二十六話 憧れ
夜会当日、王宮に向かう馬車の中でリリアンは緊張に冷たくなった手を握りしめていた。
アレクの瞳と同じ色で作ってもらったドレスはリリアンに勇気を与えてくれると思っていたのに、今は何も目に入らず、ただ早鐘を打つ胸の音が頭に響いている。
「・・・ン・・・アン・・・リリアン!」
「はっ・・・はい」
「私の声も聞こえないほど緊張しているのか」
「だって・・・」
隣に座るアレクの笑いを含んだ声に、リリアンは抗議の言葉を発する余裕もなく自分の手を握りしめた。
固く握りしめたリリアンの手を包み込むようにアレクが手を重ねる。
手袋越しにじんわりと感じる体温にリリアンはほんの少し冷静さを取り戻した。
「緊張することないって言い聞かせても、胸のドキドキが止まらなくて・・・」
「緊張したままでも問題ないさ」
「え・・・?」
「慣れている者でもあの場でリラックスして過ごせる者はそうはいない。初めてのあなたが緊張するのは当然のことだ」
「はい・・・」
「一人で頑張ろうとしなくていい。私はあなたのパートナーでそばにいるのだから私に頼ってくれればいいんだ。あなたのことだから迷惑を掛けないようになんて思っているのだろうが、私はあなたに頼られるのが嬉しいという事を覚えておいてくれ」
アレクの言葉にリリアンはやっと息がつける思いがした。
もしここでアレクに緊張する必要はない言われてもリリアンは緊張を解くことも安心することも出来なかっただろう。
緊張しているリリアンをアレクが否定せず認めてくれ、リリアンの心情を理解した上で頼られると嬉しいと言ってくれたことで、リリアンはアレクがそばにいてくれるならこのままでも上手くいくかもしれないと思えてきた。
リリアンは緊張している自分を、そのままでもいいんだと受け入れようと思った。
アレクの存在の大きさと重ねられる掌の温もりを感じながら、リリアンは体に溜まった淀みを出すように大きく息を吐き出した。
その様子にアレクが微笑む。
「あなたが憧れていた王宮の夜会だ。物語を楽しむように過ごせばいい」
「物語のように・・・」
リリアンが緊張している間にも馬車は王宮に通じる荘厳な門を通り抜けゆっくりと進んでいた。
馬車が止まり扉が開くといつものようにアレクが降り手を差し伸べてくれる。
その手を取り馬車を降りたリリアンは目の前の光景に息を飲んだ。
王宮の全体像は近すぎてわからないが、目の前の階段を数段上った先には開かれた扉があり、その奥は煌びやかな回廊をそれに負けないくらい華やかに着飾った人々が歩いている。
子どもの頃に憧れていた物語の中に登場する王宮の夜会を思い出し、リリアンは緊張とは違う胸の高鳴りを感じた。
少女の頃に一度は憧れながらも、大人になるにつれて物語はただの物語でしかなく、それは夢の世界であると割り切り、忘れていた世界がリリアンの目の前に現れたのだ。
しかも自分は憧れていたお姫様のようなドレスを纏い、隣には王子様のようなアレクがいる。
緊張と高揚に頬を上気させたリリアンは、アレクの言葉通りこの夜会を楽しめそうな気がしてきた。
そんなリリアンにアレクは優しく目を細めると会場となるホールへ足を向けた。
ホールはすでに大勢の招待客で賑わいを見せており、リリアンは初めて見る眩いばかりのシャンデリアが照らす豪華なホールと華々しい貴婦人方に目を奪われるばかりだった。
そんな中、器用に人の波を避けて進むアレクにリリアンは感心する。
アレクがどこに向かっているのかはわからないがリリアンは興味の赴くまま視線を動かしながらもアレクに寄り添い歩いた。
歩みを進める度に声を掛けられたり、またアレクから声を掛けたりしていて、リリアンにはたいして進んでいないようにも感じられる。
アレクと話す人は皆、隣に居るリリアンに興味を示し、アレクはその度に「当家でお預かりしている大切なお嬢様です」と答えた。
アレクの答えは簡潔だが、その言葉と共に普段は無表情に近いアイスブルーの瞳を優しく細めてリリアンを見るアレクに、相手の方も意味深な目をしながらもそれ以上は立ち入らず「素敵なお嬢様ですね」と返すにとどめていた。
リリアンは一言挨拶を述べた後はアレクの隣で黙っているのだが、その会話の全てはわからずとも彼らの関心事がちらちらと垣間見えて、今後のサボン作りの参考になりそうだと密かに楽しんでいた。
「疲れていないか?」
先ほどまで話していた相手と離れるとアレクは飲み物を受け取りリリアンに手渡した。
透明な薄桃色の液体に細かな気泡が立ち昇り、その美しさに見とれつつ口に含むと爽やかな甘さとのど越しで、リリアンは緊張と興奮でいつの間にか喉が渇いていたことに気付かされた。
