二十一話 見えない壁
途中何度か休憩を挟みながら、辺りが暗くなり始めた頃アレクたちは宿に入った。
荷物は付き人たちに任せ、アレクとリリアンは先に夕食をとることになった。
以前のように部屋で食事をとるのかと思っていたリリアンはアレクが食堂を使うことに驚いたが、食堂の入り口を見て納得した。
高級な宿に相応しい立派な内装だった。
派手派手しさはないが、落ち着いた豪華さがあり、上質なクロスの上には磨かれた銀のカトラリーがセットしてある。
リリアンはアレクと過ごすうちに、こうした空間にも徐々に慣れてきたが、自然体でいるのは難しい。
緊張感で背筋を伸ばしたリリアンを和ませるようにアレクは優しく目を細めて話しかけた。
「疲れたか?」
「少しだけ」
「部屋に運ばせてもいいが・・・」
「大丈夫です。食事をする元気は残ってます」
明るく返事を返したリリアンにアレクは安心しつつ、食事中もそれとなくリリアンの表情や仕草を観察し、無理をしていないかを確認することを怠らないようにした。
午後にリリアンが見せたホームシックは落ち着いたように見えるが、アレクを気遣い寂しい感情を隠しているのかもしれない。
午後のようにリリアンが甘えてくれれば慰めてやれるが、隠されてしまってはアレクは手が出せず見守るしかできない。
できるだけリリアンが我慢することなく自分に向けて感情を出してほしいアレクは、彼女を誘惑するような行為は控え、彼女の心を開く会話を重ねていこうと改めて思った。
食事を終えて部屋へ案内されたリリアンはここでもまた驚いた。
「・・・ここですか?」
「ああ、私は隣の部屋だから何かあったらいつでも声をかけてくれ」
アレクの言葉にリリアンは頷きながらも困惑の目で彼を見上げた。
その視線を受けたアレクが首を傾げる。
「気に入らないか?」
「いえ・・・広くて驚いただけです。・・・ここを私一人で使うんですよね?」
リリアンの言葉を聞いたアレクは、彼女がホームシックになっていることを思い出した。
「一人では寂しいなら私の部屋で過ごしてもいいが・・・それではあなたの気が休まらないか・・・。付き人を呼ぼうか?」
「大丈夫です。慣れないだけで寂しい訳ではないですから」
「そうか・・・。私が部屋を出たらすぐに内鍵をかけるように。何かあれば声をかけてくれ。何時でも遠慮はいらないから」
「はい」
アレクは心配そうに振り返りながら部屋を出ていった。
アレクに言われた通り内鍵をかけるとリリアンは扉にもたれて息をついた。
同じ部屋に泊まると思っていた・・・。
宿の係の人が案内してくれたのはアレクが角の部屋、リリアンはその隣だった。
アレクはリリアンの部屋へ一緒に入り、室内の様子を見て快適に過ごせそうか確認してくれた。
そのあいだリリアンは胸に浮かんだ思いに戸惑いながらアレクを見ていた。
アレクが別の部屋と聞いて、どうしてと思ったのだ。
アレクとリリアンは夫婦ではないし普通に考えれば当たり前のことだ。
それなのにリリアンは、以前自分が体調が悪かった時に一緒に泊まったことがあるし、今回も一緒だろうと勝手に思っていたのだ。
そして、別室だと聞いてがっかりした。
そう、リリアンはがっかりしたのだ。
アレクからの優しさに戸惑い、過剰な触れ合いに不安を覚えるくせに、彼が側にいてくれないとなると不満に思う。
自分勝手な想いだとはわかっていても、アレクの温もりを感じて眠りたかった。
壁を隔てた向こうにはアレクが居て、いつでも声を掛けていいと言われている。
でも、声なんて掛けれるわけがないとリリアンは思う。
声を掛けたら自分はなんと言ってしまうかわからない。
昼間、寂しいと口にしてしまったようにぽろりと胸の内が漏れてしまったら困る。
あなたと触れ合いたい、抱きしめて眠ってほしい・・・
胸の想いを口にすれば、アレクは戸惑いつつもその願いを叶えてくれるだろうことをリリアンはわかっている。
今までのアレクの言動がそれを物語っていた。
だけどアレクがその先を求めていることもリリアンはわかっていた。
そしてリリアンの気持ちを思いやって、それ以上求めることを自重していることも。
それなのにリリアンはアレクの思いやりに安心するが寂しさも感じてしまうのだ。
