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八話 秘密

晴れた日の午後、アレクは執務をしていた顔をふと上げた。

リリアンと会ってから一週間が過ぎ、今日は約束の水曜日だった。

今頃彼女は西館の母の元へ商品を届けている頃だろう。

母の世間話が長引けば、こちらにリリアンが来るのはもう少しあとになるかもしれない。

彼女が来る前にキリのいい所まで終わらせてしまおうと再び書類に目を落とした時、扉を叩く音がした。


「アレクシス様。リリアン・ヴァレイ様がお越しでございます」

「ここへ通してくれ」


すぐに執務室へ通されたリリアンは、いつもと同じように右耳の下で黒髪を結っていた。

いつもと変わらないはずなのに違和感を覚えるのはなぜだろうかとアレクは疑問に思ったが、リリアンの表情がその理由だとすぐにわかった。


「リリアン、そこに座ってもう少し待ってもらえるか?切りのいいところまで終わらせたい」

「はい」

「表情が硬いがどうかしたか?」

「いつもは一階の応接室しか入らないので、お屋敷の二階まで上がるのは初めてで緊張してしまって」


ソファに浅く腰掛けて室内を遠慮がちに見渡すリリアンにアレクは小さく笑う。

途中の資料に目を落としながらアレクはリリアンに尋ねた。


「お茶をしようと思っているが、どこか行きたい場所はあるか?」

「候・・・アレクの行きたいところで」

「・・・そうだったな。私がやりたくても出来なかったことをやるのだったな」

「はい。どこでも付いていきますよ」

「リリアン。私がやりたかったことは、あなたを喜ばせることだ。執務が終わるまでに行きたい場所を考えておいてくれ」


アレクは顔を上げるとリリアンの目を見つめ左の口角を上げて微笑んだ。

そしてすぐに資料に目を落とし執務に戻る。

その言葉と表情にリリアンは頬を染めた。

アレクの言葉は気を引き締めていないと誤解を生むとリリアンは膝の上で拳を握る。

リリアンはアレクにとって百合恵の代理なのだから、あの言葉の意味は百合恵を喜ばせることをやりたかったという意味だろう。

リリアンはアレクに気付かれないようにそっと息を吐いた。

今の言葉を何の裏もない本心でアレクに言われたなら、女性は誰だって心が揺れるだろうとリリアンは思った。

そしてリリアンはアレクがこんなに真っ直ぐに想いを言葉にするとは思わなかった。

リリアンの中ではグランヴィル侯爵として振る舞っていた冷たいアレクの印象が未だに残っているため、アレクは恋人にせがまれても簡単には好きだとか愛の言葉を囁きそうにないイメージだった。

アレクの為人をもう少し知りたいと思って百合恵の代理役を申し出たリリアンだが、この役はアレクの素の部分を見れる貴重な役であると同時に、アレクの甘い言葉を真に受けない鋼のような強い心が必要だと感じ、今さらながらに大変なことを言い出してしまったのではないかと思った。



「待たせたな。決まったか?」


リリアンが甘いアレクに戸惑っているうちにアレクは執務を終えて立ち上がっていた。

リリアンも立ち上がろうとすると、そのまま座っておくようにと手で合図をし、アレクは引き出しを開けて小さな包みを取り出している。

その一連の動作を見ながらリリアンは躊躇いがちに答えた。


「ここでお茶をするのはどうですか?」

「ここで?この部屋でか?」

「えと・・・このお屋敷の中なら場所はどこでもいいんですけど、侯爵邸は立派だからいつも来るたびに夢見心地になるんです。物語の中でしか見たことのない世界が広がっているから、もっと眺めていたいなっていつも思っていたんです」

