偶然か必然か
【8月1日午後7時10分】
夕暮れを背に走っていく友人を見送る柊弥の心に微かな不安が生まれる。心がザワザワとする感覚は生まれてはじめてだった。
(あんま暗い考えばっかするな、俺)
悪い方向に考える思考を放棄し残っている片付けを開始する。
大きめの石の上に腰をかけてから数十分が経ち夜闇が落ちてきた。
時間が経つにつれて心配が増大し居ても立っても居られず様子を見にいくべく腰を浮かす。その瞬間。背後の森の中からガサガサやドサ、といった不可解な音がする。
「なんだっ!?」
先ほどの悲鳴の事もあり心臓が飛び出るほど驚き、少し語尾が吊り上がる。
しかし、その驚きは一瞬にして鎮火する。
そこで倒れ伏していたのは、夜空をそのまま切り取ったような濃紺の髪の持ち主で着ている衣服は砂埃や土でひどく汚れていた。
声をかけるべきかどうか迷ったがそれは一瞬だった。
「おい!大丈夫かあんた!」
遠くから声をかけるも反応が無い。衣服は汚れているものの血が付いていなくそれどころか見える範囲に傷一つ無かった。
反応がないため死んでいるのか、と思ったがそれだとさっきの音に説明が付かないため今度は近くに駆け寄って声をかける。
「聞こえるか!返事しろ!」
その声に反応するように小さく喘ぐのが聞こえた。生きていることの確認が済み汚れの付いた体を抱きおこす。
(細いな、女の人ってみんなこうなのか?)
その細い体を抱きおこす際に骨を触っているような硬い印象を覚える。
生きていることの確認が取れたことで心に多少の余裕が生まれたがこんな場所に女の人と二人という特殊な現状に動揺をした。
「はぁ、戻ってきてくれよ」
自分でも情けない声を出してしまったと思っていたが流石にこの状況になっても冷静さを保てるような頑丈な心を持ち合わせていない。
起きないかな〜、などと思いながら横で寝ている人物を軽く揺すってみる。やはり小さく喘ぐ——そう思った刹那、目を開けた。ゆっくりとだがそ眼から目を奪われる様な鮮やかな碧眼を覗かせる。事実、その碧眼に数秒の間釘付けになってしまった。
暫しの沈黙の後、小首を傾げてその花の顔を綻ばせて恐る恐る問いかける。
その仕草に柊弥の心臓が早鐘を打つ。
「あの、ここはどこですか?…それと…どちら様でしょうか?」
その声は心にストンと落ちてくるほど綺麗で彼女の艶やかさを最大限まで引き出しているようである。
自分が何故この場にいるかわからないのは一体何故なのさ、そんなことに思考を巡らせていると二つの可能性が頭をよぎった。
一つは、何者かに誘拐をされてここまで連れて来られた可能性。いや、それはない。もしもそうだったとしたらここまで落ち着いた会話はできないだろうし、俺の名前を聞いたりしないだろう。
そして二つ目。一番現実的で無い、漫画やドラマの世界でよくある記憶喪失というやつだ。やっぱりこれなのかなー、だとしたら面倒なことになりそうだな。
(おっと、少し時間をかけ過ぎた)
「えっと、俺の名前は榊 柊弥。それでここは山神楽橋の近くの河原だ、、です」
場所を告げてもピンとこないようで腕組みをして思案顔の様子だ。
「あの、えった、、ここの都道府県の名前は…」
この言葉によって自分が質問の意味を取り違えていたと思った。ここがどこなのか、という細かな括りではなくもっと大きな括りで聞いていたのだ。そんなことにも気付かずにこんな気弱な女性に不安な思いをさせてしまったのだ。自分自身を不甲斐なく思う。
(それにしてもこの人綺麗だなー、どこか懐かしい気がするような…まあ、気のせいか)
「ここ愛知県です。愛知県の名古屋市」
すると彼女は少し考えた後ゆっくりとこちらに視線を向ける。故意ではないのだろうが座っているため上目遣いで見られているような気がして心臓が破裂しそうなほど拍動の速度が増す。
それこそ彼女に聞こえてしまうのではないかというくらい。
「私の、名前は、、なん、ですか?」
予期しない発言に「えっ?」と間の抜けた声を出してしまう。
一瞬冗談で言っているのでは?と思ったが彼女の——可愛い。いや、このくらいの年齢の場合綺麗のほうがいいだろう——表情を見るに違うのだろう。
「えっとー、君の名前はちょっとわからないかな」
