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三話 彼が泣いた日

その日もアレクは百合恵のいる東館へ向かった。

食事の時間に毎日顔を合わせてはいるが、離れたテーブル越しにじっと見つめるわけにはいかず、百合恵と目を合わせられるのはほんのわずかな時間しかなかった。

何かと理由を付けてラルフに会う用事を作り、本来ならラルフを自分の執務室に呼べば済むことも、アレク自ら東館へ赴く。

ラルフが屋敷にいるとき、大抵そのそばには百合恵がいるからだ。

面倒見のよい兄、気の利く当主のフリをしながら、ただただ百合恵の様子を見たいために動く自分は滑稽だとアレクは思う。

そう思うのにアレクの足は自然と東館へ向かうのだ。

途中で会った使用人にラルフと百合恵はテラスでお茶をしていると聞き、庭からその場所へ向かった。

だがテラスには百合恵一人しかいなかった。

百合恵に声を掛けると、ラルフは仕事の用事で一旦部屋に戻ったらしい。

アレクは百合恵にお茶を勧められるが、断り庭にとどまった。

百合恵に会いたいと思う反面、ラルフを裏切れないという罪悪感もアレクの中に生まれる。

だからいつも百合恵と二人きりで会わないように、ラルフがそばにいる時間帯を考えて東館を訪れるようにしていた。

百合恵と二人の時間を楽しみたいという想いを抑えてアレクは庭を眺める。


「こういう庭が好みだったのか」

「ご・・・」

「ん?」

「いえ」


百合恵が何を言おうとしたかはわからなかったが、この庭はもとは母の好みに合わせて整えられていたものを百合恵が自分の好みに合わせて手を加えたものだ。

元の庭に手を加えるにあたってラルフがアレクに許可を求めてきたのを覚えている。

姑となる母やここを作った庭師を気にする百合恵が目に浮かんだ。

もしかしたら百合恵はそのことを言いたかったのだろうか。

母も庭師もあっけらかんとしたもので「楽しそうね。西館の庭もいじりなおそうかしら」と言っていたくらいだから百合恵が気にすることはない。

そのことを伝えてやろうかと思った矢先、百合恵が先に口を開いた。


「小さい花がたくさんあるほうが和むから好きなんです。我儘を聞いてもらえたおかげで、ここでお茶をするのが毎回楽しみになりました」

「良い庭になったな。・・・ほかに困っていることはないか?」

「いえ、今は特に。私は希望を言うだけなので、困っているのはむしろラルフのほうだと思います」

「そうか。ユリの願いを叶えるのはラルフの役目だったな・・・」

「アレク様・・・?」

「いや、邪魔したな」


百合恵の言葉にアレクはこぶしを強く握り感情を抑えた。

明るい百合恵の声はラルフへの信頼感が滲み出ている。

あっさりとアレクの申し出を断るほどに。

百合恵からラルフの力だけで十分だと切り捨てられたように感じて胸が苦しい。

アレクはいつもの無表情を取り繕うことすらできず、百合恵に背を向けてその場を去った。

その背に百合恵から何か声を掛けられたが、片手を上げて応えることが精一杯で振り返ることはできなかった。


アレクはそのまま屋敷を出ていつもの公園に向かった。

誰もいない公園の奥で、いつものベンチに腰掛けることもせず、ただ立って海を見ていた。


百合恵の助けになりたいと思っている。

過去に果たせなかった約束を今、果たそうとしていた。

小さなことしかできなくても、それでも何かしたいと思っていた。

百合恵の願いを叶えたい。

何でもいいから彼女の助けになることがしたい。

今の自分が百合恵のために出来ることはそれしかないと思っていた。


百合恵、君は覚えているだろうか。

まだ百合恵の世界にいたころ、二人で京都を歩いた。

願いが叶うか占う石を二人で持ち上げてみたとき、アレクが石をほとんど持ち上げてしまったから。


『きっと私の願いはアレクが叶えてくれるって思うことにするわ』


あのとき百合恵はそう言った。

アレクはそのつもりで石を持ち上げたのだ。

百合恵の願いが叶うように、その願いを叶えるのが自分であるように。


だがアレクは百合恵の願いを何も叶えてはやれなかった。

あのあとすぐに百合恵の世界を去り、こちらの世界に戻ってきてしまった。

寂しいと泣く百合恵を一人残して。

百合恵がこちらの世界に来てからも何もできずにいる。

自分は約束も果たせず、願いを叶えてやることもできない。

百合恵を助けるのも願いを叶えるのもラルフなのだ。

百合恵がそうしてほしいと望むのもラルフであり、アレクではない。

それを本人の口から言外にそう言われた気がした。

もう百合恵からは何も望まれず、ただ見つめることしかできないのだとアレクは知った。



静かに海を見ているアレクの顔の前に白いものがチラつき、アレクがそちらに顔を向けると、その白いものが目元に押し当てられた。

驚くアレクが咄嗟にその白いものを手に取ると、それはハンカチだった。

ハンカチを差し出した手は、たまにこの場所で見かける黒髪の女性だった。

ハンカチからは以前彼女から香った薔薇に似た香りがほのかにしている。

なんだかわからずアレクが無言のまま彼女を見下ろしていると、彼女はアレクとは目を合わせずに言った。


「私、何も見てませんから」


その言葉でアレクははじめて自分が泣いていることに気が付いた。

自分でも知らないうちに涙を流していたらしい。

黒髪の彼女はアレクの泣き顔を出来るだけ見ないように顔を俯かせハンカチを差し出してくれていたのだ。

アレクがハンカチをしっかり握ったことを確認すると、彼女はアレクの背後に回った。

そのまま立ち去るのかと思ったが、彼女はアレクと背中合わせに立ち、アレクの背に彼女の背を預けてきた。

アレクはその背で彼女の背を支えてやることになり、彼女が何をしたいのかわからなかったが、今は咎める気にもなれずそのままにしておいた。

それにまさか自分が泣いているとは思わなかった。

百合恵の世界へ渡り、こちらへ戻ってきたときから、絶え間なく感じていた遣る瀬無さと後悔と。

切なさ、寂しさ、恋しさ、そのすべての感情を隠し、湧き上がる想いを抑え過ごす日々は辛かった。

その辛さから目を逸らし、ただ百合恵の幸せを願う。

想像以上に苦しい日々が今こうして涙として流れ落ちていく。

誰が悪いわけでもない。

だが、もしもあのときこうしていれば、こうだったならという思いが頭を過り、アレクは自分を責めていた。

恋に泣く日が来るとは思わなかった。

もう百合恵に対して何もできない無力な自分が辛い。


深く沈むアレクの心を支えるのは、その背にかけられた黒髪の彼女の重さと温もりだった。

無力感と喪失感に苛まれるアレクが今唯一できているのは、彼女の背を己の背で支えることだけであり、それがアレクにとって唯一の救いのように思えた。


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