269.美容師~勧誘される
腕の中のジストは眠っているようだ。
トクトクと心臓の鼓動が触れている部分から伝わり、クークーと規則正しい寝息が聞こえる。
なんだか疲れたな。
ここまで走り続けてきた疲労が一気に襲ってきたし、精神的にも限界を迎えようとしていた。
もしここにベッドと布団があれば、数秒で熟睡する自信がある。
横になりたくなる衝動を抑え立ち上がろうと、片手でジストを抱え直し、空いた手で地面に手を付いた。
すると、横から乱暴な声が僕にかかる。
「おい、お前。よくも吾輩をこんな目にあわせてくれたな」
そこには、右腕を左手で押さえる小太りな男。
「時期マキシード家の跡取りである吾輩に怪我を負わせ、しかも吾輩の従者を二人も殺害した。これはお前の首一つではとてもじゃないが償い切れない罪だ。いったい、どう責任を取るつもりなんだ?
おい! 吾輩の話を聞いているのか? 下賤な平民の分際で……高貴な吾輩の言葉にさっさと答えんか!?」
男が足を踏み鳴らしながら苛立たしく叫ぶのを、僕はぼんやりとした頭で眺めた。
ナイフで斬られて右腕から流れていた血は止まっているようだ。
ああ、貴族の息子だと言っていたし、回復薬くらい持っているよな。
失敗した。
コルラの持ち物だけじゃなく、この男の持ち物も探っていれば上級回復薬とかあったかも。
なんて関係のないことを考えていると、
「ちっ、まぁいい。従者は新しい奴を雇えばいいし、今回はそいつを大人しく渡せば多少罪を軽くしてやらんこともない」
男の手が伸びてきて腕の中のジストに触れようとした。
瞬間、僕はその手を振り払い、すばやく立ち上がると男の腹を蹴り飛ばした。
「ぐぇぇ」
男はくの字になってふっ飛び、尻から地面に落ちた。
気持ちよさそうに眠るジストを起こしたくなかったので、優しく蹴りすぎたようだ。
もしくはBランク冒険者だと名乗っていた通り、それなりに実力があり強いのかもしれない。
蹴られた腹を抑えながらも瞬時に立ちあがり、男は腰から剣を抜いて僕にその切っ先を向けてきた。
「よくも……よくも吾輩を蹴りおったな。もう許しておけん。吾輩自ら斬り刻んでやる!
その奇妙な生き物も、もういらんわ! 一緒に殺してやるから安心しろ!!」
殺す?
誰を?
僕を?
……ジストを?
僕の中で黒いナニカが|蠢≪うごめい≫ているのがわかった。
そもそも、どうしてこうなった?
どうしてジストが攫われた?
ナイフで斬られ、死にそうな目にあった?
僕はその答えを知っている。
全てこいつのせいだ。
目の前で僕に剣を向けている、この男のせい。
それだけでも許せないのに、今こいつはなんて言った?
斬り刻んで僕を殺してやる?
しかも、ジストのことも殺す?
ああ、ダメだ。
僕はもうこれ以上我慢できる自信がない。
胸の奥でグルグルと渦を巻く、この黒い感情を抑えることはできない。
視線を感じふと目を向けると、視界の隅に僕を見つめる二つの瞳と目があった。
血だまりの地面に転がるコルラの首だ。
血と涙で張り付いた髪の毛の隙間から除く瞳。
思えば、コルラだって被害者だ。
この男に命令されてジストを攫い、友を失い自らの命も失うことになった。
直接首を斬った僕に責任がないとは言わないが、この男にも責任の一端はあるはずだ。
『この男を殺して』
動くはずのない唇が、言葉を紡いだ気がした。
『一人殺すのも二人殺すのも、三人殺すのも同じでしょ?』
淡々としたコルラの口調が僕の頭に響いてくる。
ああ、そうだね。
一人殺すのも二人殺すのもそう変わらないと思う。
三人目は……わからないけれど、きっと同じなんだろうね。
どうせ僕の手は汚れてしまった。
髪の毛を編み、結い、髪の毛を切る為の手で人を斬ってしまった。
このまま目の前の男を生かしておいたら、またジストを狙うかもしれない。
もしくは僕だけじゃなく、マリーをも狙う可能性がある。
ならば、殺そう。
殺してしまおう。
そうしてしまえば、何もできなくなる。
恐れる必要はなくなる。
死者は、生きている者には手は出せないから。
そうしよう。
そうするべきだ。
『そう。それがいい』
頭の中でコルラの声が繰り返す。
僕はローブを脱いで、その上にそっとジストを下ろすと、放り投げたままにしていた弧影を掴みあげた。
剣先にはべったりと血が付着していた。
コルラの血だ。
軽く振って血を飛ばそうとしたが、時間が経って固まってしまったのか思うように取れなかった。
まぁ、いい。
どうせまた汚れるんだし。
男に目を向けてゆっくりと近づく。
「なんだ? やる気になったのか? いいのか? 吾輩はBランクの剣士だぞ? お前ごときが相手になるとでも思っているのか? 今なら泣いて土下座して謝れば、命くらいは助けてやってもいいんだぞ?」
内容と偉そうな口調のわりには、男はジリジリと後ろに下がっていくので不思議だ。
「そうだ! 我輩に名案があるぞ!! お前はそこそこ腕がたつようだし、吾輩の従者にしてやってもいいぞ?
そのかわり、その奇妙な生き物は吾輩のコレクションにするから差し出すのが条件だがな。
ん、どうだ? お前にとっても悪くない話だろ?」
男は本気で名案だとでも思っているのか、よっぽど自分の言葉に自信があるのか、剣を手に歩み寄る僕を警戒することなく話しかけてくる。
僕はというと、男の提案にまったく心が動くことはなく、逆に今さら何を言い出すのかと、面白すぎて笑顔になってしまう。
僕の微笑みを見て、僕が勧誘に了承したとでも思ったのか、男が偉そうに言葉を重ねてきた。
「ああ、あともう一つ。あの女を呼び出してこい。特別に吾輩が遊んでやろう。
なに、もし子種が宿れば高貴な吾輩の子供を産めるのだ。泣いて喜ぶだろな。
ほら、わかったらさっさと行ってこい。吾輩は待たされるのは嫌いだ。可能な限り急げよ」
うん、殺そう。
確実に殺そう。
右手に握った弧影に力が入る。
男は僕が歩みを止めないにも関わらず、何故だか頷きながら剣を鞘に戻した。
このまま自分の横を通りすぎて、僕がマリーを連れに行くとでも?
本当に馬鹿だな。
僕は一言だって、従者になるなんて言っていないのに。
まぁ、いいか。
このまま勘違いしておいてもらおう。
『早く、早く斬って』
うん、わかっている。
すぐにそっちに向かわせるよ。
コルラの声に心の中で返事をして、目の前の男に目を向けた。
そして、口に出さずに言葉を重ねる。
さようなら、次に会う時は地獄かもしれないね。
僕は笑顔のままで、弧影を振り上げた。




