第3話
赤。赤。赤。
見渡す限りどこまでも続く、赤。
何かが焼け焦げたような鼻につく匂いと、極端に狭くなった視界。
かろうじて目に映る空は場違いのように青く澄んでいてユーリは、ああこれは夢だ、と不意に思い至った。
痛い。熱い。苦しい。誰か、誰もでいいから助けてほしいと叫んでも裂けた喉からはヒュゥ、と掠れた呼吸音が漏れるだけだ。
魔法で回復したいけれどすでに魔力は底を尽きているようで、もうほんの僅かな力さえ揮えそうにない。
ふと、目の前に横たわるものに目を向けた。
焼け爛れてもはや原型を留めていないが、ソレは辺りに漂う強烈な匂いの元となっているようだった。
ユーリは何とはなしにその桁外れの巨体を端から辿っていき、次の瞬間、息を呑んだ。
ソレは、泣いていた。
化け物が涙を流すなど聞いたこともないが、ユーリにはソレはたしかに泣いているように見えた。
視力などとうに失っているであろうその瞳から、まるで命が零れ落ちていくような清廉さをもって透明な滴が流れ落ちていく。
ユーリは体からただでさえ少なかった血の気がさぁ、と引いていくのがわかった。
やめて。反射的に否定する。何かがおかしいと、直感的に理解してしまうのがたまらなく嫌だった。
やがて最後の命の欠片を燃やし尽くし、炎が消えるような静けさでソレは呼吸を止めた。
壮絶な痛みと苦しみの中にありながらしがみつくようにソレが見つめていたもの。
その視線の先には―――――。
ふと意識が浮上する感覚にユーリはそろそろと重い瞼を持ち上げた。
じっとりと体中に嫌な汗をかいていて、たいそう気持ちが悪い。ここ数年見ることもなかったというのにあの男が来てからは連日同じような夢ばかり。どれもすべてあの頃のものだ。
はぁ、と思わず小さな溜め息が漏れる。
拾わなければよかったと後悔はしていない。していないが、あの男の持ち込んだ厄介事については別問題だ。ユーリは朝から頭痛の種を思い出して頭を抱えるのだった。
「おはよう、聖女殿」
「おはよう、騎士様」
なんとも爽やかな笑顔で玄関から入ってきたのは先日森で拾ったあの男だ。
外で鍛錬でもしていたのだろうか、簡素なシャツの襟首から覗く素肌にうっすらと汗が滲み、端正な顔の造りと相まってもはや凶器と言ってもいいほどの色気を放っている。
初めて2人で食事をとった次の日、ユーリは男を家から叩き出した。
2度と来てくれるなという意思を込めてできるだけ荒っぽく追い出したのだが、男は頑として動こうとしなかった。
家の出入り口からは入ってこられないように魔法をかけてあったので男が侵入することは不可能であったが、それもあまり意味がなかった。
男は文字通り、玄関から放り出されたその場から一歩も動こうとしなかったのだ。ユーリが見た限りでは食事のための狩りすら行う様子はなかった。
ユーリはどうせしびれを切らして国へ引き返すだろうと高を括って男の好きにさせることにしたのだが、今思えばそれこそ男の思うツボだったのではないかと思う。
食事も摂らず、水分さえ口にしないような状態でただの人間である男がそう幾日も保つわけがなく。それでも雨風にさらされながらも思っていたよりかなり長いこと粘っていたある日、あからさまに弱っていく男の姿についにユーリの方が根を上げたのだった。
「聖女殿、あなたの慈悲に感謝いたします」
ボロボロの姿でにっこりと笑う男に、思わず怒声で返したユーリは少しも悪くないはずだ。
それからというもの、あれよあれよという間にすっかり家に住み着いてしまった男の顔を眺めてユーリは小さく溜め息を吐いた。
こんなはずではなかった。けれど久々の人との関わりを少しだけ嬉しいと思っている自分もいて胸中はなかなかに複雑だ。
「どうした、朝から憂鬱そうだな」
男が軽く汗を拭いながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。
いつの間にかすっかり口調も砕けたものになってしまっている。
本当にこんなはずではなかったのに。
「なんでもないわ。貴方、いつまでここにいるつもり?国へ戻らなくていいの」
「聖女殿が同行してくれるなら俺は今からでも構わないが」
「それは無理」
男はそうだろうな、というように肩をすくめて見せるとキッチンで水を一口飲んで、再び玄関から外へと出て行ってしまった。使い古しの布を持っていくあたり、きっと斧にでも巻いて薪割でもしてくれるのだろう。
ここに居座るようになって男はこちらが何も言わずとも率先して薪割や家の修繕などをするようになった。
初めは食事も別々にとっていたが、キッチンの説明や道具の使い方など色々と説明が面倒になってユーリの方から一緒に食べようと申し出た。そのため食事の準備などはもっぱらユーリの仕事となっている。
そう考えればユーリの日常は男が来る前と後とで、それほど変わってはいないように思える。食事を作る量と掃除する部屋が2人分になったくらいで特に支障はない。
薪割や修繕もユーリだって出来ないわけではないが、やはり面倒臭くて放置していただけに片づけてもらって正直、感謝しているくらいだ。
それなのに何故か、妙に腑に落ちない。
あれからしばらく経つが、男が例の話題を出したことは一度もない。
男だって立場と心境を考えればこんなところでのんびり共同生活を送っていていい訳がないと分かっているだろうに。
このままずるずるといけばユーリがほだされて力を貸すとでも思っているのか。
それとも本当に何も考えていないただの馬鹿なのか。
いくら考えたところでユーリには分かるはずもないのだが。
「まったく、どうして私があの男のために悩まないといけないのよ」
なんにせよこの男との共同生活はやはり何かが間違っているに違いない。が、それについて影響もないのだから考えるだけ無駄だとユーリは半ば無理やり自分を納得させて、いそいそと食事の準備に取り掛かるのだった。
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