真実はそっと、胸の中に―4
菊川飛芽は考えていた。
「はぁ~。どうなんだろ?」
白いノートを背景に、シャーペンを握っていた自分の右手をじっと見つめていた。開いたり、握ってみたりしてそれを何度か繰り返し、今度は開いたままで自分の掌を熟視する。
飛芽が草の頬を叩いたあの日から二日が経った。草は飛芽と視線が合う度に頭を下げ、謝罪の言葉を口にするのだが、飛芽はそれを徹底的に無視していた。草が許せないのは当然の理由として、それを意地として昇華してしまった飛芽も引くに引けなくなってしまったのだ。
どうして草が「お前は誰にでも優しいんだな」なんて言ったのかは飛芽にもすぐ理解できていた。草は草なりに自分を守ってくれようと考えてくれていて、言いたくもない言葉を口にしたのだと。でも草が犠牲になって自分だけ安寧に浸ろうなどとはこれっぽっちも考えていない。そうなるくらいだったら草以外のみんなに嫌われても構わないとすら思っている。
だからビンタをした。
草にも自分が同じ気持ちなのだとわかって欲しかったから。
「あいつはわからないんじゃなくって、わかってくれようとしないのよね」
相手を思いやる気持ちが交差して、軋轢を生む。どうにかしようにも打開策がなにも思い浮かばなくてもどかしい。どうすればいいのか、どうすればあの時ビンタなんかせずにいられたのか、飛芽は誰かに問い質したい気分でいた。
「よーし、じゃあ今日はこれまでだな、それじゃお疲れー」
チャイムが鳴ると同時に数学担当の森幹久は颯爽と教室から出ていった。
飛芽はじっと見つめていた掌から視線を黒板へと移す。自分の掌の残像が確かな輪郭を持って黒板に色濃く浮かび上がっていた。
「でも、さすがにビンタはやりすぎたのかもね~」
「ヒメは、なぁ~んにもっ! 悪くないよ!」
気づいたら飛芽の目の前には蓮花がいた。
「あいつが全部悪いんだよっ! このっこのっ!」
蓮花は草の姿を想像しているのか、地団駄を踏むように床を蹴っていた。
「なんか妙にイライラしてるじゃないの。草となんかあったの?」
「あいつ! 私の身長がちっちゃいからって頭を撫でまわしてくるんだよ。やめろって言っても『お~すまんすまん』とか言って全然やめる気がないんだよっ! 絶対に私の事バカにしてるよねあれは」
蓮花は草を心底嫌っているようにも見えず、それでいて見放しているようにも全然見えない。飛芽は授業中に熟考していて凝り固まった頭が少しほぐれたような気がした。
「あははっ」
やっぱり蓮花といるとおもしろい。
飛芽は席の隣で床をずっと蹴り続けている蓮花も大切に思っている。
蓮花は間違いなく飛芽の心を許せる数少ない親友だった。
「やっぱり、私も謝らないといけないって思うのよ。草も遠目から見た感じだと結構堪えてるみたいだし。私はあいつにあんな顔をさせたくてビンタしたわけじゃないんだから」
「なんかいつもとは違うけど、すごい寂しそうな表情してるよね」
飛芽と蓮花は二人とも一つの席に目を向けていた。その席に座っていた飛芽の幼馴染は明らかに暗い雰囲気を纏っている。
いつもよりしょぼんと。
「放課後にあいつと話し合ってみるわ。謝るかはとりあえず、このまま私が無視を決め込んでてもなにも始まらないし」
「ははぁ~」
今にも蕩けてしまいそうな蓮花は両手で頬を挟んでいた。
「ヒメはなんて寛大な心を持っているんだい? 私だったら一瞬間くらいはどれだけ頭を下げて謝ってこようと全部聞き流せる自信があるよ」
「あんたはあんたで全く違う理由でしょ・・・・・・」
「厳しい面もあるけど、最後には優しさで包み込んでくれる。そういうヒメの気遣いが私は好き」
「あーはいはい。そろそろ授業始まるから席戻ったらー?」
飛芽がそう言うと、本当にチャイムが鳴って蓮花は渋々自分の席に戻った。
