの頭と背びれと尾鰭の先端だけだった。
尾びれを大きく左右に振りながら海原を行く間、ハイリはルカンに質問を浴びせていた。
人間にとって魚人は未知の種族。交流どころか接触することさえ稀なので、ハイリも好奇心がくすぐられたのだろう。
ルカンは苦笑しながら余すこと無く自分の出生や今までの経緯を語った。
無論、もともと別世界の人間だったことは伏せたが。
「じゃあ、それからお母さんとは一度も会ってないの?」
「そうだよ。どこの海にいるのかもわからない。でも、ディブロン族は一人で生きるのが掟みたいなものなんだってさ。サバサバしてるよねー」
「魚だけに……」
「なんだって?」
「あ、ううん。なんでもない。ルカンは私に聞きたいことってある?」
「ハイリに? そうだなあ…………もし、神の国に行けたら、ハイリは何を神様に願うの?」
あらゆる願いが叶う地に行こうとするからには、それなりの願い事があるはず。
そう思って聞いてみたところ、ハイリは即座に、短くもハッキリと答えた。
「世界平和」
ルカンは目を丸める。
まさかとは思ったが、ここまで真っ直ぐに言われるとどう反応したものか悩む。
逆に世界征服とでも言ってくれれば笑い飛ばせたかもしれない。
「それは、なぜ?」
気づけば質問を重ねていた。
「だって……人間って戦ってばかりだもの。ずっと昔から、色んな国が、神の国を巡って戦いを続けているの。今でもそう。エミリア王国も、他の国も、人々も。誰も止めようとしないから、私が止めることにしたの」
ルカンはおっとりとした彼女の口から出てくる言葉のスケールの大きさに圧倒された。
「ねえ、ルカンは何を願うの?」
同じことを聞かれたルカンは言い淀む。
彼が抱いた願いはハイリほど壮大なものではないし、誰かのためのものでもない。
おそらく人が聞けば笑われてしまうようなものだったが、ルカン本人としては切実な願い。
なんとかはぐらかそうとしたものの、ハイリは食い下がった。
ルカンはため息をつきながら泳ぐのを止めて彼女に向き直る。
「笑わない?」
「うん。笑ったりしない」
「じゃあ言うけど……」
彼は遠い昔、かつての自分の姿や家族たちのことを想いながら答えた。
「人間に、なりたいんだ」
正確に言えば、人間に戻りたかった。
暫し無言の時間が流れた。
ハイリはいつもの眠たげな目を丸めてルカンを凝視し、口を小さく開けっ放しにしていた。
確かに笑わないでくれたがこれはこれで恥ずかしかった。
ルカンは彼女の視線に耐えきれず静かに海に沈んでいく。
「あっ! 待って! 潜らないで!」
波間に手を突っ込んで潜りゆくルカンの鼻先を両手で掴んだ。
再び顔を出したルカンにハイリも顔を近づける。
「どうして人間なんかになりたいの? 人間なんて、欲深くて残酷で、口が開けば嘘ばかりでやることも悪いことばかり。命も短いし、ルカンみたいに泳ぐことも出来ない。鳥にでもなった方がずっといいよ?」
「随分と辛辣な御評価で……」
「だって、私、人間が嫌いなんだもん」
服を握りしめ、絞り出すように吐いた言葉のドス黒さにルカンは身震いした。
余程嫌な思いをしてきたのだろうが、それを聞くことは出来なかった。
話題を変えなければ……と、考えていたところでハイリのお腹がグゥと鳴る。
「あ……お腹空いちゃった」
「そういえばもうお昼だっけ。カバンの中に色々あるから適当に食べちゃって」
「ルカンは?」
「旅費を作らないといけないから、少し漁をしてくるよ。ついでに腹ごしらえもしてくる。すぐ戻るから食べながら待ってて」
体を翻し、尾を振り上げて深い海の底へ潜る。
あまり長く彼女を一人で残すわけにもいかないので手早く仕事をせねばならない。
ルカンは瞬く間に水深300メートルに達した。
鼻の探知器官と側線と嗅覚で獲物の気配を捉えると、手に銛を握りしめて襲いかかった。
このあたりの深さなら人間の網にもかかる魚ばかりだ。
正直な話、それほど多くを捕れないルカンにはあまり利益をもたらさない獲物ばかり。
ただ腹を満たすには最適だった。
はじめの頃は生きた魚を頭から貪ることに抵抗があったが、これにも既に慣れた。
生まれ変わって20年近くにもなればコメの味もときおり無性に恋しくなるが、果たしてこの世界にあるのかも体が受け付けるのかどうかもわからない。
中型の回遊魚を瞬く間に十尾ほど平らげると小骨で牙の間に挟まった魚肉を綺麗に取り除き、ルカンは更に深く潜った。
グロテスクな深海魚を何尾か捕らえて海面に戻ると、果物でお腹を満たしたハイリが自分の杖を掲げて海鳥たちと戯れていた。
彼女の周囲には優しい微風が吹いている。
よく耳をすませてみると、風の中に彼女の声が混じっていた。
鳥たちにも彼女の声が聞こえるのだろうか。
邪魔をしないように静かにしていたが、海鳥たちはルカンの姿を見て慌ただしく翼を羽ばたかせた。
「あ、おかえり。ルカン」
「ただいま。待った?」
「ううん。一杯とれた? どこまで潜っていたの?」
「ざっと800メートルくらいかな。島から離れているからここはすごく深いよ。底がどこにあるのかわからない」
「ルカンはどこまで潜れるの?」
「一番潜ったのは2000くらい。そこまで行くと息苦しいし満足に動けない。僕はなんとか周りが見えるけど、陽の光は全く届かない真っ暗闇な世界だよ」
「そんなところにも生き物がいるの?」
「いるよ。エビとか、イカとか。あとはかなり変な魚が沢山」
「空気も無くて、真っ暗で、変な生き物が沢山いるなんて、なんだか怖い……」
「実際、怖い世界だよ。海の底よりも、夜空の星とか月に人間が立つ日の方が早く来るんじゃないかな」
ハイリは冗談と受け取って笑っていたが、ルカンとしては冗談のつもりはなかった。