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雑草の選ぶ道  作者: 甲野香介
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追憶と重なる未来―3

 俺と飛芽の通っていた小学校の教室には花が生けられていた。

 あの花の名前なんてこの時は全く知らなかったし、興味もなかった。教室の後ろの棚にぼんやりと佇んでいた花の名前がアスターという名前だと知ったのも、飛芽に教えて貰ったついさっきの話だ。

 教室に生けられていた花の色は飛芽に見せてもらったものよりももう少し明るかったと思う。

 透明に透き通った細長い花瓶には、同じくらいに透き通った水が八分目くらいまで入っていて、緑の茎を存分に湿らせていた。薄紫色の花弁をクラスメイト達は気味悪がっていたが、俺は特にそう感じる事もなく、教室の後ろに目を向けてもその花が教室の一部にしか見えなくて、ただそれだけの存在だった。

 しかしアスターの花が、それだけの――ではなく記憶に焼きつく程の大きな存在になってしまったのは、とある日の教室での出来事が原因だった。


「きゃ――」


 短い悲鳴とガラスの割れる音。

 幼き俺はその音に反応し、自分の席から音の方へと振り向いた。


「あ・・・・・・ど、どうしよう」

「こ、これ・・・・・・落としちゃったの?」

「わわ、私の手が、当たっちゃって……」


 教室の後方に数人の女子が集まっていて、床に落ちた花瓶の破片を見下ろしていた。

 ひと際顔を青ざめさせていたのは、サラサラに梳いてあるおかっぱ頭の女の子。名前は思い出せないが、艶のある黒髪はとても綺麗で、髪を伸ばせばさぞ美しい容姿を手に入れられるであろう事は小学生の俺でも想像に難くなかった。

 その女の子が全身を小鹿のように震えさせていた。

 ――あぁ、やっちゃった。

 他人事だからこそ呟ける言葉。焦り始める女子たちを見て、そんな言葉しか頭に浮かんでこなかった。とても口に出せるような言葉ではない。

 とにかく俺は彼女たちの失態に関わりたくなかったんだ。

 なぜなら・・・・・・。


「あ、あたしの花・・・・・・」


 そう言いながら教室の後方から出てきたのは飛芽だった。髪は今に比べれば随分と短く、肩よりも高い位置にあった。服装もボーイッシュなものを好んでいて、見ようによっては髪の長い少年にも見間違えられていた。

 飛芽は「あたしの花」と確かにそう言っていた気がするが、飛芽の花だったか、と言われると厳密には違う。別に飛芽が買ってきたわけでもないし、最初にその花を教室に飾ったのは担任の先生だったから。

 しかしその花を率先して育てていたのが飛芽だった。誰よりも間違いなくその花に多く触れ、誰よりも間違いなくその花をかわいがっていた。当然誰よりもその花が好きだった。


「ど、どうして……? なんで花瓶が割れてるのっ! せっかく綺麗に咲いてたのに!」


 飛芽の怒号が三人の女子に向かって飛んだ。


「ご、ごめんなさい」


 震えた声で綺麗な黒髪の女の子が謝った。

 続いて周りの女子も謝った。


「わたし達が教室で遊んでて――ちゃんの手が花瓶にぶつかっちゃったらしいんだ。だからわたし達も悪いよ。本当にごめんなさい」

 飛芽に向けて周りの女子が頭を下げていた。その姿勢は遠目から見ていた俺にも反省の色があるように見えていたから、飛芽の怒りも収まるだろうと他人事ながら胸を撫で下ろしていた。

 誰もが一件落着だと安心しきっていたんだと思う。

 だがしかし。


「あたしに謝ってどうするの?」

「え?」


 女子達は――いや、クラスの中にいる誰もが「え?」と思ったに違いない。

 いつも一緒にいた俺でさえ、飛芽の言葉の意味が理解できなかった。

 ――一体飛芽ちゃんはなにを言っているの?