そして放課後。昨日、一昨日と植物会に顔を出していなかった飛芽であるが、今日は草と話し合う為に植物会へ行こうと考えていた。
「そー」
「ん? お、おう。飛芽、一昨日はその・・・・・・」
顔が合う度、草は視線を落としてボソボソと喋り出す。
――幼馴染ながら、さすがに可哀そうに見えてきたわね。
「もう別に謝んなくていいから」
「は? それってどういう――」
「今日は私も植物会に行くわ。一昨日は私もちょっとは悪いし、ちゃんと話し合わなきゃずっとこのままだって思うから」
「あ、ああ。・・・・・・うん! そうだな。そうしよう」
長年放置され続けていた朽ち木がみるみると呼吸を吹き返していくように、草が纏っていた暗い雰囲気はどこかへと飛んで行ってしまった。活性化し始めた草は、必死に自分の昂りを隠そうと興味のない目を虚空へと向けていたが、長年幼馴染の表情の機微を読み取ってきた飛芽にとって、どうみても喜んでいるようにしか見えなかった。
「ふふっ」
「なんだよ」
「なんでもないわよー」
自分だけにしかわからない幼馴染の表情。サッカー部を辞めてからは表情の移ろいが乏しくなってしまったが、飛芽は自分にしかわからない草の不器用な感情表現が好きだった。
「それじゃ早く行くわよ」
「おう」
帰り支度を済ませ、二人で第二実験室へと向かい歩を並べる。飛芽は自慢のポニーテールをフワフワと揺らしながら、草は自分の右足を鬱陶しく引きずりながら。
飛芽は草の歩調を知っていた。怪我した右足を引きずっている所為で常人よりもペースが遅い。いつも草の隣を歩いていたせいか、その間隔の狭い歩幅に自然と合わせてしまう。
ここは私の居場所だ。
他の誰にだって渡せない、私の居場所なんだ。
どうしてついさっきまでつまらない意地を張って自分から草を遠ざけていたのだろうかと不思議に思う。草をぶったのはいいとして、あの場ではっきりとお互いの気持ちをぶつけてしまえばよかったんだ。そうすれば草と一瞬でも距離が開く事はなかった。
――ちゃんと草に全部吐き出して、それから全力で謝るしかないわね。
他人にならそんな子供みたいな真似は絶対にしない。だが草になら喜んでして見せよう。
飛芽は張り切っていた。しかし、歩くペースは飽くまでも草に合わせながらである。
狭い歩幅で二人は校舎間を繋ぐ渡り廊下へと差し掛かった。
「あーきたきた。ちょっといい?」
「え? えーと……」
飛芽と草を待ち構えるかのように物陰から出てきたのは一人の女子生徒だった。
「私、隣のクラスの沢木って言うんだけど」
「じゃあ俺は先行ってるぞ」
俺に用はないだろうと、草は先に行こうとする。
「ちょっと待ちなさいよ」「ちょっと待って」
飛芽と沢木と言う女子生徒が二人揃って草に静止を呼びかけた。お互いに一瞬顔を見合わせたが沢木は草に向かって歩いていく。
「私はあなたに用があるんだけど……」
「え? 俺?」
沢木に指をさされ、珍事が起きたわけでもなく草は面食らった顔をする。
「うん。ちょっと二人で話がしたいんだけど……」
自分の長い金髪の髪を自然の風で靡かせながら、沢木は草に上目遣いで話しかける。
「あーいや、俺は今から――」
「いいんじゃないの? 行ってくれば。私は先に植物会で待ってるから」
飛芽は自分でも気づかないままに少々尖った言い方をした。草に用があるという女子生徒にはあまり好意的な印象が持てない質であると、飛芽自信鈴蘭絵里華の一件でわかってはいたが、言葉に内包された鋭い棘は全く隠しきれていない。
そして棘を吐き出した飛芽は草と沢木に背を向けて歩き出す。
「おい、飛芽!」
「まあまあ、七種君。ちょっとこちらまで来てもらってもいいかな?」
後ろから二人のやり取りが聞こえてくる。沢木の声も、沢木と話す草の声も聴きたくなくて、飛芽は足早に渡り廊下を渡り切ろうとする。
その歩幅は、草には決して追いつけないくらいに大きかった。




