出会い ②
水深約1000メートル。
光も届かぬ闇の世界に光る金色の目は、漆黒の中でのっそりと遊泳する大型の獲物を見逃さなかった。
青白く流線型のシャープな体に生えた両足の間には、背筋に沿って延びる鋭く長い尾鰭がある。
また両腕の肘にも体のバランスを保つため、エッジのきいた三角形のそれが備わっていた。
両腕両脚を折りたためば獲物と同じように、水の抵抗も受けずに音もなく泳ぐことが出来る。
喉元の鰓のおかげで水中で息が詰まることもないが、流石にここまで深いと水中の酸素量も少なくて多少苦しい。
海底の砂地付近をゆらゆらと泳ぐ大型の黒い深海魚に目を付けた彼は、気づかれないように自身も静かに泳ぐ。
彼は近づきながら考えていた。
どうやってこの獲物をしとめたものか、と。
なるべく傷をつけずに持ち帰りたい。
ならば口に幾重にも生えそろった牙を使うのはやめておいたほうがいいだろう。
少し力を込めて噛んだだけで、相手の体は強靭な顎によっていとも簡単に千切れてしまうからだ。
かといって素手で捕えようとすれば大暴れされて持ち帰るどころではない。
やはり毎度と同じ方法で狩るのが一番だろう。
彼は折りたたんでいた右腕を頭上に掲げた。
そして意識を集中させると手のひらが白く輝き、周囲の海水が揺らめくと、徐々に手の周囲の水温が急激に下がって氷結を始める。
氷は長さ2メートルほどの細長い形状を保ち、その先端には返しがついた刃があり、獲物を一突きで仕留める銛が出来上がった。
背後から十分に近づいたところでしっかりと狙いを定め、急所に向けて銛を突く。
が、その直前になって獲物は突然身を翻して逃走をはじめた。
すかさず彼も尾を振って猛然と追跡していく。
上下左右と急浮上、急旋回を繰り返して三次元的に動き回る獲物だったが、光がない状態でも、彼の目には真昼の海面と同じように明瞭に見えた。
そのうえ丸く尖った鼻先には相手の微細な電気を感じ取るロレンチーニ器官もあり、胴体の側面には僅かな水の振動も探知する側線があるので見失うことは無い。
何よりも彼のスピードは深海の大水圧を物ともせず、他の追随も逃走も決して許さない。
海底の岩場の陰に逃げ込もうとした獲物の急所が凍てつく刃に貫かれた。
すぐさま獲物の体は凍り付き、岩場に足をつけた彼はホッと一安心してゆっくりと浮上を開始する。
彼の名はルカン。
前世で人間であった魚人種である。
段々と水面に近づくにつれて視界が明るくなり、太陽の光が水中に白いオーロラを作り出す。
ルカンは少し速度を上げて一気に水面から飛び出した。
「やった! やった! 大物だ!」
氷の銛に貫かれた大魚を空高く掲げて誇り、ルカンは深く息を吸い込んだ。
水から出れば鰓は用をなさない。
代わりに小さく萎んでいた肺が膨らみを取り戻して、新鮮な酸素を体内に取り込んでいく。
尾ひれを左右に動かしてゆるゆると海面を泳ぎ始めたルカンの視線の先には、新緑の草木が茂る小さな島があった。
白い砂浜に海鳥たちが屯して羽根を休め、獲物のおこぼれを期待してルカンを見つめている。
「ごめんな、これ全部売り物なんだ」
銛に刺さった大物の他に、ルカンの唯一の衣類である皮の腰巻きには布の魚籠が結び付けられていた。
中には貝類だとか深海へ潜行する前に捕らえた小魚たちがおり、それらも鮮度を保つために冷凍保存されていた。
上陸したルカンは両足でのっそりと歩く。
先程まで水中で見せていた機敏さは欠片も無い。
なにせ身体が重たくて仕方が無いのだ。
足先から頭までは170センチ程と人間と大差はないが、頭の先から尾鰭の先までで見れば、ゆうに3メートルもあるのだから。
島の小高い丘の上に彼の家がある。
家といっても打ち上げられた流木を組み上げた簡素な小屋で、寝床は木々の葉を幾重にも敷き詰めた木製のベッド。
