37.美容師~マッドウルフと戦闘になる
木の影からノソリと出てきたのは、1匹のマッドウルフ。
灰色ではなく、青黒い毛を持ち、体長は2メートル程。
目は爛々と赤く光っている。
「ガァァァ」
一吠えされただけで、普通種の狼との差を理解できた。
こいつには理性がない。
魔物だから当たり前かもしれないけれど、食べたいだけではなく、ただ目の前の生き物を殺したい。
そんな感情が込められているのだ。
「メェちゃん、僕のそばから離れないでね!」
背後に庇い、短剣を抜いて構えた。
逃げても確実に追いつかれるだろう。
メェちゃんだけを逃がしても、脇を通り抜けられたらその方が危ない。
まだ近くで守る方がいい。
いざとなれば、自分の体を盾にすればいいのだから。
メェちゃんを背中に隠し、マッドウルフの動きに集中するが、短剣を握る手が汗でべとつく。
爪か牙か、どっちで来る?
かわすのではなく捌くなら両手に武器を持った方がいい……右手でナイフを抜く為に左手に持ち替えようとしたその瞬間を狙われた。
一瞬で距離を詰められ、前足が勢いよく振るわれる。
とっさの判断で迎撃を無理だと諦め、メェちゃんを体ごと抱えて地面に身を投げ出した。
マッドウルフの爪が防具を引き裂き、左肩から背中にかけて3本熱が走った。
歯を食いしばって痛みを堪え、転がる勢いを利用してすぐに立ち上がるが、左腕が痺れてうまく動かない。
かすっただけで、これか。
「メェちゃん、大丈夫?」
「う、うん」
マッドウルフは爪に引っ掛かった革の切れ端を振り落とし、再度飛び掛かろうと距離を詰めてきた。
ダメだ。
背中に庇っていると、マッドウルフの攻撃を躱せない。
このままではジリ貧だ。
何かないか……考えている内にマッドウルフが動いた。
今度は体ごと突っ込んできて、大きな口で噛み付くつもりのようだ。
あまりの恐怖にか、メェちゃんが後ろに下がりすぎていて手が届かない。
ということは避けられないわけだ。
僕は右手で短剣を構えて突き出したが、口の中を狙われたことに気がついたのか、マッドウルフは直前で進路を変えて、また距離を取った。
口の中を短剣で切り裂いてやろうと思ったのに、ずいぶんと勘が鋭い。
スキル《集中》と《剣術》を意識して狙っていたのだが失敗してしまった。
これで警戒されたのか、重心は下がり気味に爪での攻撃ばかりを繰り返してくるようになった。
隙を見てナイフを抜いたので、両手の武器でなんとか弾いているが、スキル《回転》がなければとっくにやられていただろう。
改造してくれたグラリスさんには感謝だ。
メェちゃんには僕から1歩離れた位の距離をキープしてもらうよう頼んだ。
近すぎても危ないし、遠すぎるととっさに庇えない恐れがあるからだ。
ただ、どこかで勝負をかけないと僕の体力が持ちそうにない。
それに肩と背中の傷の影響か、だんだんと左腕が痺れて力が入らなくなってきたんだ。
いっそ、こっちから仕掛けるか。
マッドウルフの攻撃がだいぶ読めてきた。
3度攻撃すると、後ろに下がって距離を取る癖があるようだ。
そのタイミングを狙ってみよう。
1、2、3回目の攻撃を外側に《回転》で弾くと同時に飛び出した。
虚をつかれたのか、マッドウルフが数秒動きを止めた。
その数秒で十分だった。
僕は右手の短剣を涎だらけの口元目がけて突き出した。
もちろん、指先で持ち手を回転させるのも忘れない。
短剣はマッドウルフの牙を掠めながら進み、腕ごと喉の奥に突き刺さった。
ビクンと、一度大きく痙攣しマッドウルフの体から力が抜けた。
勢いよく突き刺しすぎたのか、短剣が抜けないので、そのままにして腕を抜いた時、《気配察知》スキルが最大限で、【気になります!】の警報を鳴らした。
振り返った僕の目には、メェーちゃんに飛び掛かろうとするもう1匹のマッドウルフの姿。
間に合え!
狙いもいい加減に投げたナイフでも脅威と写ったのか、マッドウルフはナイフを躱す為に大きく体制を崩してメェーちゃんから離れた。
すぐさま駆け寄り、背後に庇う。
なんとか間に合ったのはいいけれど……これで手持ちの武器は零だ。
絶望的ともいえる状況。
これは……詰んだかな……。
グラリスさんに預けている短剣さえあれば。
予備の武器の大事さがわかった。
スキル《気配察知》を強く意識させる……周囲に他の魔物はいないみたいだ。
なんとかあいつを押さえている内に、メェちゃんだけでも逃がそう。
「メェちゃん、泉の方角はわかる? 斜め左に真っ直ぐだよ。
そっちに行けば人がいるから、僕が走って! って言ったら走るんだよ。いいね?」
「お兄ちゃんはどうするの?」
「僕はこの魔物と戦うから。メェちゃんは向こうにいる人に知らせて」
「やだよぉ……一人じゃいけないよ……お兄ちゃんも一緒に行こう」
こんな薄暗い森の中を一人で逃げろと言っても無理か。
まだ小さな子供だし。
けれどこのまま守りながら、しかも武器無しでマッドウルフを倒せるか?
どう説得するか悩んでいる暇など与えてくれなそうだ。
マッドウルフはジリジリとこちらに近づき、一気に飛び掛かってきた。
右手でメェちゃんの腕を引き、左手の黒曜の籠手で爪を受け流した。
さすがに黒曜の籠手は革製の物とは違い、破損することなくマッドウルフの爪を弾いてくれた。
籠手でうまく爪を捌きながら泉の方角に後退する。
時々それに失敗して爪が掠りそうになるが、致命傷だけは避けていた。
どこかで一瞬でも足止めができないか?
大きな木を背にして顔目掛けて振るわれた爪を躱すと、爪が木に引っ掛かり抜けなくなったようだ。
今しかない!
「メェちゃん、走って!」
左手の爪が抜けずに苛ついたマッドウルフが噛み付いてくるのを、籠手を噛ませて受け止めた。
「早く! 急いで!」
なかなか走り出そうとしないので背後を見ると、座り込んでいて動けそうもないみたい。
「無理、無理だよ……」
黒曜の籠手に噛み付いたマッドウルフの顔が、笑ったように歪んだのがわかった。