将来の約束がない状態で求められることは怖いとアレクに伝えてしまおうか・・・。
だがそれではアレクに無理やり結婚を迫っているみたいで気が引ける。
そもそも自分の身分ではアレクの結婚相手になりえないことはわかっている。
約束を求めた時点でアレクから突き放される可能性を考えると怖い。
それならば、このままどっちつかずの状態を続けた方がアレクをそばで感じられる気がする。
そう結論づけたリリアンは、用意された湯を浴びると一人のベッドに潜り込んだ。
翌朝リリアンの部屋に迎えに来たアレクと一緒に朝食をとり準備が整うと、再びアレクと同じ馬車に乗り王都へ向けて出発した。
リリアンのためにゆったりとした旅程を組んでおり、今日もう一泊して、明日の昼には王都のグランヴィル侯爵邸に着く予定である。
昨日と同じようにアレクはリリアンの隣に座っている。
今朝からリリアンの様子を見ていたアレクは、いつも通り明るいリリアンが時折アレクに向ける寂し気な瞳が気になっていた。
すぐにもとの明るさに戻ってしまうため、リリアンがアレクに何を伝えたいのか掴み切れずにいた。
いや、この場合は伝えたいというより、隠したがっていると言った方がいいかもしれない。
リリアンはアレクに寂しいという感情を隠している。
そこまではわかるのだが、その原因がアレクにはわからなかった。
ホームシックをアレクに気遣い隠しているのかと思っていたが、どこか違う気がするのだ。
話ならいくらでも聞いてやるのにとアレクは思うのだが、リリアンはいつも通りに振る舞って胸の奥の想いを見せようとしない。
それがもどかしくあるが、無理に聞き出すこともできない。
せめて自分の存在がリリアンの寂しさを紛らわすものであればいいと願いながら、アレクはリリアンの隣に座り優しい視線を送り続けた。
この日も旅路は順調でリリアンは疲れを見せることもなくアレクと時折会話を挟みながら二人の時間を過ごしていた。
「あなたが馬車に酔うことがなくて安心した。長距離の移動は慣れているのか?」
「商品材料の仕入れで父に付いて何度か遠出したことはありますけど、どれも日帰りできる距離でした。でも父が仕入れ先の人と話し込んで帰りが遅くなったり、途中で天候が悪くなったりして急遽泊まることになったことならありますよ。ほとんどが行き当たりばったりの旅でしたね」
「なかなか楽しそうだな」
「急に天気が悪くなったときは最悪だったんですよ。雨のせいでどこの宿もいっぱいで入れてもらえなくて。もう娼館に泊まるしかないとか父が言い出すし」
「娼館に?!」
「もう最低でしょ?店の軒先で父と口論ですよ。私が怒り狂ってるのを見兼ねた通りがかりの人が親切にも家に入れてくれたから良かったものの、本当にあの時はどうしようかと思いましたよ」
「それは大変だったな・・・。今回の旅ではそのようなことにはならないから安心してくれ」
「はい、お願いします」
冗談っぽく話を終えたリリアンは、窓の外を見てその日のことを思い出していた。
アレクには言わなかったが、あの日空いている宿はあったのだ。
ただそれは貴族が泊まる高級宿だった。
リリアンのような商人の親子が気安く泊まれるような値段ではなかったが、娘を娼館に泊まらせるよりはマシだと言ってリリアンの父は高級宿に泊まろうとしたのだ。
だが門前払いだった。
泊まれる金はあると言っても聞いてもらえず、宿の中に足を踏み入れることさえ出来なかった。
金だけの問題ではなく、お前たちの身なりや醸し出す空気自体が、他の宿泊客たちを不快にさせることになるからと言われて、店の前から早く立ち去るようにと追い払われた。
この様な扱いをされたのは初めてでリリアンはショックを受けた。
グランヴィル侯爵領では身分の差、貧富の差はやはり存在するものの、その垣根は他の領地よりも低かった。
ここまでハッキリと身分で線引きされることは今までなかった。
リリアンは生まれ育った侯爵領を離れた場所で初めて、貴族とそれ以外の者の扱いの差を身をもって感じたのだ。
リリアンは貴族を相手に商売をすることもあるため、礼儀や立ち振る舞いはそれなりに勉強して気を付けてきたつもりだった。