あとは石を積み上げて作った料理用の竈と作業用の机と至ってシンプルなもので、住み着いてこのかた10年にもなるが一人も来客は無い。
ルカンは一先ず漁で疲れた身体を休めることにした。
この世界で生きるようになって、どれほど経ったことだろう。
確かに海に呑まれて死んだのだ。
だが、次に気がついたときには、この世界に産み落とされていた。
人間ではなく、魚として。
なんとも皮肉な話である。
漁師が魚に生まれ変わるなど、仏陀もビックリな因果応報っぷりだろう。
認めたくなかったが、鰓呼吸や鰭で泳いだら嫌でも自覚してしまう。
前世の記憶が残っているのは、きっと、神様の嫌がらせかバチなのかもしれない。
この世界の母の胎内から出てきたときは、あまりの変わりように発狂しかけたものだ。
それが今ではすっかりこの姿にも馴染んでしまった。
慣れというのは恐ろしいものである。
むしろ、水陸両用という人間には成し得ない力は、素直に便利だと思うようになっていた。
水の中にいくらいても息苦しくならないのだから。
魔法もそうだ。
小説だとか、ゲームだとか、現実離れした空想の産物だと笑っていた力を使うというのは奇妙な思いがした。
どうも体内に魔力なるものが宿っているらしいのだが、詳しい原理は理解らない。
ただ母親から基本的な使い方だけを教わった。
体内に流れる「水」を意識し、魔力を集中させて形を成す。
言葉にすると簡単だが扱うにはコツを要した。
その母親は今どうしているかと聞かれれば、どこかにいる、としか答えられない。
魔法の使い方と狩りを教えた後、母はルカンの前から去った。
この広大な海で頼れる者は自分だけ。
それが魚人族の中で最も力ある海の戦士ディブロン族のしきたりなのだと。
なんとも孤高な連中だ。
人間や小魚よろしく皆で群れた方がいいこともあるだろうに。
と、考えたところで自分自身も今まで一人暮らしをしていたことを思い出し、前世は人間でも今は立派なディブロン族の一人、いや一尾なのだと自嘲した。
「しかし……背びれが邪魔で仰向けに眠れないのは難点だなあ」
そもそもディブロン族のみならず、魚人族であるルカンが陸で生活していること自体が前代未聞の珍事だった。
交流があるわけではないが、彼らは地上を忌み嫌う。
魚人族にとって地上は息苦しく、肌は乾き、太陽に焦がされる不毛の世界。
足で歩けば実に鈍重で、しかも骨格のせいか背筋を真っ直ぐ伸ばせないので常に猫背ときている。
水中を自由自在に動き回るようにはいかない。
そんな地上で寝泊まりをしているのも、やはり、元が人間だったからなのだろう。
「さてと、仕事に行きますか。人間の頃を覚えているのは便利だけど難儀だなあ……というか、人間の常識が通用しないんだけど」
十分に身体を休めたところで、新鮮な獲物を大きな木箱に入れて浜に上げている筏に載せる。
筏といっても小屋と同じように簡素なもので、流木を組んだだけでマストも無い。
推進力はと聞かれれば実にシンプル。
他ならぬ自分である。
「よし、行くか」
身体に綱を縛って筏と結び、大海へ泳ぎだす。
大きく尾びれを振ればあっという間に島が小さく離れていく。
目指す先はこの世界の人間たちがいる漁港だ。
泳ぎ続けて半日ほどかかるが、獲物は魔法で冷凍してあるので鮮度は落ちない。
港への方角も例のロレンチーニ器官のおかげで磁気を探知して迷わずにすむ。
鼻の中に方位磁石があるようなものだ。
異世界でも人間と魚は切っても切れない関係だ。
そこに海がある限り、魚介類の恵みはある。
「魚になった身で言うのも変だけどねぇ」
暫く泳ぐと商船の航路に差し掛かった。
今日のところは船影は見えないが、ときたま、食料に困った船に頼まれて魚を獲ってくることもある。
やはり人に喜ばれるのは気分がいいものだ。
港に着いたのは一夜を過ぎて明け方になった頃だった。
一晩中泳ぎ続けたが体力的には殆ど支障はない。
