この足が目指す場所ー6
ベンチの端に腰かけたまま、俺は親父に電話を入れた。後先を考えていなかったとは言え、苦しみながら登ってきた道を今度は下りて行かなければ自分の家には帰れない。立つことすら危ういのだから救急車を呼ぶべきなのかもしれないが、こんな山の頂上までよく知らない人間を呼ぶのは気が引けた。自分が我妻山の頂上に登り、膝の痛みが悪化して下りられなくなった旨を親父に伝えると「わかった」と、一言だけ返され電話は切られた。
「おじさん来てくれるの?」
「多分な」
「多分?」
「今の状況を諸々説明したら、わかったって言われてそのまま切られた」
「そう」
飛芽は俺の隣でベンチに腰かけている。さっきのように俺を置いてここから立ち去ろうとはしないようだ。
しかし俺たちの間で行き交う言葉はいつもより少ない。他愛のない話――いつも飛芽とどんな会話をしていたのか、少しも頭に浮かんでこないのだ。
「ねえ」
空っぽの頭にすぐ隣から声が飛び込んできた。
「ん?」
「さっきの続き」
続き――俺が飛芽の隣にい続けてもいいのかと聞いて、飛芽がそれを受け入れてくれたことだろう。
『……うん。いいよ』
短くとも飛芽のあの言葉でこの話は完結してしまったのだと思っていた。だが続きがあるらしい。先に続く言葉を全く予想できない俺には飛芽の話を促してやるしかできない。
「ああ、なんだ?」
飛芽はぼーっと菜の花畑を見つめ、語りかけるように話し始める。
「これからも私の隣にいて。草が大好き、この気持ちは絶対に変わらないけど……やっぱり、私もあんたを近くで見ていたいから」
「ああ、俺もだ」
「それでね、約束してほしいことが二つ――あるのっ」
言い終ると同時に飛芽は俺の体へと飛び込んできた。咄嗟に体を飛芽の方へと向け、自分の胸へと迎え入れる。飛芽のポニーテールがフワリと浮かんでは小さな背中に落ちた。背中に回された手は力強く制服を掴んでいる。
「約束して。あんたは自分を大切にすること」
俺の胸に顔を押し当てたままで、飛芽の声はくぐもっていた。
「あー、はは。そうかもしれないな。立つのすらやっとの今の俺には耳が痛すぎる」
「うん。あんたは何回言ってもわかってくれないから。だったら私はわかってくれるまで何回でも言うわよ」
こうして自分の体を労わってくれる飛芽に俺は感謝すべきなのかもしれないが、すべてを肯定するのは自分の決意を否定してしまうのと同義であると俺は思う。
「でもな、体ってのは傷つく為にあるんじゃないかって俺は思うんだよ」
そう言うとすぐ、飛芽は顔だけを上げて薄く開いた目で俺を睨んだ。
「どういう意味よ? 自分の体が傷だらけになっちゃってもいいってわけ?」
「いや……そこまでは思ってない。自分の行動を起こす命令を脳が出していて、その行動を起こすためになにかしらの対価を払うのが自分の身体なんだとしたら、汗をかいたり、痛みを感じたりするのは自分の意思をちゃんと貫けてる証拠なんじゃないかって、漠然とそう考えてるだけだ」
そう、漠然と。頭の中ではっきりとさせないまま口にしてみると、それはもう人間として当たり前な言葉しか出てこなかった。
俺の考えを汲み取ってくれたのか、飛芽が呟く。
「自分の意思を貫いた証……」
「ああそうだ」
「草は自分の意思を貫けたの?」
「この膝の痛みが――間違えようもない証拠だ」
「……そう」
飛芽はまた俺の胸に顔を埋め、そのまま俺の右膝を左手で優しく撫でてくる。飛芽の暖かくて柔らかい手に包まれている右膝は、痛みさえも心地よく感じていた。
「ただ痛いものは痛い。それにお前が言ってるのはなにも身体の痛みだけじゃないんだよな?」
俺が学校内で煙たがられているのは自覚している。自覚した上で俺は自分からクラスメイトに歩み寄ろうとはしていないし、そうして欲しいとも思ってない。
飛芽が俺を見捨てないでくれているだけで、俺はいつだって安穏と暮らしていられる。
しかし、それに対しても飛芽は自分を大切にしろと言っているのだ。