「では屋敷の中を案内しよう。それから庭でお茶をするというのはどうだろう?」

「いいんですか?!すごく嬉しいです」


屋敷の中を見せると言っただけで喜ぶリリアンに優しく目を細めながらアレクは先ほど引き出しから取り出した包みをリリアンに手渡した。


「あなたにこれを」

「え・・・ありがとうございます」

「開けてみてくれ」


リリアンが膝の上で包みを丁寧に開けると、出てきたのは光沢のある真珠色のリボンだった。

手に取ると、とろりとした柔らかな手触りで上質なシルクのようだ。


「今日あなたが着てくる服の色がわからなかったから、どんな色の服でも合わせやすいこのリボンを選んだんだ。気に入ってもらえるといいんだが」

「はい・・・。とても綺麗・・・」


普段手に取ることのない上質な品をうっとりと眺めてリリアンはため息交じりに答えた。

その答えにアレクは微笑むと、リリアンの手からリボンを抜き取り、右耳の下で束ねている黒髪に付けてやった。

黒髪と真珠色の対比が美しくリリアンを飾っておりアレクは満足げに頷いた。


「よく似合っている」

「・・・ありがとうございます」


アレクにリボンを結んでもらったリリアンはまた頬を染めることになった。

自分は恋人代理だから真に受けては駄目だと言い聞かせながらも、心が躍るのを止められないリリアンだった。


二人で執務室を出てから、アレクが居間として使っている部屋や客室、ホール、食堂、サロン、ビリヤード室、図書室などを案内して回った。

リリアンは喜々として歩き回り、家具や置物をその都度アレクに許可を取りながら恐る恐る触っていた。

廊下でさえ「こんなに広くて長い廊下があるなんて!飾りが置けるなんて!」と感動しているのにはアレクもつい笑ってしまった。

アレクはリリアンがグランヴィル侯爵邸を堪能出来るように、彼女が普段見ている屋敷正面から見える庭ではなく、裏庭に案内してお茶をすることにした。

裏庭と言っても広くて明るいこの庭は、客を連れてくることはなく、家族で憩うための場所であった。

日差しが木々や花々の上に踊る風景と過ごしやすい木陰とのバランスがちょうど良い裏庭は家族のお気に入りの場所だ。

リリアンはその庭を一目見ただけで気に入ったようで、アレクが席にエスコートする間もなく感嘆の声を上げながら飛び出していった。


「なんて綺麗・・・お屋敷の裏にこんなに素敵なお庭があるなんて思ってもみませんでした。ここは秘密のお庭なんですか?」

「秘密・・・そうだな、家族しか来ないから秘密なのかもしれないな」


家族しか来ないというアレクの言葉を聞いてリリアンは胸が痛んだ。

アレクは家族として百合恵をこの場所に連れてきたかったのだと思うと、先ほどまでの興奮が切なさにすり替わっていく。

リリアンが自分のことで胸を痛めていることに気付いたアレクは優しい声を出した。


「私の心はおそらくあなたが思っている通りだ。だが今日、あなたをこの庭に誘えて良かった。そうでなければ、私はしばらくこの庭を見るたびに胸を痛めていただろうから。今日あなたと過ごすことで、この庭はあなたと私の思い出に塗り替わる。これからはこの庭を見ても楽しく過ごせることだろう」

「アレク・・・」

「私たちは他にも秘密を持っているな」

「他にも?」

「あの港の見える公園のベンチだ。あれも二人の秘密の場所だろう?」

「そうですね、秘密です」


アレクの珍しく悪戯っぽい表情に、リリアンの切なさは鳴りを潜め、今度はどきどきと胸が高鳴った。

今日のリリアンの胸はアレクを見ると色々な思いを生み出し忙しくしている。


アレクに促され席に着くと、すでにテーブルの上には数種類の焼き菓子やケーキが用意されていた。

カップにお茶が注がれると柔らかな花の香りが立ちのぼった。


「いい香りですね。なんだろう・・・ラバンデュラかな?」

「ああ、ユリエが仕入れた紅茶だ。彼女はラルフと同じこの香りが好きなんだ」

「ラルフさんと同じ?」

「ラルフはラバンデュラの香水を昔から愛用している。それと同じ香りということだ」

「・・・アレクは平気なんですか?この香りのお茶を飲むことを・・・」

「一人で飲むときは避けていたんだが、あなたと一緒なら穏やかな気持ちで飲める気がしたんだ」

「無理しなくてもいいですよ」

「いや、思っていたより何ともなくて自分でも驚いている。普段の私はミントティーを好んで飲んでいるんだが、先週ミントは好き嫌いがあると聞いたから、今日はラバンデュラにしようと思ったんだ」