深海を長時間潜水するよりは遥かに楽だ。
薄っすらと白んだ空に雲が流れ、岸壁には両舷に外輪を備えた魔動帆船のマストや動力機関である魔炉に直結した煙突も今は静寂に眠っている。
しかし、人間たちの営みは騒々しい程だった。
漁から戻った海の男たちが獲物を岸壁に陸揚げし、それらは吟味された上で競りにかけられる。
よい食材を落札した料理屋の主人や、早朝から新鮮な魚を買い求める女性らが意気揚々と出入りする港もまた世界を問わなかった。
「よぉ! ルカンじゃないか! おはようさん!」
「おはようございます!」
同業の漁師たちや魚河岸らが気さくに声をかけてくれた。
はじめの頃は誰もが目を丸くして、海から魔物が出てきたぞ、と騒ぎになったものだ。
「サメの化け物だ! 殴れ!」
だとか言われたときはかなり焦ったが、
「ブクブクブク……ボク、ワルイ、サカナ、ジャナイヨ」
と、当時は酷くぎこちない身振り手振りで説得したものだ。
人間と殆ど接触しない魚人族は地上に住む彼らからすれば、まさしく未知の生き物だったのだろう。
そんなこんなで紆余曲折を経て色々な苦労はあったものの、なんとか漁師の一員として迎え入れて貰うことができた。
しかも町の漁業組合の正式な会員でもある。
もちろん、人間以外では初の快挙だ。
そんなわけでルカンも漁の成果を水揚げして商売することを許された。
特にルカンの場合は他の漁船ではとても捕れない深海の魚や貝類などを扱うため、珍しい食材を目当てにする美食家貴族御用達の業者や新種の研究を目的とする学者などからいたく贔屓にされていた。
「毎度ありがとうございました!」
おかげでものの一時間と経たぬうちにすっかり獲物は捌かれて、それに見合った収入を得た。
生まれ変わって尚も仕事に勤しむとは、なんとも難儀な真面目さではある。
金は決まって生活物資に使った。
大型の家具などは流石に島まで運ぶことは出来ないが、たとえば鉄鍋だとか調味料だとか、あとは本もいくつか購入した。
前世では調べ物などネットなどを使えば楽に出来たが、ネットどころか電気製品さえ無い異世界では本こそが知識の泉だった。
文字の読み書きは親切な仕事仲間たちが教えてくれた。
字形は楔形文字に似ており、一見すると意味不明な模様の羅列にしか見えないが、おかげさまで単純な文章なら困ることは無くなった。
一通りの買い物も済ませて筏に積み込みをしていると、不意に、子供の泣き声が聞こえた。
反射的に顔を向けると、幼い少女が母親に手を引かれた状態で海に身を乗り出している。
ああして止められていなければそのまま海に落ちていただろう。
しかし、なぜ彼女は海に向かってべそをかいているのだろうか?
「もう、いい加減に諦めなさい! 海に落ちちゃったものはしょうがないでしょう?」
「やだやだやだ! 私のお人形! パパに貰ったお人形なんだもん!」
どうやら大切な人形を海に落としてしまったらしい。
ルカンは積み込みを一旦中断し、頭から海中へ飛び込んだ。
船が出入りするのである程度の深さはあるが、それでもルカンにすれば浅すぎるほどだった。
一瞬で10メートル下の海底に降り立つと、砂地に横たわる木彫りの人形を見つけた。
手に取って強く海底を蹴り、浮上する。
「ぷはっ! これであってるかな?」
少女の泣き顔の前に人形を差し出すと、彼女はパッと晴れやかな笑顔になった。
「私のお人形! ありがとう! 魚のお兄ちゃん!」
見慣れない魚人族に母親は気味悪がって軽く礼を述べて立ち去ってしまったが、腕を引かれた少女は雑踏に消えるまで大きく手を振ってくれた。
「はは、魚のお兄ちゃんか。今日もいいことしたなぁ。よし、帰りますか」
馴染みの面々に挨拶も済ませ、再び筏を曳いて泳ぎだす。
今までにも幾度となく繰り返してきた日常。
これから先も、変わらぬ日々が続くものと思っていた。