真実はそっと、胸の中に―2
我妻山は林原高校から歩いて十五分くらいの場所にある小さな山だ。
舗装された階段を登っていくと山頂には我妻山公園があり、季節によって旬の花々が公園内に散りばめられる。その光景は見る人――俺の幼馴染だが――によっては楽園かと思える程に壮観なのだそうだ。
関口はゴールデンウィークにクラスメイトみんなで我妻山公園へ行こうと考えているらしい。それで飛芽と楠に声をかけたようだった。
「我妻山かぁ。丁度この時期は菜の花が綺麗に咲いてる時期よね。公園の中に、陽の光を浴びた菜の花が咲き誇る景色はまさに絶景! はぁ~今年はまだ行ってないのよねぇ」
「そうそう! 私もあんまし花とか興味ないけど、なんなのかな、人間として? あれは結構見ものだよね。以外と集まりよくってさぁ。今んとこほぼみんな来るって言ってんだよね。結構な大所帯になりそうだけど、あんたらはどうする?」
関口の誘いは飛芽にとって割と好印象だったようだ。まあ花や植物の事になると他に意識が向かなくなってしまう飛芽には持ってこいの誘いである。
「ん~行きたいけどなぁ」
飛芽は自分の顎に人差し指を当てながら悩み始めた。
「……」
――が、俺は気づいた。
それは些細な違和感だった。
呼吸の速さ。瞬きの回数。首を傾げた角度。ポニーテールの靡き具合。その他諸々の行動から見受けられる違和感が徐々に明白なものとなっていく
こいつ、なに考えてやがる?
飛芽はこれっぽっちも悩んじゃいない。
その違和感に気づいたのは俺が飛芽と長年過ごしてきた経緯があってこそだ。関口と楠には飛芽がよじよじツアーとやらに行くかどうか葛藤しているようにしか見えていないのだろう。
「なぁ、蓮花はどうするよ?」
「飛芽が行くなら私も行くよ」
楠は飛芽の腰巾着の位置を徹底して守り抜いていた。
「なぁなぁ、飛芽も行こうぜ~。なぁなぁ」
「ん~」
肝心の飛芽は目を閉じて考え込んだり、唸りながら辺りをグルグル回ったりと忙しい。
しかし、もう悩むのが鬱陶しくなったのか唐突にその終わりは訪れた。
「ねぇ草、あんたどうするのよ」
「「え?」」
飛芽が悩みに悩んだ末に口から出てきた言葉は関口と楠の時間を止めた。口をポカンと開けたままなにくわぬ顔をした飛芽を見ている。
クラスメイトを率先して牽引していく存在である飛芽。いつも飛芽の周りで騒々しくウロチョロする楠。クラスのムードメーカーである関口。
そんな三人は一言も喋らない。
「……」
俺達の横を誰かが走って通り過ぎた。足音がひどくうるさかった。
風が窓を叩いたように聞こえた。実際は軽く窓が揺れただけ。
今聞こえている音という音が、なんの関係もなくただ俺達の間を通り過ぎてゆく。
「……いや、俺はそもそも呼ばれてないんだろ」
気まずさが立ち込み始め、俺は堪らず沈黙を破った。
「え? なんで? 玲子、さっきほぼみんな来るって言ってたよね?」
「え? あぁ……まあそうは言ったけどさ、七種は……」
「七種は? 草は? なんなの?」
「や、えと……」
飽くまで恍けきろうとする飛芽はどんどん関口へと顔を近づけていく。そんなに真顔で攻めていたら見ているこっちが怖くなる。楠なんてこんなに怯えてしまって・・・・・・おい、しれっと俺の袖を掴んむんじゃない。
「全く……」
飛芽の違和感に気づいていたのは俺だけ。
つまりは、今この場を収める冷静さを欠いていないのも俺だけのようだ。
「おい飛芽」
飛芽の肩に手を置いた。ちょっと揺らそうとしてみてもビクともしなかった。
「関口は自分の行きたい所にただ行こうとしてるだけだろ? それに発案者は関口なんだろうし、よじよじツアーとやらに誰を誘うか誘わないかを決めるのは関口だ」
「そうね……クラスのみんなの中に、あんたは入ってないわけね」
「そうだが、それにはちゃんと理由があるんだろ。なあ関口」
俺はなるべく気楽に関口に話しかけた。
「あ、う、うん。七種は、足を怪我してるから」
我妻山は小学生でも一人で登れる程には小さく、標高も低い。ただ小さいとは言うが山は山であり、山頂まで行くにはいくつも連なっている階段を登っていく必要がある。現状、右足を自分の思い通りに動かせないでいる俺には負担が大きい筈だ。
