九話 お姫様のように
リリアンにとって水曜日は特別な日になった。
これまでも毎週水曜日にグランヴィル侯爵邸に商品を届けるのは楽しかった。
侯爵の母親であるローザは気さくな人柄で、リリアンは彼女と話せることが楽しかったし、立派な侯爵邸を近くで眺められるのも嬉しかった。
帰り道に寄る公園の奥にあるベンチは誰にも邪魔されず素晴らしい眺めを堪能できるお気に入りの場所で、そこに立ち寄るのも楽しみの一つになっていた。
そして今はアレクに会うという楽しみが加わり、さらにリリアンの心を明るい色に染めていた。
侯爵邸でお茶をして以来アレクは忙しいらしく、邸内でお茶をするか公園に行くか、その程度の時間しか取れなかったが、その短い時間の中でもアレクの心遣いは十分に感じられた。
百合恵の代理だからといくら心に言い聞かせても、リリアンの胸は高鳴りときめいた。
アレクに会う水曜日はリリアンに活力をもたらし、サボン創作のインスピレーションをわかせ、リリアンはこれまで以上に仕事が面白くなった。
リリアンの両親は侯爵との仲を急接近させた娘に対し、遊ばれている可能性を伝えるべきか悩んだが、娘の性格上それは初めに娘自身も考えただろうと思った。
あとで捨てられ傷つくことになるからと説き伏せても、無理やり諦めさせれば結局は今の娘の心が傷つくのだ。
それなら侯爵との恋を今楽しんでいる娘の心を大切に見守ることが親として出来ることだと結論づけた。
今日は水曜日だがリリアンは侯爵邸に行かない。
アレクが店までリリアンを迎えに来ることになっているからだ。
そのときに毎週ローザへ届けている商品を渡せばいいと言われている。
表に侯爵邸の馬車が止まったことを確認して出かけようとする娘の肩に、「たとえ傷つくことになってもお父さんはリリアンの味方だからな」という思いを込めて父親が無言で手を乗せた。
リリアンはその意味を汲み取れず、怪訝そうに「いっていきます」と声を掛けて出て行った。
父親が店の中からリリアンを見送っていると、馬車から降りてきたアレクが一言二言リリアンに話しかけ、その手を支えて馬車に乗せてやった。
薄っすら頬を染めて馬車に乗り込む娘を見ていると、アレクが店内の父親へと向き直った。
目が合い、勢いよく姿勢を正す父親に軽く微笑むと、アレクは店の扉を開けた。
「お嬢様をお借りします。日が沈み切る前にはこちらまでお送りします」
「は、はい。よろしくお願い致します」
ただのサボン屋の店主である自分に対して丁寧に腰を折って挨拶をしたアレクにリリアンの父は驚き目を見開いた。
声を裏返しながらも返事をした父親に、アレクは穏やかに微笑み店を後にした。
馬車を見送った父親は、娘は意外なことに大切にされているのかもしれないと思い、安堵の息をついた。
久しぶりにゆっくりした時間が取れたアレクは、リリアンを連れていきたい場所があると言った。
馬車の隣に座るリリアンの姿にアレクは目を細める。
「今日もリボンを付けてくれているのだな。嬉しいよ」
「綺麗だし、気に入っているから」
はにかみながら答えたリリアンの髪にはアレクが渡した真珠色のリボンが結ばれている。
毎週会うたびにアレクはリリアンにプレゼントを渡していたが、それはお菓子や花で消えものばかりだった。
リリアンはそれも喜んで受け取っていたが、自分がプレゼントしたものをこうして毎回身に着けてくれるのはアレクにとっても嬉しいことだ。
だからこそリリアンが身に着けるものはアレク自身が納得いくものを選びたいと思う。
最近は忙しくてそれが出来ず菓子や花にしていたが、その間リリアンの身に着けているものを見たり話を聞いたりして、その好みがだいたい把握できたのは良かった。
「今まで忙しくて何もできなかったから、今日はあなたに楽しんでもらえることを考えてきた」
リリアンに微笑みかけるアレクのアイスブルーの瞳は、これからの時間が楽しみだと語っている。
その瞳を見てリリアンも嬉しそうに頷いた。
馬車が止まりアレクの手を借りてリリアンが降りると、ウィンドウに美しいドレスが飾ってある店の前だった。
店の扉が開き、店員が二人を招き入れると店主らしき女性から声を掛けられた。
「グランヴィル侯爵、お待ちしておりました。準備は出来ております」
「ありがとう。早速お願いしよう」
「かしこましました。侯爵はあちらでお飲み物をどうぞ。お嬢様はこちらへ・・・」
リリアンは初めて入る高級店の雰囲気に圧倒されながらも、店内を見渡していた。
貴族御用達なのか普段着とは思えない煌びやかな衣装が飾られていて、戸惑いを隠せずリリアンはアレクを見上げた。
「アレク・・・?」
「あなたに服を用意した。彼女たちに任せて奥で着替えておいで」
「でも」
「私のやりたいことをさせてくれる約束だろう?楽しんでおいで」
最後の一言で遠慮することを止め、リリアンはこの非日常空間を楽しもうと店員たちに身を任せた。
