十九話 臆病な指先
「一緒に王都へ行かせてください」
アレクがリリアンを王都へ誘った翌週、リリアンは早速アレクに返事を伝えた。
こんなに早く返事をもらえると思っていなかったアレクは、一瞬目を瞠ったあと喜びをもってリリアンの返事を受け入れた。
「必要なものは身の回りのものも含めて全てこちらで用意する。あなたは新しいサボンの開発に必要なものだけ持って来てくれればいい」
「ありがとうございます。でも服くらいは自分で・・・」
「途中二泊する予定だから、その間の着替えがあればいい。あとは大荷物になるから王都で揃えたほうがいいだろう」
「でもそれでは費用が嵩みますから・・・」
「気にすることはない。あなたにはそれ以上の価値がある」
「え・・・」
「あなたは自分の存在価値を見誤っている。・・・わからないか?」
アレクは困惑の表情を浮かべるリリアンの髪を一房指に絡ませた。
優し気にリリアンを見下ろすアレクの瞳に惹かれながら、リリアンは自分の価値について思いを巡らせた。
サボン屋という商人の娘である自分と侯爵であるアレクとでは身分が違うし、その分アレクの方が存在価値は高いだろうとしか思い浮かばなかった。
貴族ではなく、商人としてはおそらく中流に属するリリアンは自分のことをそれほど価値が高いとも思えなかった。
答えの出せないリリアンにアレクは焦れる風もなく、滑らかな黒髪を指に絡めて遊んでいる。
「あなたは身分の括りで己の価値を見ているのかもしれないが、それは違う。もちろん能力的なことを言っているわけでもない。あなたがサボンを作れようが作れまいが関係なく、あなたには私が何かしてやりたいと思うほどの価値があるということだ」
ますますわからないといった表情で不安げに首を傾げるリリアンにアレクは苦笑した。
その様子も愛らしいが、これはリリアンが自分で答えを見つけたほうがいいだろう。
そう判断したアレクは髪に絡めていた指をそっと解いた。
「難しく考えなくていい。とりあえずは私の好意を素直に受け取ってもらえたら嬉しい」
「はい・・・」
「とは言っても、一方的に押し付ける気はない。あなたの好みは伝えてくれ。要る要らない、好き嫌い、嬉しいイヤだ、あなたの気持ちをはっきりと言ってくれた方が助かる」
「はい。なんだか我儘になりそうですね」
「それでいい。私がそれで喜んでいるんだから問題ない」
アレクの最後の言葉にリリアンは思わず笑ってしまった。
我儘を言われて喜ぶなんて、なんだかベタ甘の恋人同士みたいだ。
でもリリアンはアレクが言いたかったことをちゃんと理解していた。
リリアンの素直な気持ちをアレクに伝えるようにしてほしいということだ。
これからの慣れない王都での生活でリリアンが余計な気を遣ったり、ストレスを溜めないように、我慢せずに自分の気持ちを伝えるようにと言ってくれているのだ。
おそらくリリアンが頼れるのはアレクしかいないだろうから、そのアレクに遠慮せずに伝えられるように、彼は我儘を言ってくれた方が嬉しいと言ったのだろう。
アレクのその配慮がリリアンにとっては何よりも嬉しく心強い。
これからの時間もアレクと過ごせる幸せがリリアンの胸にふつふつと湧き上がった。
いつものように自宅まで送ってもらい、アレクの手を借りて馬車からリリアンが降りたとき、店の外へリリアンの父親が出てきた。
リリアンの父親はアレクとは何度か挨拶を交わしたことがあるが、領主であり侯爵でもあるアレクに対してどうしても緊張を隠しきれず固くなってしまう。
その父親が今日はアレクの前に真剣な面持ちで立っていた。
リリアンは何事かと思い父親を見上げたが、アレクの方は特に表情を動かさなかった。
「グランヴィル侯爵、いつも娘を送り届けていただきありがとうございます」
「私がしたくてしていることだ」
「それから娘を王都へお誘いいただいた件につきましても、お礼を申し上げます」
「それも私の意思だ。逆に同行を認めてくれて感謝する」
「そのことについて折り入ってお願いがございます」
「伺おう」
「ありがとうございます。・・・娘はまだ決まった相手のいない未婚の身。今回の王都への滞在は娘の意思ではありますが、どうか侯爵様に置かれましては娘を手酷く傷つけることのないようご配慮をお願い致します」
