十六話 愛かもしれない
朝食後しばらく寛いでから、アレクはリリアンを自宅まで馬車で送り届けることにした。
リリアンが店の手伝いをしていることを考えれば朝食後すぐに送り届けたほうがいいだろう。
だがアレクはリリアンの体調を考えて少しの間でもゆっくりさせてやりたかった。
「あなたが休めるように屋敷から手伝いの者を一人寄越そうか」
「大丈夫ですよ。こういう日は店内の手伝いだけにしていますから、ほとんど座っていられますし。外にお届けに行くことはしないですから。侯爵家から人が来ると逆に気を遣ってしまいます」
リリアンの言葉を受け、人を寄越すことを止めたアレクだが、結局すぐには宿を出なかった。
朝食後すぐの時間帯に帰せば、もし人目があった場合、リリアンが侯爵家から朝帰りしたと噂が立ってしまう。
アレクにとっては問題ないことだが、リリアンやその家族にとって婚前にその噂は不名誉なことだろう。
そこで侯爵家に届け物をした後に送ってもらったと言っても通用する時間まで待つことにしたのだった。
リリアンはそのことに気付いておらず、体調が良くなってきたので、滅多に泊まることのできない高級宿の調度品を見ては手当たり次第キャビネットの引出しを開けたり、置物の蓋を開けて中をのぞいてみたりしていた。
アレクはリリアンが何をしたいのかわからなかったが、その様子が愛らしかったので黙って好きなようにさせていた。
一通り見て回り満足したリリアンはアレクが座るソファへ戻ってきて隣に腰を下ろした。
アレクは飲んでいた紅茶のカップをテーブルに戻すと、当たり前のようにリリアンの腰を擦る。
リリアンは心地良さに目を細めたが、申し訳ないという気持ちもありアレクの顔を見た。
「あの、もういいですよ。昨日よりは随分ラクになりましたし。ありがとうございました」
「・・・あと少しの時間なんだ。こういう日くらい甘えればいい」
アレクはリリアンの体に手を伸ばすと彼女を自分の膝の上に乗せて抱きしめるように抱え直した。
体重の全てがアレクに掛かるように抱え込まれ腰を擦られると、リリアンも抵抗する気は起きず甘えるようにアレクの首筋に顔を埋めた。
何も話さなくても気にならない心地良い時間が流れていく。
アレクの体温と掌がこんなにも気持ちいいものだと知ることになるなんてリリアンは夢にも思わなかった。
リリアンは無意識のうちにアレクの首元に頬擦りをして気持ち良さげにため息をつく。
アレクの首は上着の立て襟とスカーフで守られていたが、そのリリアンの仕草に何も感じないわけではない。
リリアンを抱く腕の力が一瞬強まってしまい、アレクは慌ててリリアンを見たが、どうやら彼女は夢うつつのようだ。
自分に身を委ねて安心してくれるのは嬉しい反面、少し残念な気もする。
このまま屋敷に連れ帰ってしまいたい。
リリアンがこの恋は錯覚だと気付く暇もないほど側にいて、ずっと自分に甘やかされて暮らせばいい。
そんな衝動を胸に潜ませ、アレクはリリアンの黒髪を何度も梳く。
腹の底から息を吐き出し、アレクは自身の欲望を追い出そうとした。
そんな衝動を実行しても満足出来ないのはわかっていた。
リリアンが本当に自分を望んでくれる、その心を手にしたいとアレクは思っているのだから。
夢心地のリリアンを抱いたままアレクは立ち上がり部屋を出た。
二人だけの非日常は終わり、今からは日常の中でリリアンの心を掴むよう行動する時間が来たのだ。
リリアンを大切そうに抱えるアレクの姿はいつにも増して凛々しく見え、宿の者たちは敬意を込めて見送った。
心地良い温もりと揺れに身を任せていたリリアンが目を覚ましたのは、リリアンの自宅に着きアレクが馬車を降りようとしたその時だった。
アレクの腕の中で目覚め、まだ宿に居ると思っているリリアンはぼうっとする頭のまま、アレクの肩に顔を摺り寄せた。
その甘えを含んだ仕草にアレクは口元を緩めたが、二人を出迎えたリリアンの両親は目を丸くした。
「リッ、リリアン!?」
「え・・・?」
