真実はそっと、胸の中に―8
北校舎の屋上は唯一生徒たちに開放されており、三階建ての校舎の中で最も空に近い場所だ。
飛芽は屋上の扉を開けた。屋上の真ん中に一人、空を見上げる少女がいる。
「こんにちは。よく来てくれましたね」
黒曜石のように黒く輝き、風を華麗に受け流す鈴蘭の長い髪は同性の飛芽から見ても十分に魅力的であった。髪の繊細さは絶対に鈴蘭には勝てないとすら本気で思う。
鈴蘭絵里華は美しい――。そう誰もが答えを一致させるだろう。
「あんたを放っておいたらどんなことをしだすかわかったもんじゃないわ」
「人を猛獣のように言わないでくれませんか?」
その美しい髪の向こう側で光る瞳は、飛芽を見据えていた。
「変わらないんじゃないの? 私と草の安らぎを脅かそうとする獰猛な獣よね」
「草様の安らぎを脅かしているつもりはありませんわ。あなたは別にどうでもいいですけど」
「どうでもいい? じゃあなんであんたは私を呼び出したのよ」
飛芽は鈴蘭の目の前まで近づいた。
「アネモネの花なんて置いて……さっさと要件を言ってみたらどうなの?」
「せっかちな人ですね……まあいいでしょう」
空は青い――と誰が言ったのかと疑念を抱く程に、暗雲が空を覆い始めていた。分厚い雲が押し詰められた空は見紛う事なき、灰色の空。
詰め寄る飛芽を躱し、鈴蘭は三歩前へ歩くと二人は丁度背中合わせになっていた。
「白いアネモネの花言葉――真実の意味を込めて、私はあなたにあの花を送らせていただきました」
「真実? それは一体どういう意味なの?」
「菊川さん、あなたは草様をどう想っているのですか?」
飛芽の心臓が飛び跳ねた。
「どうって――」
冷淡な声音の鈴蘭に対し、飛芽も負けじと声を低く抑える。
「私と草は幼馴染よ。それ以上でも以下でもないわ」
「ふふ……あなたは本当にそう思っているのですか?」
「ええ」
「あなたも本当は私と同様に、草様が好きなんじゃないかと思いまして」
「は? なに言ってるの? そんなわけ……」
心音が至近距離にいる鈴蘭に聞こえてしまわないかと不安に思いながらも飛芽は見栄を張り――。
「ないじゃないのよ」
堂々と嘘を吐く。
「菊川さん」
「な……なによ」
鈴蘭に名前を呼ばれ、飛芽は振り向いた。
「あなた今、相当ひどい顔をしてますよ?」
「――っく」
飛芽は隠すようにして顔を伏せた。歯を思い切り食いしばり、無理やり頬を引きつらせ、そんな歪な表情を見られたくなかったのだ。
飛芽が顔を伏せたタイミングと同時に、鈴蘭が自分のスカートのポケットに手を入れる。ゴソゴソとポケットの中でなにか不自然な動きをしていることに飛芽は気づかない。
「ふふっ……言ってみれば楽になるのではないでしょうか?」
「な、なにを?」
「草様のことが好きなのだと」
「だから違うって――」
「違うのであればどうしてあなたはそんなに苦しそうな顔をするのでしょうか? 今のあなたはまるで行き場を失い袋小路に立たされた子猫のようです」
「意趣返しのつもり?」
「見た通りを口にしたまでです。そんなあなたを見たら草様は一体どんな気持ちになるのでしょうかね?」
鈴蘭は飛芽を完全に見下していた。飛芽はせいぜい鈴蘭に向けて取るに足らない皮肉を言うだけしかできずにいる。
――私は草が好き。
鈴蘭に言われるまでもなく、飛芽はとっくの昔から、それも本人ですらいつそう思い始めたのかもわからないままに草を好きになっていた。アスターの花をメスシリンダーに植え替えたあの時から? それとも出会った頃には既に? 草と過ごしてきたいくつもの記憶を思い返してみても、自分がいつ草を好きになってしまったのか全く思い出せなかった。