リリアンが連れてこられたのは店の奥にあるフィッティングルームで全身を映す姿鏡やドレッサーが置いてある広々とした部屋だった。
早速店員の手によって着替えさせられたのは、ベイビーブルーのワンピースだった。
適度にハリがあるのに柔らかさもある生地は肌に優しく馴染み、リリアンが持っているどの服よりも着心地が良かった。
飾りのないシンプルなデザインなのにカッティングが素晴らしいせいか、綺麗なシルエットを作り地味にならず上品だった。
「普段着としてお召しいただけるよう、あえて装飾を落としたシンプルなデザインにしております。こちらのエプロンを合わせるとお仕事場でも可愛らしくお召しになっていただけますよ」
そう言って合わせられたのは、豊かなフリルの白いエプロンだった。
「可愛い・・・」
「こちらのエプロンは今日お召しになっていたお洋服と一緒にまとめておきますね」
「え?エプロンもいただけるんですか?」
「はい。グランヴィル侯爵よりご用意するようにと承っておりますので」
「そうですか・・・」
リリアンは美しい服を纏った鏡に映る自分の姿をまじまじと見ていた。
こんなに素敵な服をもらえるなんて思っていなかった。
しかもリリアンの日常を考慮して、普段着でも使え、さらに仕事でも使えるようにエプロンまで用意されていた。
普段着にしては生地が上質過ぎるが、こんなに素敵な服を着て毎日を過ごせばどんな気分でいられるだろう。
リリアンは子どもの頃に読んだ物語のヒロインがこれと似たベイビーブルーのドレスを着ていたことを思い出した。
それにあのエプロンを付ければ、今度は別の物語のヒロインの服に似た感じになると思った。
リリアンは子どもの頃の夢が叶ったようで、ワクワクする気持ちが止まらない。
そんなリリアンを店員は微笑ましく思いながらも、作業を再開するために手を動かした。
リリアンが来ているワンピースにレースの襟飾りと袖飾りが取り付けられる。
さらにワンピースの上にチュールのスカートを穿き腰回りをワンピースと同生地のリボンで留めた。
「ドレスアップなさりたいときは、あとから簡単に取り付けられるようになっております。髪をセットしますのでこちらへお願いします」
突然のドレスアップにリリアンは目を瞠った。
このワンピースは普段着・仕事着・お洒落着の使いまわしが出来るらしい。
普段着のシンプルながらも美しいデザインといい、仕事着の可愛さといい、ドレスアップしたときの姫気分といい、アレクはリリアンの好みをかなりの完成度で把握していた。
アレクとは毎週会ってはいたが、短い時間によくここまでリリアンを見ていたと思う。
アレクがリリアンを百合恵の代理として見立てているだけならば、百合恵の好みのものを贈られるはずだ。
だがこれは確実にリリアンの好みだった。
アレクは百合恵にドレスを贈りたかったのかもしれない。
だからここにリリアンを連れてきたのかもしれない。
でもこのワンピースはアレクがリリアンのために見立てたものだ。
どんな理由があったとしても、アレクはリリアンをしっかりと見ていたのだ。
それがわかり、リリアンは胸が熱くなった。
ドレッサーの前に座るリリアンの髪が丁寧に結われていく。
リリアンが付けていた真珠色のリボンとベイビーブルーのリボンを一緒に編み込みながらアップされた髪は、自分だけでは出来ないであろう繊細な出来栄えだった。
首に真珠をあしらったチョーカーがつけられる。
数種類用意された靴はどれも美しいデザインだったが、一番足馴染みのいいものを選ぶように勧められ、何度も足を入れ、その通りの一足を選んだ。
全ての支度を終え、鏡に全身を映したリリアンは自分の姿に感動した。
この夢のような姿を一生忘れないように切り取り残しておきたいと思った。
「お嬢様のお荷物はまとめてご自宅までお届け致しますのでご安心して楽しんできてくださいね」
店員にそう声を掛けられ、リリアンはこれは今だけの夢ではなく、自分が望めばこれからもこの姿になれるのだと気付いた。
こんなにお洒落をして出掛けることはそうそうないだろうが、望めばいつでも出来ると思うと心が弾む。
この店の店員たちはリリアンが貴族ではないとわかっているのに、親切に丁寧に扱ってくれた。
それもリリアンを心地良くさせた要因の一つだと思う。
「ありがとうございます」
リリアンが伝えた感謝の言葉を店員たちは喜んで受け取ってくれた。
店のソファに腰かけ待っていたアレクの元へリリアンは逸る気持ちを抑えて、淑やかに見えるように歩いた。
リリアンに気付いたアレクが一瞬目を瞠ったのがわかり、リリアンは喜びと興奮をそのまま伝えた。
「アレク!ありがとうございます。私、こんなに素敵なドレスを一度も着たことがなくて。でもずっと憧れてたんです。色もデザインも大好きですごく嬉しい!」
「とても似合っている。あなたに喜んでもらえて良かった。私も嬉しいよ」
初めは淑やかに歩いていたのにアレクと目が合うと堪らず駆け寄ってきたリリアンの素直な態度に、アレクの胸は温かい喜びに満たされた。