アルク・ティムシーというドエム48
追いかけられるという行為は、例えそれが子どものお遊びでも、怖いものだと私は思う。
命がかかった絶体絶命の状況というわけではないが、アルクに見つかるか見つからないかで、デイビットの今後が左右されてしまうことを考えると、それなりに深刻な状況だ。その分恐怖感は増す。
思わず、すがるように後ろ手でデイビットの服の端を掴むと、小さく笑ったデイビットの息が耳にかかった。
「――心配すんな、ルクレア」
「?なんだ、この散らばった掃除用具は…」
まずい、やっぱりアルクが気が付いた。
冷たい汗が背中を伝う。
けれども緊張で固まる私とは裏腹に、デイビットは至って平静だ。
「心配しなくても…人気がねぇ校舎の中に逃げ込んだ時点で、俺の勝ちだ」
「そこか!?そこにいるのか、エンジェ嬢…っ!!」
アルクの手が、道具入れの扉にかかる音がする。
――もう、駄目だ…!!
思わずぎゅっと目を瞑った私の後ろで、凛としたデイビットの声が響いた。
「【道標】」
「――違うな。反対の扉から外に出て戻ったのか…!!早く追いかけねば…!!」
デイビットが言霊を発した瞬間、アルクは突然気を変えて、足早に教室を走り去っていった。
思わずポカンと口をあける私に、デイビットは喉を鳴らして笑う。
「だから大丈夫だっつったろ、ばーか」
アルクの気配が完全になくなったのを確かめて、道具入れから外に出る。
大きく息を吸い込んで、状況を理解すべく教室内に目を凝らす。
「――糸?」
よくよく見ると、そこにはピンク色の細い糸が見えた。
入口の扉から続いているそれは、反対の扉まで続き、そしてぐるりと輪のようになって廊下の糸に繋がっている。
恐らく辿ると、校舎の入口に繋がっているのだろう。
「なんだ、お前これが見えるのか。さすが目がいいな」
「これって…」
「【道標フェロモン】の糸だな」
【道標フェロモン】――それってあれか。蟻が見つけた餌の場所を仲間に知らせる奴か。
…そんなのまであるんか、フェロモン魔法。
「外だったら強風に散らされる可能性があるし、人が多いと踏まれて切れちまう可能性もあるから状況と場所を選ぶ魔法だが、こういう人気がねぇ屋内ならまず百発百中誘導が出来る。今頃校舎の外に出て、途切れた糸の先を必死に探し回っていることだろうよ」
そう言ってデイビットは、にぃっと口端を釣り上げた。
「俺が勝てねぇ勝負を持ちかけると思ったか?」
そしてこのドヤ顔である。
……そんな裏技あるのなら、最初から教えてよ!!ビビり損過ぎる…!!
散らかした掃除用具を綺麗に道具入れに戻して、教室を後にする。
デイビットは念の為一階の入口全てに道標フェロモン魔法をかけ直していた。これで万が一アルクが戻って来ても、一階以外のフロアに向かうことはない。
きちんと魔法が機能していることを確認して、二階へ移動する。
だけど、電気がついていない校舎は暗くて居心地が悪い。少しでも明るい場所を求めた結果、月明かりに照らされているテラスに足が向いた。
「……あ、音楽が聞こえる」
テラスに出ると風に乗ってホールの音楽が聞こえてきた。
この曲の名前はなんだっただろうか。
甘くて、どこか切ない、この曲の名前は。
昔誰かに聞いて、確か知っていたと思ったんだけど。
「……こうしてただ舞踏会が終わるのも、退屈だな」
月明かりの下で、デイビットが小さく笑って手を差し出して言った。
「踊るか、ルクレア。退屈しのぎにはなるだろう」
その言葉に胸が、痛いくらいに締め付けられた。
――ああ、そうだ。思い出したこの曲のタイトル。
【初恋】だ。
タイトルに思い至った瞬間、何だかすごく切ない気持ちになった。
『恋とはどんなものかしら』
脳裏に浮かぶ、前世で有名だったのオペラの曲のタイトル。いつか自分自身にした問いかけ。
「――そうだね。踊ろうか、デイビット」
もう、きっと、私はその答えを知ってる。