「みんなは草をなにもわかってない。確かに草は、いつも澄ました顔でクールぶってるし、無関係を装ってみんなから離れようとするし、休み時間になったらすぐ寝てるし、仕方なく会話する状況になっても『ああ』とか『おう』しか言わないし……」
声が途切れた。飛芽は顔を上げて俺を見る。
ジトッとした目をしていた。
「やっぱこれに関してはあんたの気持ちが伴わないと無理ね」
「自覚はしている」
「そんなドヤ顔で言わないでくれない?」
「してない……まあ、俺には飛芽以外必要ないって考えてたから」
楠、そして鈴蘭とした会話を思い出す。二人と交わした会話はここ最近俺がコミュニケーションを取った中でもかなり長い部類に入る。
楠と話していると――心が和んだ。
鈴蘭と話していると――気持ちが伝わってきた。
嫌いじゃない、むしろ人間の普遍的な人生の中で、あって然るべき感覚じゃないだろうか。
「だが、これからは努力してみようとは思う。もう自分から遠ざけようとはしない」
「うん。それでも悪口言ってくる奴がいたら、その時は私がそいつをぶっ飛ばしてあげる」
「今までとあんまり変わらないな……。まあ頼もしくはあるがな」
俺の腕の中にスッポリと収まる小さな体は、俺にとって誰よりも大きく見えた。
「後、もう一つ約束して?」
「おう、なんだよ?」
「うん……はぁ~ふぅ。」
俺の身体にしがみついていた飛芽は、一つだけ大きく深呼吸――長い息を吐き終え、あらゆる感情が静まり返ったなにもない表情を見せる。そして俺の肩に手を乗せ、ベンチから立ち上がってしまった。
夜間の冷え込んだ空気が飛芽のいた胸と腹の辺りをどんどん冷たくさせていく。月明りと外灯に照らされた菜の花畑に飛芽はゆっくり近づいて行き、俺との距離が遠くなっていく。
菜の花畑が見せる幻影。黄色い海の手前に飛芽の背中が小さく映る。
飛芽の傍に居続けられるなら俺はなんだって、どんな約束だって果たして見せる。俺もいつか鈴蘭のようにこいつを好きだって声高らかに言える日が必ず来る。その日までにどんな試練を課せられようが俺は全て乗り越えて見せよう。
不安なんてなにもない。飛芽のポニーテールを見つめながらそう思った。
飛芽が身体ごと振り返る。ポニーテールは見えなくなった。
「えっとね?」
振り返った飛芽は満面の笑みで俺を見ている。俺もその笑みに応えるように、軽く笑いかけた。
「おう」
俺は未来に見える希望を、確かに感じていた。
「私が好きじゃなかったら――ちゃんと振ってね?」
そう言われた。
そう言われ、万が一の未来を予想してしまう。
万が一――しかし、万に一つの可能性が確かに見えた。
それは俺と飛芽が本当の意味で離ればなれになる時。
決別の瞬間が――。
「……」
なにも言葉が出てこなかった。いつもなら出てこない言葉の代わりに飛芽の元へと駆けつけてどこにも行ってしまわないようにと、飛芽の手を強く掴んで離さなかっただろう。しかし右足に力を入れてみても痛みが俺を立たせてはくれなかった。
飛芽の元に駆けつけたい――そんな俺の願いを拒んでいるかのようだった。
だから俺は冷たくて固いベンチの上から眺めるしかできないでいる。
「――っく!」
ずっと一緒にいられる。俺は疑いすらしなかった。
しかし飛芽は、ずっと隣にいた幼馴染はとある可能性を残したのだ。
俺たち二人が離ればなれになる未来。
力の入らない足の代わりに拳を握りしめた。
地上から顔を出した芽はまるで翼のような葉を広げ、やがて広大な空に向かって飛び立とうと自分の背丈を伸ばしてゆく。そして太陽の輝きを一身に受け、いつかは自慢の花を大きく咲かせるのだ。
その花の傍で成長を見守る雑草は、自分の背を伸ばせないまま花たちの成長を阻害する邪魔者だと吐き捨てられ、荒々しく毟り取られる。
蔑まれ、淘汰され、雑草は虚しい末路を辿っていく。
命尽き果てた時、雑草は一体なにを思うのだろう――?
「……」
多分。
その時になってみないと、わからない。




