264.美容師~選び出す
だからあとは――
あなたが選びなさい。
リリエンデール様が僕の頬を両手で挟んでパンと叩いた。
力強くはないが、その衝撃は僕の心にまで響いた。
頭の先から手足の先まで、痺れるような刺激が走った。
おかげで目が覚めた。
手の甲で涙を拭い、鼻をすすった。
ふぅ、と大きく息を吐き、リリエンデール様に向けて頷いた。
シザ―ケースからシガーを一本抜き取り、ジッポで火をつける。
煙を肺いっぱいに吸い込んでゆっくりと吐き出した。
ミントの香りが、グチャグチャだった頭の中をすっきりと洗い流していく。
大丈夫、落ち着いた。
時間はないが焦る必要はない。
悩んで、探して、考えなさい、とリリエンデール様が言った。
ならば、僕はそうすればいい。
そうしている時間は、リリエンデール様がなんとかしてくれるはずだ。
僕は安心して任せればいい。
僕は、僕にしかできないことを。
リリエンデール様に頼んで、この世界に持ち込んできた僕の私物を全て出してもらう。
とはいっても、たいしたものはない。
僕が死んでしまったあの時、カットワゴンと共にあったものだけ。
目だって真新しいものはない。
予備のコームにブラシ、数種類のピン、シザーの手入れ用のオイル、エクステの時に使用する紙管に巻き付けられたゴム。
あとは、確かこの辺に何枚かあったはずだ。
ゴソゴソと引き出しの中をひっくり返し、目当てのものを見つけた。
手を切った時に使う用のバンドエイドだ。
他にもバンソウコウ、キズバンド、と種類によって呼び方は色々あるが、僕はなんでもまとめてバンドエイドと呼んでいた。
これには確かに傷を塞ぐという意味がある。
傷を保護して出血を止めるという役割がある。
だとすれば、僕が選ぶべきはこれなのか?
手に取って考える。
でも……僕の中では違うという想いが。
切り傷程度であれば、これでもいい。
これを選ぶことで間違いではない。
正しいと思えた。
ただ、ジストにつけられた傷。
ナイフを深く刺されたあの出血。
あれをバンドエイドで癒すことは無理だと思えてしまう。
僕自身がそう思ってしまう。
ならば、コレを選ぶべきではない。
リリエンデール様から力を与えられるモノはこれではない。
だとしたら……僕は悩み、考え、探し求める。
僕が選ぶべきモノを思い浮かべる。
自然と、右手がシザ―ケースに触れていた。
指先が冷たい青の縁をなぞる様に撫でていた。
ふいに、僕の中に記憶がよみがえる。
あれは、僕がまだ小さな頃のこと。
父親も生きていて、母親も生きていた。
お店のバックルームから顔だけを覗かせて、両親の働く姿を眺めていた頃の記憶だ。
母親はいつも楽しそうにシザーを振るっていた。
踊るようにシザーを動かし、鼻歌交じりに呟いていた。
『よくなれーよくなれー』と。
『痛んだところはチョキチョキしましょー。かわりにこのコは元気になーれ』
その手には、いつも小さなシザーが握られていた。
そしてソレは今、僕のシザ―ケースに収まっている。
コレか。
僕はシザーケースの蓋を開け、トリミングシザーを抜き取った。
『このシザーでね、傷んだ部分を切り取るの。そうすると他の毛達に栄養が行き渡って……活性化させる、って言っても、ソーヤにはまだわからないかな。
うーん、わかりやすく言うとね、このシザーは髪の毛のお医者さんみたいなものかしら。病気や怪我をした部分をチョキチョキすると元気になって良くなるのよ。うん、これね。そんな感じ』
お母さんはいつも歌いながら何をしているの? と聞いた僕に母親が言ったセリフだ。
なんでハサミで切ると元気になるの? と聞く僕に、
『細かいことはなんだっていーじゃない。とにかく元気になるのよ。良くなるの。
このシザーとお母さんがいれば、どんな傷んだ髪の毛だって綺麗に治しちゃうんだから』
『だから大丈夫。このシザーに任せなさい』
聴こえるはずのない、母親の声が聴こえた気がした。
僕はそれで確信する。
「ありがとう、かあさん」
呟いて、リリエンデール様に右手を突き出した。
「リリエンデール様、ストックしてある、ありったけの才能の力をこいつに注いでください!」
「ほんとうにコレでいいのね? このコで間違っていないのね?」
くどいくらいにリリエンデール様が確認してきたが、ボクは自信を持ってこう返した。
「はい、こいつで間違いないです。こいつなら僕の望みを叶えられるはずです。ジストの傷を癒すことができるはずなんです。だから――」
僕が続けようとした言葉を遮り、
「わかったわ。あとはわたしに任せて」
リリエンデール様が僕の手からトリミングシザーを受け取り、目を閉じて指先をあてた。
そして、トリミングシザーの形をなぞる様に指先で円を描きながら動かした。
僕はその光景を黙って見つめる。
数秒、数十秒、1分が経とうとした時、リリエンデール様が目を開けた。
でも、光もしなければ、あの例のコエも聴こえない。
ダメだったのか?
失敗したのか?
僕が選ぶべきだったのは、こいつじゃなかったのか?
頭の中を否定的な言葉が駆け巡る。
それを肯定するかのように、リリエンデール様の口から耳にしたくない類の言葉が発せられた。
「やっぱりダメね。足りないわ」




