そして悪魔は恋を識る2
もし俺がエンジェ本人だったら、女の威圧的な態度に脅えて何も言い返せなかっただろう。
だけど俺はあいつとは違う。
こんな女に萎縮何ぞしてたまるか。
『――建前と、現実の違いも理解出来ないなんて、これだから庶民は嫌だわ』
女は懐から扇を取りだして口元に当てると、眉間に皺を寄せて俺を横目で見た。
虫でも見るようなその目つきが、非常に腹立たしい。…ほんと、ムカつく女だな。
『…まあでも、学園が生徒間の平等を掲げているのは事実。ここは心が広い私が譲ってあげますわ。光栄に思いなさい』
つと不敵な笑みを浮かべた女は、ぱちんと音を立てて扇を畳むと、俺に向かって閉じたそれを指すように突きつけた。
『私の名前はルクレア・ボレア。この学園において、王族に次いで最も高貴な身分を持つ者ですわ。賤しい庶民のエンジェ嬢。良く覚えていなさい。――この学園に相応しくない貴女を、必ず私が追い出してあげるから』
…やはり、こいつがルクレア・ボレアか。
脳裏に浮かぶのは、「学園に入学すれば、必ずルクレア・ボレアという貴族の女から虐め倒される」と喚いていた、エンジェの言葉。
俺はひっそり乾いた唇を舐めた。
…前世だの、乙女ゲームだの、何をトチ狂ったことを言ってやがると思っていたが、こうもことごとくあいつの予言が当たっていることを考えると、あながち世迷いごととは言えないかもしれねぇ。
…まあだからといって、アイツの話に聞いていた程度の苛め、俺にとっちゃ別段大したことじゃねぇけど。
『ただそれだけ貴女に言って置きかったの…それじゃあ、ごめんあそばせ』
言うだけ言って、ルクレアは俺に背中を向けて颯爽と去っていった。
その姿を俺はじっと睨み付ける
…似てるな。クレアに。
未だ鮮明に記憶に残る初恋の糞貴族の面影に、ルクレアは非常に良く似ていた。身体的色の特徴、ウェーブがかった髪質も一致。…これは偶然だろうか。
高慢ちきな性格の悪さも、一緒。…クレアが育ったら、ちょうどあんな感じになるんじゃないかと考えていた姿が、まさに今のルクレア・ボレアの姿だった。
名前だって一字違いだ。ガキが考える偽名としては、その程度が限界だろう。
記憶しているクレアの格好は、中流貴族程度の物だったが、大貴族がお忍びで訪問するなら、身分を偽装していてもおかしくない。
ルクレア・ボレア。
お前、なのか?
あの時、俺を弄んだのは、10年以上経っても癒えない傷を刻み込んだ糞ガキは、お前なのか?
胸の奥に、暗い焔が燃え上がるのを感じながら、俺はその姿が完全に見えなくなるまで、ただただルクレアの背中を睨み続けていた。
しかし、あくまで疑惑は疑惑。キエラに情報収集させたが、確証は得られなかった。
ルクレアが、クレアと確信するには至らなかった。
…高位貴族なら、あれくらい顔立ちが整っていて、傲慢でもそうおかしくはねぇしな。金色の髪も、紫の瞳も、この国ではそこまで珍しくはない。それだけじゃ証拠にはならない。
――まあ、いいか。あいつが、ルクレアがクレアだろうが、そうじゃなかろうが。
俺は昼間のルクレアの記憶を反芻しながら、口端を上げた。
あの顔。あの声。あの態度。あの瞳。――どうしようもなく、嗜虐心が擽られる。
復讐とか関係なしに、あいつを下僕にしてあのお綺麗な顔を歪ませてやったら、さぞかし愉快だろうと思う。
屈辱に泣くルクレアの顔を想像しただけで、でぞくぞくと鳥肌が立った。
何、あいつは俺を虐げるつもりなんだ。そして、エンジェの予言が正しければそれなり酷い目に遭わされる未来が待ち受けているんだ。――ならばそれだけで復讐は正当だろう。
俺は苛めを甘んじて受け入れてやろう。暫くの間は、ルクレア、てめぇの優越感を満たしてやるよ。…最初に下手に抗って、身分を盾にされたら庶民の俺には敵いっこねぇからな。
だけど。お前が刃向わない俺に油断をした時。不意打ちの口づけが成功するくらいの隙が出来た時。
その時は、必ず俺は、お前を支配してやる。
隷属魔法を使って、お前を下僕にして虐げてやるから、覚えていろよ。
求めていたのは、11年の間に積りに積もった暗い感情を、ぶつける対象。
その相手はクレアでなくても良かった。クレアが一番良かったが、クレアとよく似た女だったらそれでも別にかまわなかった。それくらい、胸のうちのそれは爆発せんばかりに大きく膨らんでいて、自分でももう制御出来なかった。
そんな俺の前に現れたルクレア・ボレアは、俺のフラストレーションをぶつけるのにちょうどいい相手だった。
傷つけたい
泣かせたい
苦しめたい
入学当初、俺がルクレアに向ける感情は、どうしようもない程歪んでいた。
サンドバッグのように、クレアの面影を重ねながら気まぐれに傷つけてやるつもりだった。
――それ、なのに。




