38.美容師~父との記憶を思い出す
【気になります!】が発動し、マッドウルフの右手が爪を煌めかせて迫ってくるのに気がついた。
マズイ。
武器が……武器さえあれば……無意識なのか何かに呼ばれたのか、僕の右手はすばやくシザーケースの蓋を開け7号シザーを抜き出していた。
何万回、いや何百万回もこの動作をしてきたんだ。
見なくても感覚でどこにあるのかはわかった。
親指と薬指、それぞれ二本の指は定位置のリングに通っている。
刃を開いて根本でマッドウルフの右手首を受けとめていた。
顔に触れる寸前だった爪を渾身の力で押し返し、このまま手首を切ってやろうと指に力を込めるが、ほんの少し食い込んだところで止まってしまった。
ダメか。
これでお互いに膠着状態に陥ったわけだけど……木に刺さった左手の爪が外れたら僕の負けは決定的になる。
切れろ!
切れろ!!
切れろ!!!
念じて指にかける力を増していく……力を今だけでいいから力が欲しい。
神様ではなく、女神様に祈った。
僕が知っているのは、リリエンデール様だけだから――その瞬間、腰の辺りから青い光が走った。
リィィィン、と頭の中で音がした。
そして声が。
【???よりシザー7への足りない経験値の譲渡を開始……80……90……95……100%――女神リリエンデールの加護により、シザー7の覚醒を開始します……】
右手の7号シザーにぼんやりと淡い緑色の光が灯った。
なんだ?
何が起こっている?
起きている現象はわからないが、シザーを持つ指が動いたのがわかった。
ギリギリと均衡していたシザーの刃がほんの少し、マッドウルフの腕に食い込んだ。
だが、そこから先に進まなくなる。
切りきれない。
まだ力が足りないのか……力?
シザーの開閉に力が必要なんだっけ?
ふと浮かんだ疑問が、一つの情景を呼び起こした。
ーーーー
あれはまだ僕が小学1年生だった頃の記憶……父親の真似をして、お店の隅で文房具のハサミを使ってウィッグの髪の毛を切って遊んでいた時だ。
見よう見まねだから髪の毛の分け取り方や扱い方なんてまるでわからず、手の平で髪の毛束を掴んではハサミで切っていたが、どうにもうまくいかなくて癇癪を起こす寸前だった時、父親がやってきて言ったんだ。
「おっ、ソーヤ。カットの練習か? 感心感心」
「うん、ぼく、早く上手に切れるようになって、お父さんとお母さんを手伝いたいんだ!」
「そうか。だったらソーヤ。そんな文房具のハサミじゃなくて、父さんのハサミを使ってみるか?」
「いいのっ!?」
いつもは危ないから両親の仕事道具には触ってはいけないと、きつく言われていたから驚いた。
「ああ、いいぞ。でも、父さんが一緒にいる時だけな。一人で勝手に触っちゃダメだぞ」
「うん! わかってる。一人じゃ触らないよ。お父さんがいる時だけだね」
「よし、じゃあ右手を開いて出してみろ。親指と薬指をこうしてだな……どうだ? 結構重いだろ?」
「うん、重いね。落ちちゃいそう」
子供用の文房具のハサミとは違い三倍近い大きさでずっしりしていて、常に力を入れていないと落としてしまいそうになる。
「落とすなよ。いいか、切ってみろ」
言われた通り髪の毛を切ると、まるで感触が違った。
シャクシャクと良い音をたて、触れた髪の毛がパラパラと宙を落ちていく。
「すごい! すごく切れるね」
でも、興奮している僕に父親が苦笑混じりに言ったんだ。
「ソーヤ、確かにそれでも切れてはいるけどな。そうじゃない」
「え? 僕うまく切れてるよ。お父さんみたいに切れてるもん」
そうじゃないと言われても、何が違うのかさっぱりだ。
「そうだなぁ、なら、これを切ってみろ」
父親が髪の毛束を集めて、僕の前に差し出したので、僕はハサミを大きく開き、力いっぱい閉じたが、少しだけ切れた所で、毛束が捻れて切れなくなった。
「どうしてこうなっちゃうんだろう?」
文房具のハサミを使っている時もこうだった。
纏めて切ろうとすると、うまく切れないで止まってしまうんだ。
「ほらな、切れないだろう」
「うん、力が弱いからかなぁ」
子供の僕では毛の束を押し切るには力が足りないのだと思った。
大人になれば力も強くなって、簡単に押し切れるようになるのかと。
でも、父親は笑いながら首を振った。
「いいかい、ソーヤ。普通のハサミと父さんや母さんが使うハサミはちょっと違うんだ。
父さん達が使うハサミはな、シザーって言うんだぞ」
「シザー?」
「そうだ。それでな、ソーヤ達が使うハサミはそうやって力を入れて押して切ってもいい。でも父さん達のシザーはそうじゃないんだ。なんというか、刃の作りが違うんだ。
料理人が使う包丁や、お侍さんが持つ日本刀みたいな感じ……って言ってもわからないだろうけどな」
「ふーん」
正直、父親の言っていることはわからなかった。
そんな不満が表情に出ていたのか、
「いいか」
父親はシザーを持った僕の手に自分の右手を重ねるように包み込んで持ち、左手で髪の毛束が開いた刃の間にくるようにした。
「シザーを開閉するのに力はいらない。優しく持ってこうするんだ……」
ーーーー
「……うん。そうだったね、父さん。
今ならわかるよ、僕は……数えきれないくらいにそれをおこなってきたんだから」
呟いて、右手の力を一度抜き、マッドウルフが押し込んできた瞬間を狙った。
『……シザーは、引きながら切る!』