「お父さん!」
アレクに対して不躾とも思える父親の言葉にリリアンは抗議の声を上げようとしたが、アレクの静かなアイスブルーの瞳に制止されそれ以上言葉をつづけることが出来なかった。
「お嬢様の王都滞在についてはグランヴィル侯爵家が責任をもってお預かりする。また私自身もお嬢様の意思に沿わないことはしないとお約束しよう」
「不躾な願いを聞いてくださりありがとうございます」
「いや、父親としてもっともな心配であると思う。今後も何か気になることがあれば、遠慮なく言ってもらいたい」
リリアンの父親は頭を下げ、そこで話は終わった。
リリアンに向き直ったアレクに、リリアンは「ごめんなさい」と呟いたが、アレクは首を軽く振って謝罪の必要はないことを伝えた。
それでもアレクに対して申し訳なさを拭えないリリアンは眉尻を落としたままアレクを見つめた。
そんなリリアンにアレクはゆるりと微笑んだ。
それはアレクがリリアンにだけたまに見せる表情で、とても優しく、とても愛おしそうにリリアンに微笑みかけてくれる。
リリアンはアレクのその顔を見ただけで、胸が鷲掴みにされる想いになるのだ。
ほんのり頬を染めたリリアンを見てアレクは左の口角を上げると「また来週会おう」と言って馬車に乗り込んだ。
馬車を見送るリリアンの後ろで、父親はアレク相手に勇気を振り絞ったあとの脱力感に襲われていた。
自分と話すときは怖いくらい冷静な顔で話していた侯爵が、娘に振り返った途端優し気な色を瞳に乗せるのを間近で見て、父親は何とも言えない気分になった。
娘に優しいのは結構だが、せめてあの半分でも自分と話すときに雰囲気を和らげてくれたらと思うのだ。
そうすればこんなに緊張することも冷や汗を掻くこともないのに。
アレクが纏う侯爵としての空気感をまともに受けて疲れた父親は、やはり侯爵が婿になるのは万に一つでも無理だと思うのであった。
それから王都へ出発するまでの間は、二人とも忙しくしていた。
アレクはこちらにいる間に終わらせておきたい執務の他に、王都へ戻る前に直接出向いて確認を取ってほしいと言われる案件が駆け込み的に増え、出向くかどうかを判断するための資料を読むだけでも時間がとられた。
リリアンは自分が受け持っている種類のサボンを作り置きできる分は作って置きたかったのと、リリアンが王都へ行くことを知った客が、在庫切れになる前にまとめ買いをしたがったので、やはりいつもよりも忙しく働いていた。
それでも二人は時間を作り、水曜日には少しでも顔を合わせるようにしていた。
街へ出掛けることは出来なかったが、代わりに公園で過ごすことが多くなった。
来週には王都へ発つという日、アレクは外出先からの帰宅が遅れており、リリアンはローザに商品を渡した後屋敷で少し待ってみたが会えなかった。
仕方なくリリアンはいつもアレクと会っている海に見える公園のベンチに一人で座り休憩を取ることにした。
思えばここでアレクと初めて言葉を交わしたことが遠い昔のようで懐かしい。
ほんの数か月前まではリリアンが一方的にアレクを知っているだけで、アレクはリリアンの存在すら気付いてなかったというのに、今ではリリアンの中にはアレクへの愛しさが芽生えている。
この公園のベンチから見える空はとても澄んでいてアレクの瞳を思わせた。
今日も会いたかった。
そんな想いを込めて、リリアンは空に向かってため息を吐き出した。
「憂い事か?」
「・・・アレク?!」
背後から掛けられた声に驚いて振り返れば、そこには会いたいと想っていた人が立っていた。
出先から帰宅後、急いでここまで来たのだろうか、アレクの額には汗で前髪が張り付いていた。
「思ったより時間がかかってしまった。遅れてすまない」
「いえ、今日はもう会えないと思っていたので嬉しいです。よくここにいるってわかりましたね」
「なんとなく・・・かな」
リリアンの隣に腰を下ろしたアレクは襟元を緩め大きく息を吐いた。
やつれてはいないものの、どこか疲れが取れない様子が気になりながら、リリアンはハンカチでアレクのこめかみに流れる汗を拭いてやった。