それでも越えられない何かが貴族と自分たちの間にはあるらしい。
リリアンは理不尽にも自分の存在を否定された憤りと遣る瀬無さをどうしていいかわからず、雨宿りしていた軒先でその感情を父親にぶつけてしまった。
偶然その様子を見ていたその町の役人が見兼ねて声をかけ家に招きいれてくれるまで、リリアンの気持ちは昂ったままだった。
その一件以来、リリアンは貴族とは深く付き合うことは出来ないのだと思うようになった。
侯爵領で商売をしている限りでは、貴族たちは奢り高ぶった様子もなく、付き合い難いと感じたことはなかったが、もしかしたら心の中では自分を見下しているのではないかと勘繰る気持ちがリリアンの中に生まれた。
リリアンがそんな自分に戸惑っているときに、あの海の見える公園でアレクと出会ったのだ。
侯爵邸で見かけるアレクはリリアンの想像通りの貴族で、リリアンを見下しているように思えるのに、公園で会うアレクの瞳は感情豊かで身分の隔たりを感じさせないものだった。
屋敷で見るアレクと公園で見るアレクの纏う雰囲気の差が気になっていたリリアンは、今思えばその頃からすでにアレクに惹かれていたのかもしれない。
アレクと話をするようになり、彼の為人のおかげで、リリアンは貴族との差を悪く捉えることがなくなってきていた。
財力の差以外に特に自分たちを隔てるものはないように思えていた。
だがこの旅路でアレクと自分の差が少し見えてきた気がする。
馬車の中にはアレクとリリアンの二人だけだが、他に付き人や護衛のような人たちが何人もいる。
宿の手配や食事、荷物の管理まで全て任せておけばよかった。
リリアンは付き人に何かをしてもらう度、申し訳ないと思ってしまい、つい自分で動こうとしてしまう。
だがそれは付き人の仕事を奪うことになるからと言ってアレクに止められた。
何も気にせず任せておけばよいと言うアレクは完全に人を使う側の立場なのだということが肌で理解できた。
前に高級宿を追い払われるときに言われた「おまえたちの纏う空気自体が高貴な相手を不快にさせる」という言葉が今さらリリアンの胸に蘇ってくる。
あの言葉にはとても傷ついたが、確かにアレクと自分の纏う空気は違うとリリアンは感じた。
それをアレクが不快に思っていないことだけが救いだった。
アレクもリリアンが付き人に世話をされることに慣れていないと理解しており、身の回りのことでリリアンが自分でやりたいと思うものは自分でやれるようにしてくれていた。
今はアレクの気遣いのおかげで気持ちよく過ごせているが、アレクが居ない場所ではどうなるだろうか。
自分が纏う空気というものは変えられるものなのだろうか。
それとも越えられない壁のようにずっとアレクと自分の間を隔てていくのだろうか。
アレクの隣に居ても違和感のない自分になりたいと思うリリアンだった。
夕暮れ時に二日目の宿泊先に着いたアレクたちは、例年以上に賑わっている町に驚いていた。
通りも周りの店も混雑しているようだ。
宿の受付で思案顔を寄せ合う従業員と付き人の様子を訝しく思ったアレクは何事か確認しに行った。
「どうしかしたのか」
「侯爵様・・・大変申し訳ございません。実はお部屋の数が足りず、お嬢様とご同室いただくしかないと・・・」
「どういうことだ」
「例年なら先月に開催されるはずの祭りが悪天候の影響で今週末にずれ込んでいるのです。祭り自体は三日後なのですが前もって屋台や出店が出て賑わうので、祭り目当てのお客様がすでに大勢町にいらっしゃっていまして、どこの宿も満室に近い状態なのです」
「・・・仕方ないな。他の者たちの部屋は準備できるのか」
「はい。当宿と近場の宿にご手配させていただきます」
アレクは話を終えると、側に控えていたリリアンに向き直った。
「聞いての通りだ。申し訳ないが我慢してくれないか」
「我慢だなんて・・・」
「あなたのお父上のような行き当たりばったりになってしまったからな。怒ってもいいんだぞ」
「そんなことしませんよ。広い部屋に一人じゃなくて安心しました」
アレクが冗談めかして言ってくれて良かったとリリアンは思った。
冗談に笑う笑顔の下に、リリアンはアレクと過ごせる喜びをこっそりと忍ばせた。




