二十五話 お試し期間2
「失礼します」
「・・・リリアン?」
ティーセットの乗ったワゴンを押して来たリリアンにアレクが驚く。
動きが止まったアレクにリリアンは首を傾げて声を掛けた。
「ウィルフレッドさんからアレクとお茶をしてもいいって言われたんですけど、やっぱり駄目でした?」
どう見てもアレクが執務中なのはわかるため、リリアンは申し訳なさそうに眉を下げた。
「・・・ちょうど休憩しようと思っていたところど。あなたがお茶を淹れてくれるのか?」
「はい。ウィルフレッドさんに頼まれて。この茶葉で淹れるのは初めてなので上手く淹れれるかわからないんですけど」
そう言いながら湯が冷めないうちにとリリアンは手早く準備をしながらアレクに問いかける。
「そちらの机に運びますか?」
「いや、あちらの応接机の方へ頼む」
アレクの言葉に頷き、リリアンはお茶を蒸らしている間に焼き菓子を運んだ。
その様子を見ながらアレクは百合恵がこのように自分にお茶を淹れてくれていた日々を思い出していた。
百合恵には随分酷い態度を取ってしまったと思うとアレクの胸は今でも痛む。
百合恵は一年もの間消えたアレクを思い続けてくれ、再開した後も心を通わせようとアレクにお茶を淹れ続けた。
だがアレクはそんな百合恵の好意を知りながら、お茶を淹れてくれる百合恵に目を向けることすらしなかった。
その態度がどれ程百合恵を傷付けていただろう。
「アレク、お茶がはいりましたよ」
「・・・ありがとう」
リリアンの声にアレクはゆるりと微笑んだ。
その笑みがリリアンをときめかせるとも知らず、だがリリアンを大切にしたいという想いのままにアレクは彼女に笑みを向ける。
百合恵の時のようにリリアンを傷付けるようなことはしたくない。
リリアンを大切にしたいとアレクは強く思った。
リリアンが侯爵邸や王都に慣れるまでは無理に彼女の心を自分に向けようとする行為は控えるようにしている。
愛しさが溢れ、今も触れてしまいたい衝動を抑えていた。
リリアンが時折見せる寂しそうな、それでいて熱を隠した瞳にアレクは何度も心を揺さぶらている。
特に夕食後に互いの部屋に戻るときのリリアンの視線はアレクの理性を試そうとしているかのように甘い。
それでもアレクがリリアンの視線を受け流すのは、彼女の気持ちを大切にしたいと思っているからだった。
リリアンはおそらく自分と寝室を共にしたいのだろうとアレクは気が付いていた。
だがそれはアレクがリリアンを求めるような意味ではなく、ただ温もりを欲してのことだろうと思う。
リリアンからの好意は確かに感じるのに、アレクが触れると一線を引くような眼差しを向けられる。
拒絶とは違う、不安色の強い瞳で見つめられるとアレクはリリアンに触れることに慎重にならざるをえない。
一晩だけならリリアンが望むように優しく抱きしめ眠ることもできるが、王都に居る間中ずっとそうして眠れるかと言われるとアレクにはそこまでの自信がなかった。
そんなリリアンに無体を働いてしまわないようアレクは何も気づかないふりを通すしかなかった。
「レッスンで疲れていないか?」
「精神的に疲れました。ダンスの練習とかドレスを仕立てるとか色々初めてなことばかりだったので・・・」
「そうか。疲れているのにお茶に付き合わせて悪かったな。このあとは無理をせずにゆっくりしてくれ」
「部屋で少し休んできましたし、お茶を淹れるくらいなんてことないですよ」
「ありがとう。そういえばラルフから手紙が届いたが、王宮の夜会には間に合うように戻ると書いてあった。私が出来るだけ側にいるつもりだが、離れることがあるときはラルフやユリエの側にいてもらいたい」
「はい。知っている人が誰もいないと不安なので良かったです。ラルフさんたちが来られるとお邸も華やぎそうですね」
「ラルフたちは職場の近くに屋敷を借りることになっているから、この邸はいつも通りだ」
「え・・・そうなんですか」
「ああ、ラルフたちが出て行って邸内が寂しくなると思っていたから、あなたが同行してくれて良かった。使用人たちも私だけよりあなたがいたほうが張り合いがあって喜んでいるだろう」
リリアンはラルフたちがこの邸に来ないと知って心の中でホッとしていた。
アレクと百合恵が一緒に居るところを見たくなと思っていたのだ。
アレクは百合恵への想いをもう昇華したと言っていたが、百合恵の代理を申し出たリリアンを未だにそばに置いていることを考えるとやはり未練があるのだと思う。
アレクがリリアンに向けてくれるような優しい瞳で百合恵を見つめるのを見たくない。
それどころかリリアンに向ける以上の熱の籠った眼差しを向けるかもしれないと思うと胸が苦しくなる。
アレクが以前のようにリリアンに触れないのは、この邸に百合恵が戻って来るからかもしれないと勘ぐっていたくらいである。
アレクは百合恵がここに戻ってこなくて寂しくないのだろうかとリリアンが窺うように視線を向ければ、紅茶を飲んでいたアレクと視線が交わった。
どうかしたかと聞くように軽く首を傾げるアレクのアイスブルーの瞳はいつも通りに見えて、リリアンにはその心情を察することができなかった。
「そろそろ私は執務に戻るが、あなたはここで寛いでいてくれ」
「いえ・・・私ももう戻ります」
立ち上がったアレクにつられてリリアンも立ち上がろうとすると、アレクが手を差し出してくれた。
名残惜しくてその手を離せずに握ったままリリアンは俯いた。
「リリアン?」
「もし・・・王宮の夜会で・・・」
もし王宮の夜会で上手く立ち振る舞うことが出来たら、私もアレクの結婚相手として見てもらうことができますか?