(やめてくれ、そんな哀しそうな顔をしないでくれ)
鮮やかな碧眼を潤ませて目の端に涙を浮かべる彼女をそのままにしておく気にはならなかった。
ぐすん、と鼻を鳴らして小声を話しだした彼女の話を聞くにどうやら名前や住所を含む自身に関する記憶が無くなっているらしい。
最初に思っていた記憶喪失、というよりは記憶欠如というところだろう。
「えっと、つまり君が覚えているのは海の景色と真っ白な部屋ってこと?」
「はい、そういうことです」
冷静になれたのか先程までのたどたどしい雰囲気はどこにもない。
しかし困ったもので三十分ほど経った今でも康太とアレックスは帰って来ておらず、既に外は太陽を飲み込む暗黒が空を支配し月明かりと街灯の灯りのみが頼りとなる。
「これからどこか行く宛はあるんですか?」
「いえ、無いです。ですのでこれからは宿泊先を探さないといけません」
少し寂しそうにはにかむ彼女の笑顔に胸を締め付けられる思いをする。
柊弥はこれから言う一言に全身全霊を込める。この返答によっては自分はこの人を見殺しにしてしまう結果になるのかもしれないのだから。
張り付く喉を唾で潤わせて柊弥は意を決する。
「うちに泊まりませんか?」
「え?あなたのお家ですか?」
驚いた表情を見せる彼女を見て、説明が足りなかったと感じる。
(これじゃあナンパと同じじゃないか!あー、えっとー、説明しないと)
「うちには妹もいますし、貴女なら直ぐに打ち解けられると思います!それにずっとじゃなくて宿泊先が見つかるまでっていうことで」
必死に弁明と言う名のマシンガントークをしている姿を見て、彼女は破顔する。その笑顔を向けられた瞬間に柊弥の心は決まった。
この人を守りたい。
この人のことをもっと知りたい。
この人の笑顔をもっと見たい。
(決めた、この人を守りたい)
彼女の目をキョロキョロとして戸惑うがその迷いも一瞬にして無くなった。小さく微笑み口を開く。
「はい!お願いします!」
「柊弥さんの家ってどこにあるんですか?」
髪を揺らして問いかける彼女の口調が親しげなのと呼びかける名前が違うのはここに来るまでの間の会話で打ち解けたことを示している。
「俺の家はここから少し行った先を曲がったところだよ」
彼女の問いかけに鷹揚に答える柊弥の頬は僅かながら緩んでいる。
「結構近かったんですね、山神楽橋から」
この明るいトーンが彼女の普段の口調なのだと思い至った柊弥の心はまた新しいことを知れたと幸福で一杯だ。
「あぁ、あと五分くらいで着くと思うよ」
柊弥は彼女の記憶について思い出す。
彼女の覚えているものは海と白い部屋だと言うことは聞いたが、その海が一体どこなのか、どんな風景なのかや名前を覚えているかを聞いていなかったのだ。もちろん機会は充分にあったがそれをしなかった、記憶は少しずつ取り戻していけばいいと思っているからだ。記憶は取り戻してあげたいと思っているが、しかし、もう少し後になってもいいんじゃないかな。
なんてことなかった日常に新たなスパイスが加わってこれからどんな日々を送ることになるか、期待に胸を膨らませながら最後の角を曲がる。
「あのマンションの13階に俺の家があるんだ」
言いながら指をさした方向を見た後、横を歩く人物に顔を向ける。
彼女の碧眼は驚きで澄んだ瞳を視認するに足るくらいに見開かれていた。
あわあわと口をさせながら彼女は問う。
「こんな大きいマンション見たことありません。すごいですね…!」
どうやら彼女は住居に関することは覚えているらしい。
「この辺ではそこまで珍しくないぞ?っていうかそういうことは覚えているんだな」
そうなんですか、と彼女は理解を示す。
その記憶の失い方は蜂の巣のような穴だらけ、というか悪く言えば自身が何者であるかを悟らせないように故意的な失い方のような奇妙な感覚を覚える。
マンションの一室、柊弥の家のドアノブを回して——
「おかえり!お兄ちゃ——。え、その女の人は?」
すっかり忘れていた、というか頭の中から抜け落ちていた。妹が泊まっていることを。
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