気怠く視線だけ動かしたリリアンは、驚きに顔が引きつっている父親と目が合った。
リリアンは状況がわからず、ゆっくり瞬きを繰り返し頭を働かせようとした。
宿に両親が迎えに来たのだろうか。
「・・・」
「リリアンッ!と、とりあえず侯爵の腕から降りなさい」
「私が好きでやっているので気にしないでほしい。部屋まで運んでもいいだろうか?」
リリアンを呼ぶ父親の上擦る声と、それとは対照的なアレクの落ち着いた声を聞いて、リリアンは次第に現実が見えてきて慌てふためいた。
「アレクッ。ごめんなさい、眠ってしまって。私、降ります」
「体調は大丈夫か?」
「気持ち良すぎて眠ってしまっただけですから。大丈夫です」
ここで押し問答をしていたら道行く人の目を引いてしまうと考え、アレクは仕方なくリリアンを腕から降ろした。
両親からリリアンを介抱した礼を述べられ、気にすることはないと笑みを返しながらも、アレクはリリアンの重みのない両腕に物足りなさを感じていた。
リリアンもまたアレクの温もりが離れた途端に寂しさを覚えて、アレクに向けて伸ばしそうになる手を抑えるのにもどかしさを感じた。
両親との会話が終わり、アレクがリリアンに向き直る。
「来週もまだ辛いようなら人を遣るから無理にうちまで届けなくていい。来れそうなら迎えを遣る。いずれにせよ前日に連絡をやるから返事をくれ」
「はい。本当にありがとうございました」
その言葉に、アレクは左の口角を上げる笑みをリリアンに残すと、馬車に乗り込み家路についた。
アレクを見送ったあと家族揃って家に戻ると、御者から受け取った荷物を覗き込みながら母親が感嘆のため息をついた。
「良かったわね~、リリアン。あんなに素敵な侯爵様に抱きかかえてもらえるなんて。お姫様みたいだったわね」
「うん・・・」
「何を呑気なことを言っているんだ。たかが月の巡りのせいで領主様の手を煩わせるなんて」
「あなたこそ何を言ってるのよ。リリアンへの好意があるから世話を焼いてくれてるんでしょ。女冥利に尽きるわよね、リリアン?」
「う、うん・・・」
「何もされてないだろうな?」
「え?」
「侯爵に何もされていないだろうな?」
「・・・」
「リリアン?!」
「してもらったかも・・・」
「なに?!」
「えっ?!」
父親は驚きと戸惑いと怒りを綯交ぜにした表情で、母親は好奇心と一抹の心配を覗かせた表情で、それぞれリリアンを見つめた。
「お母さんが手にしてる荷物の中身・・・昨日私が来てた服なんだけど・・・・・・汚れちゃったのを洗ってもらったの」
「・・・誰に?」
「ア・・・侯爵に」
父親はこれ以上はないくらい目を見開いて固まってしまった。
その横で母親は荷物を探りながら、服だけでなく下着も入っていることを見つけた。
若干頬を染めながら「まあ」と口にした母親はうんうんと頷いている。
「綺麗に落ちてるわ。侯爵様は意外とマメなのね~。良いお婿さんになるわよ、きっと」
「侯爵が婿になったら気が休まらんだろう。って、違う違う。そうじゃない。なんで汚れ物を侯爵に洗わせてるんだ。それでもサボン屋の娘か!」
「もう、あなたったら。リリアンは倒れるほど体調が悪かったのよ。自分で洗えるわけないでしょう。それに侯爵だってそこらへんに汚れ物が落ちてたって洗いはしないわよ。リリアンのだから洗ってくれたの。愛よ、愛」
母の言葉に父親は唖然としたが、リリアンは胸に火が灯ったように温かくなった。
確かにアレクは親切で優しいけれど、道端で倒れている見ず知らずの人を付きっきりで看たりはしないだろう。
まして汚れた物を洗ったりするとは思えない。
母親の言う通り、私だからやってくれたのだと思うと、リリアンは昨日から今までのアレクの行動に愛を感じることができた。
それは恋愛なのか友愛なのかアレクの真意はわからないが、どちらにしてもリリアンはアレクの特別になれていると思う。
自惚れかもしれないが、それでもいい。
先ほどまでアレクの腕から離れたことで感じていた寂しさが薄れていき、アレクの想いに今も包まれている気がするリリアンだった。