 飛芽の次の言葉で周りにいた誰もが理解する。


「あたしに謝るんじゃなくって、その子に謝って」


 飛芽は言いながら地面に落ちた花を指さしていた。

 薄紫色の、教室に同化していたアスターの花を。


「……う、うぇ」


 花瓶を割ってしまった少女が嗚咽を吐き出し始めた。

 例え小学生でも飛芽が言っている意味を理解していたんだろう。その少女だって、周りの女子だって、自分の席で傍観していた男子だって。

 ――こんな時に冗談を言うわけない。飛芽ちゃんは本気だ。


「うわああぁん! うえっ、えぐっ」


 少女の嗚咽だけが教室の中の音という音を満たした。それ以外にはなにも聞こえなかった。

 だから、俺が椅子を後ろへと跳ね飛ばそうと。

 力んだ足取りで飛芽に近づいていこうと。

 自分の耳にも、多分誰の耳にも届かなかったんだ。


「飛芽ちゃん!」


 関わりたくなかった。けど、飛芽のその言い方はあんまりだと思った。


「そ、そー?」


 突発的に怒りだした俺を見て飛芽は驚いていた。


「そこまで言う必要ないじゃないか。――ちゃんも悪気があってこんな事をしたわけじゃないんだから」

「そ、そんなこと知らないもんっ! あたしの花にひどい事したんだから謝るのは当然だよっ!」

「――ちゃんは飛芽ちゃんに謝ったんだからそれでいいじゃないか! どうして花にまで謝る必要があるの?」

 俺と飛芽は互いの視線をぶつけ合った。

 そういえば、いつも飛芽の後ろを歩いていた俺が初めて飛芽に反抗したのはこの時だったな。

 飛芽が間違えた事をしているのは周りにいたクラスメイトの顔を見れば明らかだった。渦中の人物である飛芽に視線が集まるのは別におかしくはなかったのだが、その目のどれもが、飛芽を非難する、飛芽から遠ざかっていくような目をしていた。

