153.閑話 マリー~安堵の涙を流す
足の上で握りしめた手の平に、ポタリと温かな感触。
頬の上を何かが流れ落ちていく。
指先で触れると濡れていた。
両掌で顔を覆うと、指先にコツンとしたあたりが。
前髪を留めていたピンク色に輝くクリップ。
ソーヤさんが長い前髪を留めるように、わたしに貸してくれたものだ。
行商に出ている父親が帰ってきたら返すと約束していたもの。
本当は、すでに父親はニムルの街に帰ってきている。
伸びた前髪を切ってやろうと何度も言われたが、その度に断っていた。
前髪を切れば、このクリップを返さなければいけないから。
これを返してしまえば、ソーヤさんとの少ない繋がりがひとつ無くなってしまうから。
震える指でクリップを掴んだ。
サラリと前髪が落ちてきてわたしの目を隠し、視界が薄暗くなった。
ぎゅっと握った手の平の中で、クリップが痛みを与えてくる。
『その前髪、似合っているよ』と笑顔を浮かべるソーヤさんに会いたいな。
でも、もう会えないのかな。
俯くと前髪が濡れて顔に張り付いてきた。
喉の奥から這い上がってくるものを押し込めようとするが、噛み締めた唇の隙間から嗚咽が漏れてしまう。
我慢なんてする必要はあるのかな?
そんな疑問が浮かび、何もかもがどうでもよく思えてしまう。
大声で泣きたいのなら泣けばいいじゃない。
叫びたいのらな叫べばいいじゃない。
全てを解き放とうと自分を諦めかけたが、そんなわたしに『待った!』をかける小さなわたしが現れた。
「詳しく説明しろ!」
焦ったキンバリーさんに怒鳴られた、門に詰めていた男の人。
彼はなんて言ったっけ?
確かこう言ったはずだ。
『緊急依頼に出ていた冒険者達が戻ってきました。土蜘蛛だけではなく、女郎蜘蛛が出たそうです!』
こうだ。
『土蜘蛛だけではなく、女郎蜘蛛が出たそうです!』
わたしはこの言葉だけに囚われていたが、彼はその前にこう言っていたじゃないか。
『緊急依頼に出ていた冒険者達が戻ってきました』って。
少なくとも誰かは戻ってきているんだ。
『冒険者』ではなく『冒険者達』、この言葉の違いも重要だ。
一人ではなく複数。
ということは、ソーヤさんがその中に含まれている可能性は高い。
あの中では一番レベルは低いけれど、能力的には誰よりも高いかもしれない。
冒険者になりたての頃からずっと見てきたわたしだからこそわかる。
他には類を見ないたくさんの変わったスキル。
あのスキルの数だけでも、生き残っている可能性は高いと思える。
そうよ、マリー。
ソーヤさんが死んだと決まったわけじゃない。
こんな所で泣いているくらいなら確かめればいい。
待っていないで走って、自分の目で見るんだ。
泣くのはそれからでも遅くはない。
力の入らない足を拳で叩いてでも立ち上がろうとしていると、キンバリーさんの怒鳴り声がギルドの部屋中に響いた。
「どうしてそれを最初に言わない!! 余計な心配をかけさせるな、馬鹿者が!!!」
その場にいる誰もが心臓を鷲掴みされたようになり、動きを止めた。
無理もないだろう。
普段は割と温厚で滅多に怒ることのないキンバリーさんが、元Cランクの威圧を撒き散らしながら怒鳴ったんだ。
報告をしていた男の人は、わたしと同じように床に崩れ落ちてしまい、至近距離で怒鳴り声を浴びせられたわたしは逆に立ちあがり、直立不動の態勢を取っていた。
あまりの驚きと恐怖で、体が勝手に反応したのだ。
力の入らなかった足はまだ震えてはいるが、無理矢理に意思を込めれば動きそうだ。
あのキンバリーさんがこんなにも感情をむき出しにして怒鳴るなんて……いったい何があったと言うの?
正直、今のキンバリーさんに近づくのは怖かった。
誰も彼も直視できずに、目を逸らしている冒険者が多いようだ。
そんなキンバリーさんに話しかけるのは、とても勇気がいる。
本来はわたしだって無理だ。
逃げ出す、もしくは黙って視線を逸らし、この空気が過ぎ去るのを待つだろう。
でも今は……わたしの知りたい貴重な情報を持っているのは彼しかいない。
報告していた男の人は、白目をむいて失神してしまっている。
これが元Cランク冒険者の本気の覇気なのだろうか。
動かない足を引きずるように移動させ、わたしはキンバリーさんに声をかけた。
そして、再びその場に崩れ落ちることになる。
今度は安堵の涙を流しながらだ。
涙を流しながら微笑んでいるわたしを見て、つられるようにキンバリーさんも笑ったのが滲んだ視界の中に見えた。
視界の隅では、両手両足を伸ばした状態のまま倒れた男の人がいる。
『女郎蜘蛛が出た』
『ただし無事に討伐し、全員が生きて戻ってきている』
一番大事な情報をきちんと伝えなかった、倒れている男の人はきっと動揺していたのだろう。
ある意味、情報を伝える為に選ばれた被害者なのかもしれない。
でもキンバリーさんが怒鳴るのも無理はないし、わたしだってかわいそうだとは思えない。
どんなに動揺していたとしても、焦っていたとしても一番大事なことは一番最初に伝えるべきだ。
わたしの後悔を返してほしい。
わたしの絶望を返してほしい。
わたしの涙を返してほしい。
わたしの想いを返してほしい……わたしの想い……いや、それはまだ心の奥底にちゃんとある。
ついさっきまでは凍えそうな程冷たかったが、今ではほんのりと温かな熱を発している。
これはあの人にぶつけよう。
だってわたしの想いはわたしだけのものだ。
誰にも奪われることはないし、邪魔はさせない。
まずは薄暗い視界に光を灯そう。
手の平の中で輝くピンク色のクリップで前髪を斜め上に持ち上げる。
初めのうちは難しくて何度もやり直していたが、今では手慣れた動作だ。
手の平で両頬をパンッと叩くと、ジーンとした痺れが頭をすっきりとさせた。
顔を洗って涙のあとを洗い流そう。
彼はこちらに向かっているはずだ。
わたしはわたしの戦いの為の準備を始めなければ。
仕事の時間はもうすぐ終わる。
明日は休みだし、時間はまだまだある。
彼を逃がすつもりはない。
絶対にこの手で捕まえてやるんだから。




