284.美容師~フィクスの誘惑に耐える
「ふむふむ。では、わたしがひとつ教えてあげようか。
この神殿の女神様は確か序列七位のリリエンデールだねぇ。司る権能は『才能と好奇心』だったかな」
「序列七位、ですか?」
「そうそう。確か長いこと七位、つまり万年最下位の女神様ということなんだけどねぇ。まさかここで聖水が手に入るとは」
ついてるついてる、とフィクスさんは喜んでいるようだ。
序列七位の女神様の神殿だと、通常は聖水が手に入らないということなのだろうか?
それについて質問するかどうか悩んでいると、悪戯を思いついたかのようにフィクスさんが耳元でささやいてきた。
「そんなに気になるのなら、いっそのこと洗礼を受けてみたらどうだい? 信者になれば運が良いと『祝福』を貰えるかもしれないよ?」
くくく、と笑うフィクスさんの意図がわからず、冷静に質問を返す僕。
「洗礼を受ければ信者になれるのですか?」
「ああ、そうだよ。っていうか……もしかして、知らないのかい?」
「はい、知りませんでした」
「ふーん、そうなのかい。そういえば、ソーヤ君はどの女神様の信者なんだい?」
「えーと……そもそも、その信者というシステム? というか、よくわからないので教えてください」
話がうまくかみ合わないのを感じて、正直に打ち明けてみることにした。
「ん? んんっ? もしかして、ソーヤ君はどの女神様の信者でもないとか?」
「ええ、もし洗礼を受けないと信者になれないのであれば、僕はどの女神様の信者でもないと思います」
たぶん、きっと、と小声で付け加えてフィクスさんに、どうなんでしょう? と尋ねた。
「おやまぁ……珍しい人がいたもんだよ。成人したときに両親から聞かなかった? もしくは、両親も女神様の信者ではなかったのかい?」
「んー、両親からは聞いていないですね。それに……僕が住んでいた場所では、神殿で洗礼を受けるという決まりはなかったというか……信者という言葉も聞かなかったですし。つまり、よくわかりません」
言葉を口から出せば出すほどに、つじつまが合わなくなるような気がして、最終的にはよくわかりません、で逃げ切ることにした。
「ソーヤ君の住んでいた街だか村には神殿がなかったのかい?」
「はい、なかったと思います」
お寺や教会ならあったけれど、それは言えない流れだし、この世界の女神様の神殿は僕が生まれ育った所にはなかったと思うし、嘘ではないと自らに言い聞かせた。
「全ての街や村に神殿はあるものなんですか?」
「全て、とはわたしも断言できないけれど、どんな小さな村にも神殿はなくても、簡易的な女神様を祭る祠くらいはあるはずなんだけどねぇ。
その村になくても、近くの大き目な村にはあるはずだし、ソーヤ君はそんなに辺鄙な所に住んでいたのかい? いったいどこの出身なんだい?」
探るような眼で見つめられて、マリーやみんなに話して聞かせた、この世界に来てからの自分の設定を思い出す。
「えーと、この街を出て、ずっとあっちの方です」
右手の人差し指を門の方角へ向けた。
確か、門を出てずっと真っすぐ歩いてきたと説明したはずだ。
だと思うけれど、正直あまり、いやほとんど覚えていない。
「この先っていうと確か……何かあったかい? 街も村も何もない荒野があるだけな気がするんだけどねぇ。その先は海だったような気がするし」
「そうですね。その認識で間違いないかと。ただ、そこら辺はあまり聞いてほしくないというか――」
「っていうことは、何かい? ソーヤ君は海を渡ってこの大陸にやってきたとか?」
ヤバい、思いのほかフィクスさんがぐいぐいと突っ込んでくる。
聞いてほしくないアピールをしたのに、まるっきり無視をされているし。
仕方がないので、無言で微笑むことで回避を試みた。
試みたのだけれど、フィクスさんも微笑みを浮かべ、顔の横に流れ落ちる毛束を掴むなり、
「触るかい?」
僕に対しては最も効果的な、悪魔のような誘惑をしてくる始末。
「ぐっ、ぐぐぐ」
「あー、最近髪の毛の毛先が痛んできたなぁー。そろそろ切り揃えたいところなんだけど、誰か切ってくれる人はいないものかなぁー」
『是非僕が!』
そう叫んで手を伸ばしたいところだけど、ここでその髪の毛に触れてしまえば、たぶん僕はフィクスさんの髪の毛から手を離せなくなるし、同時に冷静な思考を失うだろう。
そうなれば、夢うつつの状態で会話を誘導されて、洗いざらい根掘り葉掘り全てを聞きとりされそうで……さすがに怖くて動けない。
もし僕の秘密を聞いたとしてもフィクスさんは決して誰かに言いふらすような人ではないと思うけれど、僕には言えないことがありすぎる。
久しぶりに、しかも極上の髪の毛に触れてしまえば、僕は理性を失い、この世界とは別の世界から来たこと、それにリリエンデール様のことまで話してしまいそうだから。
だとすれば、なけなしの力を振り絞ってでも、ここは抵抗しなくてはならない。
握った手のひらの中では自らの爪で刺し、唇を噛み締め、痛みを持ってして対抗するのだ。
そして……僕はなんとか勝ちを拾った。
いや、負けていないだけだとも言える。
苦笑を浮かべたフィクスさんが、僕の目の前で揺らしていた髪の毛を後頭部に払い、視界から消し去ってくれたのだ。
しかも、自分から話題を変えてくれた。
ただ、
「ソーヤ君、わたしが悪かったから。だからとりあえず、この布で口元を拭おうか。
血だらけで見ているこっちの方がなんとも言えない気持ちになるから。シスターが戻ってくる前に、頼むから早くね」
そう言って、真っ白な布を手渡してくれたんだ。