「じゃあ、今度はミントティーを一緒に飲みましょうね」


リリアンの提案にアレクは笑顔で頷いた。

アレクの好みを受け入れてくれるリリアンの言葉はアレクの胸に温かく染み入る。

それから二人は楽しく語り合って過ごした。

アレクが先週買ったミント系サボンの感想を述べ、リリアンは店のこと、家族のこと、港町の女子の間で流行っていることなどを話して聞かせた。

話の途中にお菓子を美味しそうにつまむリリアンにアレクは目を細めて相槌を打つ。

そうするとリリアンはますます楽しそうに話し始めるのだ。

今は半年前にオープンした高級宿の一階にあるティーサロンの話題に移っていた。


「それでうちのお店に来た女の子たちはみんな憧れてるんですけど、まだ誰も行ったことがないんです。たまに貴族っぽい人がそこの紙袋を持ってるのを見かけるくらい。その袋がまた可愛くて、この前来た女の子なんかはその紙袋だけでもいいから欲しいって。馬鹿らしいと思うでしょう?私もそう思ってたんですけど、仕事でそこの前を通ることがあって見てみたら、外観だけでもすごくて。お姫様が出てきそうな雰囲気なんですよ」

「そんなところが出来ていたのか。リリアンも憧れるのか?」

「そりゃあ一度は入ってみたいと思いますよ。泊まりたいなんて贅沢は言わないから、お茶だけでもしてみたいですね。でもあんな高級店に入れる服も持っていないし、女の子たちと王子様でも現れないと無理だねって話してたんです」

「王子様か・・・。それは大変そうだな」

「でしょ。でもいつかは・・・って夢見るのは女の特権ですよ」


そう言って明るく笑うリリアンをアレクは眩し気に見つめた。

リリアンとの時間はあっという間に過ぎ、アレクは先週と同じように馬車で送っていくことにした。

馬車の中でリリアンは「少し気になっていたんですけど」と前置きをしてアレクに問いかけた。


「アレクは他の人の前でも私に優しくしてくれますけど、それって大丈夫なんですか?私のことを本当の恋人だと誤解されると思うんですけど」

「特に問題ないな。私のことを知りもせず爵位や財産目当てに寄ってこられても迷惑なだけだ。誰かになにか聞かれたら私の恋人だと言ってくれて構わない」

「え・・・それは・・・身分とか色々釣り合わないですけど」

「私と相手になる女性、この場合はあなただが、当事者が気にしていなければ問題ないことだ」

「私が気にしなければ・・・」

「母は貴族の出だったが父とは恋愛結婚だし、弟もそうだ。私も政略結婚をする気はない。今あなたに決まった相手がいないのなら、あなたが嫌だと思うまでは私に付き合ってくれないか」

「はい・・・もともと私が言い出したことですし。私もアレクといるのは楽しいですから」

「ではまた来週も時間を空けていてくれるか?」

「はい」


リリアンを店の前まで送るとアレクは左の口角を上げる笑みを残して馬車に乗り込んだ。

二週連続で侯爵自らに送ってもらったリリアンを周囲の人たちが好奇の目で見ているが、リリアンはアレクからもらった言葉があるため気にならなかった。

アレクの恋人と名乗っていい。

リリアンがアレクにとって百合恵の代理だと言うことは秘密のままだ。

だからこそアレクとリリアンの関係は恋人として徐々に広まっていく。

たとえ恋人代理でも、たとえ束の間のことでも、アレクの言葉と優しい笑みはリリアンを夢見させるのに十分だった。


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