まあ今の状態で山を登ろうなんて、余程の理由がない限りは思わないが。
「好きな友達相手を誘うようなもんだろ? それに怪我してる俺に気を使ってくれてるんだよ関口は。だから俺を誘っていない……これでわかったか?」
「わかるわけないじゃない」
凍ついた声は本当になにもかもを凍りつかせてしまう。俺と楠、関口も。周りの音に耳を傾けてみても、なにも聞こえなかった。廊下を歩いている生徒もなぜかいない。いきなり風が止んだのかと思う程、窓も静かに固まっている。
宥めるつもりが逆に飛芽の癪に障ってしまったようだ。
植物会が荒らされてしまった一件の後から、飛芽は今みたいな状況になると敏感に反応してしまう傾向にある。前までだったら「私は行かないから」と皮肉気に言い去るだけに留まっていただろう。
秋野先輩に励まされて幾分か立ち直ったかのように見えてはいたんだが、あの時心に負った傷は俺が思っている以上に深く、決して浅くはないという事か。
「玲子はホントに草に気を使ったの? 草が足を怪我してるってわかってたんなら我妻山にみんなで行こうなんて言い出すわけないわよね?」
「それは……」
「あんたの言うクラスメイト。それはつまり、草以外のみんなって意味なんだよね?」
「……うぅ」
「そもそも、誘うつもりもなかった草の前でそういう話を持ち出したのはなんで?」
「……」
これは少し、というか大分まずい状況であると考える。
関口はクラスのムードメーカー。その彼女をここまで追い込んでしまった飛芽はクラスでの立ち位置が危ういものとなってしまわないだろうか?
それこそ俺みたいに。
「おい」
今にも振り上げてしまいそうな飛芽の右手を俺は掴んでいた。
飛芽は俺の為にこうして怒ってくれている。それでクラス内で除け者にされてもこいつは全然構わないとすら思っているのだろう。
でも俺は嫌だ。
自分のクラスで頼る相手が一人しかいないのは、正直言って非常に辛い。孤独に慣れてしまった気持ちでクラス内に溶け込んでみても、俺を遠ざけようとしてくる視線が言いようのない痛みを生み出す。それは絶対に無視できないものであって、気にしないようにと思えば思う程に痛みは激痛となっていつまでもつきまとう。
いつまで経っても、安寧は訪れてはくれない。
俺は、飛芽がそんな奴のようになって欲しくはないと願っているから。
飛芽の右手をぐいっと回した。俺と飛芽が正面で向き合う。
「おまえは・・・・・・」
言いたくない。
でも言わないと。
「おまえは誰にでも優しい――いい奴なんだな」
「――っ!」
一瞬振り向いて俺を見た飛芽の顔は、悔しそうに歪んでいた。
――パンッ!
飛芽は掴まれていた自分の右腕を振り払い、俺の左頬を打ち抜いた。
頭が吹き飛んでしまいそうな感覚だった。自分がなにをされたのか理解し始めた頃になってようやく左頬が熱を感じ始めた。予想できていた事態ではあるものの、想像以上の痛みが俺の左頬と心に響く。
段々と治まっていく痛み。しかし心には未だ激痛が走り回る。
「――はぁっはぁ。そうやって自分を捨てようとするあんたが、一番ムカつく」
走ったわけでもないのに呼吸を乱した飛芽は、そう吐き捨てると植物会がある実験室とは逆の方向へと歩いて行った。
「……あーあはは、七種さぁ」
痛みの残る左頬を押さえながら声のした方を向く。
「怒られちゃった私も悪いんだけど、飛芽はあんたの為にあれだけ怒ったんだろ? それなのにあんたは全然わかっちゃいなかったんだな。そりゃ飛芽もキレるって」
そう言い残し、関口は教室へと戻っていった。
一人孤独に立ち尽くす。人通りが多くなり騒然とし始めた廊下。飛芽がいなくなってしまったこの場所はひどくうるさくて、耳を塞いで座り込んでしまいたかった。
俺の描いたシナリオ通りだ。短くてどうしようもなく馬鹿みたいなシナリオだけど、それこそ俺の思うがままに飛芽は動いてくれた。関口もあまり頭が回らない奴みたいだから上手い具合で勘違いしてくれた。これで飛芽と関口の仲が険悪な状態になってしまう事態は避けられたのだろう。
「はぁ、なんで俺がどうでもいいクラスメイトの事なんて考えてんだろうな……」
「や、やっぱり?」
「うぉっ?」
後ろを見ると、未だに俺の袖を掴んでいた楠が上目使いでこちらを見ていた。




