この足が目指す場所ー1
「いや……いやいやいやぁっ」
錯乱する飛芽は濡れた屋上の床に尻餅をついてもなお、俺から逃げようとする。その姿はまるで急に現れた幽霊から逃げる幼子のようであった。
「おい飛芽、落ち着け!」
「いやっ! 来ないでぇっ!」
「なんでそんなに逃げようとするんだよ!」
どうして飛芽が俺から逃げようとしているのかわからない。確かに飛芽が俺のことを好きだと言っていたのはこの耳で確かに聞いてはいたが、ここまで飛芽が追いつめられるような状況なのだろうか? そんなに俺に聞かれたくないことだったのか?
拒絶を示す飛芽を前にして俺はどうすればいいのか全くわからなかった。
「いやだ……私は草と離れたくない……いや……」
「どうしてそうなるんだ? お前が俺を好きだって言ってたのは……確かに聞いた。だけどそれでどうして俺たちが離れないといけなくなるんだ!」
雨で濡れてしまおうと構わず、飛芽に駆け寄り小さな手を握る。
「お前の俺が好きだって気持ちはわからないけど、でも――」
「やっぱり……」
飛芽は自分の手を振りかぶった。そして俺の手が振り払われる。
「ごめん、草」
「は?」
「あんたは私の気持ちを知ってしまったわ。そして私の気持ちに答えられない……そうよね?」
「まあ確かに、俺は恋愛とかそういうのに疎いから……でも多分俺はお前が好き――」
「それは違う!」
震える手と足で体を支えながら飛芽はゆっくり立ち上がる。
かつて見たことのない幼馴染の姿に頭が回らなくなっていた。幼馴染を受け入れてやりたい気持ちがあっても、どうすればいいのかわからない。
どうすればいつもの飛芽に戻ってくれるんだ?
「私の好きと、あんたの好きは違うのよ」
「違うって、一体なにが違うんだよ?」
「全然違うのよ。私がずっと抱いてきたこの気持ちは、今のあんたには絶対わからない」
駄目だ。
いつもなら呼吸をするように取れていた意思疎通が、今は全くできない。
飛芽の考えが理解できない。
目の前で泣いている飛芽の心を覗いてみようとしても、酷く嘆いているとしか俺の目には映らなかった。
「あぁ、なんだか寒いなぁ。びしょ濡れだし、これじゃ風邪ひいちゃうかも」
飛芽は自分の体を抱きしめた。その体は震えていた。
「飛芽?」
「ごめん……。私行くね?」
体を隠すように飛芽は俺の横を通り過ぎた。その姿を追って振り返るが、飛芽が扉の向こう側へと消えて行くのをわずかに捉えるのが精一杯だった。
「おい! 待てよ!」
まだ間に合う。ついさっき飛芽と話し合うって決めたばかりじゃないか。俺たちは幼馴染で、いつも一緒にいて、意思疎通なんか呼吸をするより簡単で、それが俺たちの当たり前なんだ。なのにどうして俺がわかんないような所で飛芽と離れないといけなくなるんだよ。俺の飛芽と一緒にいたいって気持ちは、飛芽が言う好きってのと一体なにが違うんだよ……。
雨が弱まった気がした。勢いの衰えた雨粒を掻き分けながら扉へと向かい走る。
「草様」
この屋上には俺と、俺をこの場所へ連れてきた沢木と――。
俺と同じくずぶ濡れの鈴蘭絵里華がいた。
「お待ちください。例えあなたが今の菊川さんを追いかけた所で彼女を突き放してしまうのは目に見えています」
鈴蘭は雨にぬれても尚、冷静でいた。
「あーはは。じゃあ私は行くからー。絵里華がんばってねー」
「ありがとう凛子。ばっちりのタイミングだったわ。また後で」
屋上入り口にいた沢木は鈴蘭に向かって手を振ると、そのまま屋内へと消えた。
鈴蘭と沢木が交わした会話から察するに、俺はまんまとはめられたという訳か。俺がのこのこと沢木について行ったりしなければ、こんな状況にはならなかったかもしれないのに。
主犯である鈴蘭を睨みつける。
「やっぱりお前か。お前の言う真実は、飛芽の俺に抱いていた気持ちってことだったのか?」
「ええそうです。あなた方の距離は近すぎました。そして近すぎるが故に互いの本当の気持ちが全く見えていなかったのですよ。他人である私には草様と菊川さんの関係が奇妙に見えて仕方ありませんでしたから」
「奇妙?」
降りかかる雨をものともせず鈴蘭は俺に近づいてくる。異様な雰囲気を纏いながら歩くその様は、俺の知らないすべてを網羅した次元の違うなにかに見えて、それがゆっくりと、そして確実に近づいてくる足音に濡れた背筋が凍りついていた。