リリアンはそう問いかけようとしたが出来なかった。
もしかして王宮の夜会でリリアンは試されるのではないかと思っていた。
貴族が集まる場所でリリアンが上手く立ち回ることが出来たなら、リリアン自身が貴族でなくてもアレクに相応しい女性として見てもらえるようになるかもしれない。
そのためにリリアンがどこまで出来るか試されているのではないかと。
でも口にしようとして、それは自分勝手な期待であることに気付き、その浅はかさに恥ずかしくなり最後まで言葉にすることが出来なくなった。
「夜会が不安か?」
「・・・うまく踊れないかもしれないから」
「今日のレッスンでも随分上達したし心配はいらない。それでも不安なら無理に踊る必要はないが、もし踊るなら私だけを見ていてくれればいい」
「アレクを見ていると上手く踊れるんですか?」
「ああ。あなたのパートナーは私だ。私だけを見ていれば二人だけの世界になって他のことは気にならなくなる」
アレクはリリアンが握ったままにしている手にグッと力を込めた。
リリアンが思わずアレクを見上げるとその瞳には艶が乗っていて、そのままアレクに流されてしまいたいと思ってしまう。
だがアレクはやはりリリアンにそれ以上触れることをせず、執務に戻ってしまった。
リリアンは掌に残された熱が消えないように握りしめた。
翌日から夜会前日まで、リリアンはダンスのレッスンと共にマナーレッスンも受け熱心に取り組んだ。
もし夜会で上手くいけばという期待を捨てきれないでいたのと、ダンスの時はアレクと体を寄せ合うことが出来るため、現金にも張り切ってしまうのだ。
その甲斐あって上達も早く、ドレスを着たときの動きも自然にできるようになってきた。
忙しいアレクを毎日ダンスのレッスンに付き合わせるのは申し訳なく感じるものの、この時間を手放したくないと思うリリアンは、せめて少しでも上手に踊りアレクの負担にならないようにしたいと、空き時間に別の人と練習できるか聞いてみたことがあった。
「お邸のどなたかと練習させてもらうことは出来ませんか?」
「・・・それは別の相手と踊りたいということか?」
「アレクの負担にならないように、少しでも空き時間に練習できればと思ったんですけど・・・」
いつもと違う不機嫌そうなアレクの声にリリアンは戸惑い語尾が小さくなった。
他の人と言っても邸の使用人たちはそれぞれ仕事があるだろうし、その時間を割いてリリアンの相手をしてもらうのはやはり図々しいお願いだったのだ。
申し訳なさそうに俯くリリアンの頭上でアレクがため息をついたのがわかり、リリアンはますます肩を縮めた。
「すまない。あなたを責めたのではない。私のことを気にしてくれるのは嬉しいが、無理をしているわけではないから心配しなくてもいい。もし練習時間が少ないなら私がもう少し時間を取ろう」
「だ、大丈夫です。我儘を言ってごめんなさい」
「リリアン・・・。あなたが疲れないのなら、これからはもう少し長く踊ろう」
実際アレクは忙しく、リリアンとのダンスレッスンの時間を作るため睡眠時間が削られていた。
だがそれはアレクにとって負担を感じるほどでもないし、何よりリリアンに堂々と触れられるこの時間はアレクを癒してくれる。
侯爵邸に仕える者とはいえダンスを踊れるのはアレクの他は執事のウィルフレッドくらいしかいない。
リリアンの気遣いは嬉しいが、アレクはウィルフレッドにさえリリアンの相手をさせたいとは思わなかった。
今日はこれで終わりにしようと思っていたが、いい口実が出来たとアレクは左の口角を上げた。
「もう一曲踊っていただけませんか」
アレクはリリアンの手を取るとそこに口づけを落とした。
頬を染めるリリアンにアレクは微笑み、彼女の腰を引き寄せる。
こうして夜会前日までダンスレッスンは続けられたのだった。