「楽しいですよ。アレクたちの会話も、目にするものも、全てが新鮮で煌びやかで。新しいサボンのアイデアが浮かびそうです」
「サボンの?」
「はい。失礼なことかもしれないんですけど、アレクたちの会話から貴人が好むものとか今の流行りとかが見えてくるから面白くて、それをサボンに活かせないかなって思うんです」
「こんな時までサボンに結び付けるんだな。あなたには職人気質だけでなく商売人気質もあるらしい。私たちの会話につまらない思いをしていないか心配していたが、それなら良かった」
アレクは笑いながらリリアンの前髪をさらりと撫でた。
今夜は髪をアップにしているため、アレクがたまにしているようにリリアンの髪を梳くことが出来ない。
その代りに前髪を梳くように撫でたのだが、アレクの笑顔とその甘やかな仕草はリリアンだけでなく、アレクを気にかけている周りの令嬢たちの胸もときめかせた。
この頃になると夜会の雰囲気にも慣れてきたリリアンは、アレクを見つめる令嬢たちの視線にも気付くようになってきていた。
アレクに向けられる熱い視線は、その次に隣に居るリリアンに向かって冷たく流れてくる。
その視線を肌で感じ取りながら、もしかしたらこの中にアレクの将来の相手がいるのかもしれないと思うと、ときめきよりも痛みが増すリリアンだった。
「兄さん、リリアン嬢。こんばんは」
名を呼ばれて二人が振り返ると、そこには百合恵を連れたラルフが立っていた。
ラルフと百合恵が現れたことでリリアンに集まっていた視線が分散され、リリアンは心の中でほっと溜息をついた。
久しぶりに会う弟夫婦にアレクの表情も和らいだものになり、互いに挨拶を交わす。
「兄さん、そろそろ謁見に伺うんだろう。リリアン嬢は俺たちが見ておくよ」
「ああ。よろしく頼む」
「よろしくお願いします」
夜会の間アレクは出来るだけリリアンの側にいると言っていたし、それを実行してもいたが、王宮の夜会ではグランヴィル侯爵として王への謁見を賜るのが主目的でもあるので、その際はリリアンは連れて行けずラルフたちに頼むことにしていた。
リリアンも事前にそれを聞かされていたし、例えアレクの知り合いといえどもリリアン自身に面識のない貴族に預けられるよりも、ラルフと百合恵の方が断然安心できるので喜んで了承していた。
リリアンへ瞳で微笑みかけたあと謁見に向かうアレクと、その後ろ姿を見送っているリリアンをラルフと百合恵は温かく見守った。
しばらく三人で話していると、すでに謁見を終えたクレイニー公爵と夫人が声を掛けてきた。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです、公爵」
「今夜のあなたは両手に華で羨ましいことだ」
「私は妻一筋ですよ。こちらは兄がお預かりしているお嬢様でリリアン・ヴァレイ嬢です」
「まあ・・・。そういえばあなたがユリさんを初めて紹介してくださったときもグランヴィル侯爵家でお預かりしている大切な方だと紹介していただいたわね。彼女を侯爵家で預かっているということは、つまりはそういうこと?」
「公爵夫人、私の口からは何とも・・・」
「そうだぞ。こういう場所では良くも悪くも噂になりやすい。本人の口から聞いたこと以外で話を進めるのは好ましくないだろう」
何気なくラルフと公爵夫妻で会話をしているが、百合恵は違和感を覚えていた。
クレイニー公爵夫人は社交界への顔が広く、人の心の機微にも聡いため、むやみに立ち入った話を振ってくるような方ではなかった。
その場に合った話題を臨機応変に出来る公爵夫人が、誰が聞いているかもわからないこの場でアレクとリリアンの関係を尋ねるようなことを言うなんて、何かがおかしい気がする百合恵はそっとラルフを見た。
百合恵の視線に気付いたラルフは微笑みながらもわずかに頷いて見せた。
そこで百合恵ははじめてこれは口裏を合わせた芝居だとわかった。
実は、これはアレクから公爵夫妻に事前に頼んでいたことでラルフにも伝えられていた。
つまりアレクが席を外している間、自分たちの関係をしつこく詮索されリリアンが傷つかないように、今のような会話を意図的にしてもらい、公爵の口から釘を刺すことでそれ以上の噂と好奇の視線を締め出そうとすることが目的だった。
公爵夫妻はそれほどまでにアレクが気遣う相手にならと喜んで引き受けたのだ。
何も知らないリリアンは自分とアレクに関する話題が公爵夫人の口から出たことで緊張をあらわに顔を強張らせたが、会話の流れからリリアンのことを身分不相応だと責めるために言ったのではないとわかったことと、そのあいだ百合恵がリリアンの手をさりげなく握っていてくれたおかげで、リリアンは何とか平静を取り戻せた。