「お疲れみたいですけど、大丈夫ですか?」
「ああ・・・。少し甘えてもいいか?」
「え・・・アレク!?」
リリアンの返事を待たず、アレクは彼女の膝の上に頭を乗せた。
いきなり膝枕をすることになったリリアンはアイスブルーの瞳から見上げられることに動揺して、手にしていたハンカチでアレクの顔を覆った。
ハンカチの下でアレクの笑う声が聞こえて、リリアンは自分の顔が朱に染まっていくのがわかった。
アレクは掛けられたハンカチを退けながらリリアンを見上げていた瞳を閉じた。
「最近、遠出ばかりで疲れてしまった。恥ずかしいなら目を閉じておくから、あなたと寛ぐ時間を取り上げないでくれ」
「アレク・・・」
穏やかな風が流れリリアンの火照った頬を冷ましていく。
瞳を閉じてもアレクの美しさは変わらず、リリアンは時が経つのも忘れて見入ってしまう。
そのあいだアレクは少しも動かず、疲れで眠ってしまったようだった。
こんなに無防備なアレクを見るのは珍しいかもしれない。
リリアンはそっとアレクの艶やかな茶髪を梳いてみると、初めて触れるアレクの髪はつるりとして触り心地が良く、ほのかにゼラニウムとミントの香りがした。
以前リリアンがプレゼントしたお揃いの香りをアレクが使ってくれていると知り、リリアンは胸が高鳴る。
もっと触れてみたい。
そんな想いがリリアンの胸に芽生えた。
アレクは眠っている。
今なら、少しだけなら。
リリアンは指先でそっとアレクの頬をなぞった。
アレクの滑らかで温かい頬の感触が心地良くて、もう一度撫でてみる。
背徳感を感じながらアレクの様子を窺うが、起きる気配は感じられない。
リリアンは指先を頬から唇に移し、先ほどよりもゆっくりとした動きで撫でた。
頬に触れたときには感じなかったしっとりとした湿度と柔らかさが、リリアンの胸を昂らせ、指先を震えさせた。
その時、指先にぬるりとした生暖かい感触を感じると、それが何なのか気付く前に、リリアンの手はアレクの手に捕らえられ、先ほどまで触れていた唇の中に引き込まれていた。
アレクに指先を咥えられ舐められているとわかったリリアンは顔を真っ赤に染め上げ、指を引き抜こうとしたが、アレクにしっかりと手首を捕まえられて逃れられない。
「アレク!?」
「・・・前にも警告したはずだ」
アレクはリリアンの指先を咥え込んだまま、アイスブルーの瞳に熱を孕んで見上げてくる。
その欲情的な仕草にリリアンはどうやって答えていいのかわからない。
リリアンが迷う間に指はどんどん深く捕らえられていき、指の股にアレクの舌が届くと腰が痺れる感覚に耐え切れず声を上げてしまった。
「あぁっ・・・!」
その声を聞いて我に返ったアレクは、リリアンの手を解放して起き上がった。
手にしていたハンカチで濡れた指先を拭いてやりながら、アレクはリリアンを気遣うように見た。
「すまない。調子に乗り過ぎた。もうしないから怯えないでほしい」
まるで叱られた犬のように肩も眉も落としてリリアンを窺うアレクに、リリアンは目を瞬いた。
先ほどまでの挑発的ともいえる色香を含んだ態度は何だったのかと思うほどの変わりようだ。
もしかしてリリアンが感じて上げてしまった声は、アレクにはただの悲鳴に聞こえたのだろうか。
「ええと・・・怯えてるわけじゃなくて・・・。その・・・初めて指を舐められたから、その気持ち良さにびっくりして・・・思わず声が出ちゃっただけです・・・」
自分でも恥ずかしいことを白状している自覚があるリリアンは首筋まで赤くなっていた。
アレクはその言葉に軽く目を見開いたが、明らかにほっとした様子でリリアンの手を握った。
「そうか、ならば良かった。もし触れられることが嫌だったら、はっきり拒絶してくれて構わない」
「嫌じゃないです・・・。ただ、どうしていいかわからないだけで・・・」
「あなたのお父上にも約束したのにな・・・。これでは合わせる顔がない。今後は必ず自戒する」
アレクの言葉がリリアンには少し寂しかった。
触れてほしいのに、将来の約束がない状態では不安になる。
その気持ちをアレクに伝えても、きっと約束はもらえないだろうという思いがあるリリアンは言葉に出来ない想いを隠すように俯いた。