しかし、飛芽がそれを草に伝えたことはない。現在の二人の幼馴染と言う関係はもうなにもかもが完成されていて、お互いを知り尽くし、意思疎通など言葉を交わすまでもなくあらかたの思考が分かり合える。世間が親友だの恋人だの夫婦だのと宣う関係性よりも遥かに自分たちの方が親密であると自信を持って言えた。
しかし、だからこそ飛芽は草に自分の気持ちを伝えられないでいた。一度草に自分の気持ちを伝えてしまえばそれで自分たちの幼馴染という関係が失われてしまうのではないかと恐れているから。
それに飛芽は知っていた。草の答えを。
草は――誰も好きではない。
幼馴染がいつも隣にいることで恋愛感情など必要ないと考えている草を、飛芽は知っていた。
だから、草には打ち明けられずにばれないように必死になって隠していたのだ。
「言ってしまえばいいのではないでしょうか?」
唐突な鈴蘭の提案に飛芽は体をビクリと震わせた。
「もしあなたが草様のことが好きだというのなら、私たちは同じ相手を好きになった敵でもありますが、草様を慕う、という一点において同等の価値観を持ち合わせている――いわば似た者同士になります」
鈴蘭絵里華と似た者同士――聞いただけで嫌気がさした。しかしそう考えていながらも、飛芽は鈴蘭になに一つとして言い返せないでいる。
鈴蘭は両手を天へと掲げた。
「ここは私以外に誰もいない開けた場所です。吐き出してみてはいかがでしょう?」
暗雲立ち込める空の元、鈴蘭はまるで教祖にでもなったかのような立ち振る舞いだった。
「吐き出して、そして自分の気持ちを改めて確認してみればいいのですよ。好きなのか、それともそうではないのか。もしくはその度合いを」
そして飛芽は目の前で霞んでいる救いに手を伸ばす。
「そう、かもね。別に私は……草が好きとか、そういうのないけど。でも言葉にしてみれば、なにかわかることがあるのかもしれないわよね」
「ええそうです。さぁ、言ってみましょう。草様が好きなのだと」
草に好意を抱く飛芽に対し、鈴蘭は真情の発露を促す。
「私は――」
例え一人の時であろうと、決して自分の口から出てくる筈もなかった言葉。
「私は草が好き」
飛芽の心の中に仕舞い込まれていたその大切な気持ちは、ほんの少し空気を震わせただけだった。それを微かに感じ取った鈴蘭は更に飛芽の気持ちを暴こうとする。
「それでどうですか? 言葉にしてみた感想は。あなたが草様をどう思っているのかわかりました――」
「私は草が好きっ!」
「…………」
今度の声は空気を大きく震わせた。鈴蘭の耳にも大きく響き、果たしてどこまで飛んで行ったのかもわからない。
堰はもうとっくに切れていた。後はもう溢れ出ていくだけ。
「私は草が好きなのよ。大好きなのっ! あんたなんかよりもずっと!」
飛芽は鈴蘭に詰め寄り、胸倉を掴んだ。
「ふふふ……。そうだと思いましたわ。あなたが草様を見る目は、明らかに幼馴染の視線ではありませんでしたもの」
「そうよ! 私はこの目であいつをずっと見てきた。大好きなあいつの顔をすぐ隣で見ていられる日常が私には幸せなのよ。あんたなんかに邪魔なんてされたくない」
「邪魔……ですか。私は本気で草様を愛しているだけですが? 別に付き合ってもいないただの幼馴染である菊川さんに、非難される言われはないと思いますけれど?」
攻め寄られる鈴蘭は近くにある飛芽の形相ではなく、別の場所へと視線を向けていた。
鈴蘭の視線は屋上の入り口へと頻繁に向けられている。
「あんたはなんで草なんかを好きになったのよ」
しかし、飛芽は鈴蘭のその視線に気づかない。
「一目惚れです」
「一目惚れ? 顔の良い男子なんて他にもっといるじゃない」
「あははっ!」
上に向いた嘲笑は空へと吸い込まれる。
「な、なにがおかしいの?」
「その質問に答える必要性を、全く感じないからです」
不気味さを取り巻く鈴蘭に飛芽は怖気づいてしまいそうになっていた。