 自分の中の苛立ちと、飛芽が間違いを犯しているという確信が自分の中にあったからこその行動。

 でなければ、俺も飛芽に反抗しようなどとは思いもしなかったかもしれない。


「花だって落ちただけで別に枯れたわけじゃないんだよね? だったら新しい花瓶に移し替えて、それで元通りじゃないか」

「そ、そうだけど……」


 その時の俺を見る飛芽の顔は怯えていた。「飛芽ちゃんもこんな顔をするんだ」と緊迫した状況にも関わらず、俺は飛芽の心境を察するのに頭が一杯になっていたんだ。

 飛芽の事以外に、なにも考えていなかった。


「だ、だって……あたしの、あたしの花が・・・・・・」


 リノリウムの床を濡らした花瓶の中に入っていた透明な水。飛び散ったその中心に割れたガラスの破片と、死体のように横たわるアスターの花。

 飛芽は目尻に涙をため、アスターの花を両手ですくいあげた。

 その小さな手は震えていた。


「かわいそうじゃないっ! そーのバカっ!」


 飛芽は教室を勢いよく飛び出した。


「飛芽ちゃん!」


 扉を開け放つ音が教室中に響き渡り、その後はまたなにも聞こえなくなった。

 少女の泣き声も、もう聞こえていなかった。


「菊川ってさ、ちょっとおかしいよね?」


 沈黙を遮ったその言葉。男だったか女だったかは憶えていない。

 俺はただ、飛芽のいなくなった教室から、飛芽が出て行った扉を見つめていただけだ。


「うん。わたし達なんかよりお花の方が大事なんじゃないかな?」


 また同類の言葉が聞こえた。

 教室中がざわめきだした。誰かの発した言葉が誰かの言葉を呼び、どんどん皆の声が大きくなっていき、それはやがて悪意ある言葉で充満する。


「ヒメって名前だからさぁ、俺らの上に立ってるつもりなんじゃね? お姫様みたいな感じでさぁ」

「あ、それあるかもね。わたし達の事を花以下だって思ってるんだよきっと!」

「花なんてなにがおもしろいんだよ……。見てて飽きるんだよなー」

「ねー。それに菊川さんってなんか男っぽいし、花なんて似合ってないよ」

「花じゃなくて、鼻なんじゃね?」

「あはははっ! おもしろーい。その顔なんか豚さんみたいに見える。菊川さんもさぁ、自分の顔で鼻を押し上げて自分の豚の顔に見惚れてたりするんじゃない?」

「ぎゃはははっ! すげーウケる!」


「…………」

 ――みんな、一体なにを言ってるの?


 さっきまでの緊迫した状況はいつの間にか消え去っていて、飛芽の悪態を元に、クラスメイトたちは弛緩したいつも通りの教室を取り戻そうとしていた。

 ――やばい。こいつらの考えている事が全くわからない。飛芽ちゃんは間違った事をしてしまったのかもしれないけど、それでどうして飛芽ちゃんの悪口を言い出す必要があるの? 鼻って、さっき飛芽ちゃんがやった事となにも関係ないじゃないか・・・・・・。

 頭の中に警鐘が鳴り響いた。危機的状況を知らせる鐘の音は何度も何度も激しく、自分の脳内を叩くようだった。この時ほど気持ち悪い感覚を感じた記憶はない。

 警鐘はやがて声に変った。


『逃げろ』

『ここは危険だ』

『お前の居場所はここじゃない』


 ――逃げなきゃ。


『飛芽はまだ近くにいるはずだ』


 ――ここから、逃げなきゃ!

 でも足が動かなかった。

 この頃の俺らは当たり前だけど精神的に未成熟で、誰かの失態をみんなで咎めてしまう。その圧倒的とも言える純粋な塊を前にして、俺のちっぽけな身体は身動き一つ取れなくなってしまっていた。

 頭の中でいくら逃げろと叫ばれても、体が一ミリたりとも動いてはくれなかった。


「あ、あの……」


 脳内に響いていた声は現実からかけられた声によって聞こえなくなっていた。

 目の前には梳き下ろされたおかっぱ頭があって、前髪のその奥には涙のたまった瞳。

 綺麗な髪を持つ少女。

 下卑た笑い声が散漫した教室内で、その少女と俺だけが笑っていなかった。


「さっきは、ありがと」

「うん」


 少女はそう言った。どんなに少女の声が小さなもので、どんなに周りの雑音がうるさくて、どんなに自分の心臓の音が大きく鳴っていても、確かにそう言っていたのを憶えている。

 でもこの時は頭で理解できていなかった。それもその筈で、飛芽の事で頭が一杯になっていたから。飛芽が泣いていたら、などと考えただけでも心臓が止まりそうにもなっていた。

 そして少女が言葉を紡ぐ。


「七種君」

「うん」


 少女は真っ直ぐな瞳で俺を見ていた。


「菊川さんを、その・・・・・・追いかけて」

「――うん!」


 少女が弱弱しくもはっきりと紡いだ言葉はスッと耳から入り込み、脳に触れた瞬間に理解できた。

 寂し気な表情をする少女に背を向け、一目散に扉を目指した。

 ――ここから逃げなきゃ。そして、飛芽ちゃんのところへ急ぐんだ。

 足がドタドタと、どんなに大きな音をたてようが構わなかった。サッカーをしている自分の足がどれだけ早く走れるのか。足の指先まで血を巡らせ、太ももの筋肉を意識して足を持ち上げ、力強く地を蹴った。

 風になった自分をイメージし、長い廊下を全力で走った。

 ――飛芽ちゃん、待ってて。

 飛芽が幾度も俺をバカ呼ばわりしようと、クラスメイト達からどんなに貶されようと、花を愛しすぎてどれだけ周りが見えなくなってしまおうと。

 そんなもの全てが、どうでもよくなっていた。


「待ってて!」


――僕の居場所は、飛芽ちゃんの隣だから。


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