1話.美容師~女神様に呼び出される
「どうしてこうなった……」
呟きながらも手を動かしていく。
頭の中では別のことを考えなら、指だけは慣れたように止まることはない。
つい10分ほど前には、明日オープンを控えた美容室のフロアーにいたはずだ。
やっとの思いで手に入れた、自らがオーナーを勤めるお店。
とは言っても、従業員は自分一人だけで、セット面はたった2つ、シャンプー台が1つの小さな美容室。
明日からのことを考えていたら、緊張と興奮でとても眠れず、12時を大きく回っているにもかかわらず、手慰みのように三つ編みを作ってはほどいてを繰り返していた。
昔からの癖のようなものだ。
緊張したり、考えごとをする時は、知らないうちに髪の毛を触っている。
学生の頃は自分の髪の毛や友人の髪。
美容師になってからは、練習用のウィッグに触れることが多かった。
店で決められたアシスタント時の定期的なテストの前、スタイリストになる為のカット試験の前。
試験を全て終えて今度は教える側の上の立場になり、下の子達の練習を見ている時。
思えばいつもウィッグの髪の毛に触れ、指に巻付けていた記憶がある。
いつものこと……そう、いつものことのはずだった。
一瞬の暗転、目眩を経て意識を取り戻した場所、そして目の前にいた人……人のような姿をした者に、にこやかに話し掛けられるまでは。
僕は今、大きな毛束を持って三つ編みをしている。
細くしっとりとした手触りの髪。
キラキラと輝く薄い緑若の葉のような緑よりも、もっと薄い緑。
職業上、ヘアカラー剤で様々なカラーリングをしてきたけれど、こんな色は見たことはなく、どんな配合をしても決して作り出せないであろう緑。
緑に白を足せば薄い緑になるのはわかる。
けれど、それではこの色を作り出すことはできないのが理解できてしまう。
言わば、緑に銀を足したような彩。
普通に暮らしていれば目にすることのない、目にすることはできない彩。
この彩を緑としか表現できないのがもどかしい。
自分の中に、ふさわしい語彙がないのが悔しい。
仕方がないので、緑と呼ぶことにしよう。
確実に遺憾ではあるが。
では何故、僕がそんな珍しい、いや存在するはずのない色の髪の毛に触れているのかというと、そんな緑の髪を持つ人、いやその持ち主が人ではないからだ。
そう、僕は今、女神の髪の毛に触れている。
緑の髪をした女神様の髪の毛を三つ編みしているわけで……、
「ふーん、ふふーんふーん」
ご機嫌そうな鼻歌が聴こえてきた。
実はさっきからずっと、聴こえている。
考えることが多過ぎて、耳には入っていたが思考に繋がらなかっただけだ。
女神様は終始、楽しそうに、嬉しそうに髪の毛を結われている。
草木の模様が彫刻された木製の茶色いアンティーク調の椅子に座り、目を閉じて歌っている。
僕は毛先まで5センチ位を残して編み終えた毛束を一つにまとめ、軽くねじりながら左手に持ち、ワゴンを右手で引き寄せ、あらかじめ作っておいたゴムを指先でつまみ、手早く毛束の先との境目で結んで留める。
そして、「できましたよ」と声をかけた。
女神様は歌のような音をとめ、目を開けて僕の背よりも高い椅子と同じようなアンティーク調の姿見を見た。
何度か首をひねって確かめるように背中側を見ようとし、「うん」、と頷き立ち上がるとその場でくるっと一回まわった。
膝下丈の水色ワンピースの裾がふわっと持ち上がり、体に少し遅れてついていく。
「いいわね、素敵だわ」
小さく、ふふふと呟き、
「ねぇ、あなたもそう思わない?」
と問いかけてきた。
「ええ、まぁ」
真っすぐにそそがれる視線にうろたえながらも、なんとか答えると、
「うん、いいわね」
再び女神様は鏡の中に目を向け、しばらく色々な角度から自らを確かめ、手を伸ばして腰の辺りまである太い一本の三つ編みを持ち上げると、毛先で自分の頬をなぞってくすぐったそうに笑った。
僕はぼんやりとその光景を眺め、さて、とこれからのことを考える。
女神様に叶えてもらう願いは何にしようかと。
そもそもどうしてこのような状況になっているのかというと……
目眩、暗転、視界回復を経た僕は、沢山の木々に囲まれた、森のような空間に移動していた。
目の前には水色のワンピースを着て、素足に編み上げのサンダルを履いた20代前後と思われる美女。
肌は透き通るように白く、目は深い蒼。
緑色の髪の毛は長くストレートに足首まで伸びている。
そんなテレビアニメや漫画のイラストの中でしかお目にかかったことがなかった美少女が、開口一番言ったのだ。
「私の髪の毛を、それと同じようにして」と。
ワゴンにクランプで固定した人形の首を指差して、「はやくはやく」と急かし、
「とにかくこっちにきて」
僕の腕を取り、椅子と姿見が置かれている少し開けた場所まで連れてきたのだ。
そして椅子にゆったりと座るなり、
「はやくはやく、時間がないのよ」
両手を後ろに回して髪の毛を持ち上げ、ふぁさっと広げ落とした。
光を受けて輝く緑色が指からこぼれ落ち、サラサラと音をたてるかのように、幕になって僕の視界を埋め尽くした。
「ちょっと待ってくれませんか」
やっとのことで僕は声を出す。
「そもそもここはどこで……あなたは誰ですか?」
彼女は自分が何の説明もしていなかったことにようやく気がつき、説明をしてくれた。
とても解りづらかったけれど、端的に纏めるとこうだ。
自分は女神で、好きな相手に見せる為に、その人形と同じ髪型にしてほしい。
そのかわり、報酬として何か望みを一つ叶えてくれると約束をしてくれた。
ちなみにここにいる僕は、いわゆる精神体という奴らしい。
実際の僕の体は現実世界にいて、眠らせて精神だけをここに引っ張ってきたとのこと。
きちんと物に触れられるよう、仮の身体に精神を入れる為に。
なら僕の身体はと聞くと、見えるように鏡に映してもらった中では確かに僕がシャンプー台の椅子に座って眠っているようだ。
身体は保護の力で傷ついたりしないように守られているので安心するようにと。
しかもこの場所と僕の世界では時間の流れも異なり、ここの1時間は向こうの世界では5分もしないみたい。
それに女神様の髪の毛を是非触りたいという気持ちもあり、実世界ではほんの居眠り程度の時間で終わるし、それならまぁいいか、と軽く引き受けたのだ。
「願い事は何にする?」
悩んでいる僕に、女神様が聞いてきた。
「決まっている? 考え中? でもあまり時間はないのだけれど……」
不意に、女神様は急に誰かに呼ばれたように顔を上げ遠くを見ると、
「大変もう行かなくちゃ」と呟き、
「また後で、少し出かけるから戻って来るまでに決めておいてね」
言い残して消えてしまった。