「じゃあ菊川さんはなぜ草様なんか、を好きになったのですか?」
「私は……」
飛芽は頭の中にある記憶を更に掘り返してみたが、やっぱり答えは同じだった。
気づいたら好きになっていたのだ。
飛芽の両手が鈴蘭の制服から滑り落ちた。
「私の隣をいつも一緒に歩いてくれたから、だから……好き」
これが飛芽の草に対する気持ちを最大限に表現した結果だった。
「それは草様のお顔となにか関係が?」
「はは……全くないわね」
「そうです。あなたは答えを知っていました。だから私は答える手間すら億劫に感じたのですよ」
飛芽が頭を下に向けると、頭についているポニーテールがだらりと落ち、同時に屋上の白っぽいコンクリートの床に黒い小さなシミが見え始める。
細かい雨粒が降り始めていた。
「菊川さんは伝えないのですか? 草様にあなたの気持ちを」
「――邪魔しないでよ」
「はい? ふふっ……」
「邪魔しないでよぉっ!」
鈴蘭は気にしていた扉を見て怪しく笑う。その不気味な顔が飛芽にも見えていたのだが、激情に駆られた飛芽にはもうなんの関係もなかった。
雨脚が強くなって体が水浸しになっていようと、自分の憎むべき相手の前で無様な姿を晒してしまおうと、後ろから扉の開く音がしてどこかの誰かが屋上に立ち入って来ようとも。
「おい、ひ――」
飛芽にはもう、なにも届かない。
「草に言えるわけないじゃないのよ……。私が草に好きだって言ってもあいつはなにもわかっちゃくれない、そういう目では絶対に見てくれない。ただ私たちの関係が壊れてしまうのが目に見えているのに自分で自分の居場所を失くすなんて真似はしたくない」
草とは幼馴染という固い絆で結ばれている。しかし、自分の想いがほんの少しでも草に露見されてしまえば、水平に保たれていた均衡があっさりと崩れてしまいそうで、飛芽はその想いを草に伝えることなどできなかった。
雨風を弾き返さんとばかりに飛芽は捲し立てる。
「草はクラスで浮いてるけど、それをどこかで安心してる自分がいるの。だってそれはあいつに関わってくる人間が極力少なくなるってことじゃない。誰も草を知らない、気にしない、そして愛さない。私の好きな草が誰からも愛されない、それは私にとって平穏そのもの」
「……」
「だからあなたに私の平穏を邪魔されたくない。私も、草に自分の気持ちは明かさない」
胸に秘め続けていた決意を鈴蘭へとぶつけた飛芽は自分の胸を大仰に叩いた。
「あなたは、それでいいのですか?」
「私は大好きな人の――草の隣にいられればそれでいいのよっ!」
「……」
「はぁっ、はぁっ」
「……ふふ、ふっふふふ」
鈴蘭が笑い出したのを見て、飛芽は自分が熱くなり過ぎていたのに気づく。
「あっははははははははっ!」
それは自分に対する嘲りであると飛芽は思った。自分の草に対する歪みきった愛情を熱弁した所で笑われるのは目に見えていたと言うのに、どうして私はこんな奴にここまで話してしまったのか――冷静になり、生まれた後悔はなかなか消えてはくれない。
――なにやってんだろ、私……。
「はははっ、あっははははっ!」
飛芽は自分がびしょ濡れの状態であるとたった今気がついた。
いつのまにか強くなっていた雨が屋上を叩きつけ、ノイズのような音を鳴らしている。
「あはははっ!」
ノイズに紛れて聞こえてくる嘲笑を、飛芽はもう聞いていたくなかった。
植物会へ戻ろうと、飛芽は鈴蘭に背を向ける。
「え……?」
扉には、二つの人影があった。
「――う、うそ。うそよ」
飛芽の血の気が引いていく。ゆっくりと首を振り、二歩、三歩と後ずさる。
「な、なんでっ?」
二つの内、一つの人物は飛芽が最も同じ時間を共にした相手。
「飛芽……」
――七種草。
彼は泣きそうな顔で、慄く飛芽を見つめていた。




