アルク・ティムシーというドエム35
父の額がこつんとわたしのそれにぶつけられる。
「それは何も子どもだけの話じゃないけれど…だけど、子どもの方が大人よりずっと、そんな間違いを許される範囲は大きいんだ。お前はその幸福な時期を、きちんと享受すべきだよ。焦って大人になることはないんだ」
先日は反発したはずの言葉が、今の私には違った意味を持って響いた。
ほろりと目から一筋涙が零れた。
だけどそれは先程までの情けない涙とは違っていて。
「ゆっくり、少しずつ大人におなり。ルクレア。いろんな間違いを犯して、色んな困難を乗り越えて、丁寧に時間を掛けて大人になっていいんだよ、お前は。お前にはそれが許されるのだから」
父の言葉は、どこまでも娘である私への慈愛に満ち溢れていて、温かった。
「お父様――ありがとう」
泣きながら、父に私は笑いかけた。胸の奥に溜まっていた淀のようなものが、父の言葉で洗い流された気分だった。
前世を思い出してから、いつの間にか私は、自分が大人であると思い込み、だからこそ全てが上手くやれねばならないという強迫観念でがちがちになっていたことに、気付かされる。
だからこそ、望みのようにならない現実に押しつぶされそうになっていた。
「こうであるべきだ」「こうでなくてはいけない」
思考ばかりがそんな風に、突っ走っていくばかりで、実際問題体がついていけていなかったのだと思う。
幼い体で、大人の記憶。きっとそれは、どこかで私に負荷をかけていたのだ。自分では気づいていなかったけど全てがチグハグで、アンバラスで、窮屈で、暴走する感情に飲まれかけてはあっぷあっぷしていた。
だけど、私は子どもなんだ。子どもでいてもいいんだ。…そう思った瞬間、胸の中に会った脅迫観念が、すっと消え去った。
間違ってもいい。みっともないことをしてもいい。――それが、私の成長につながるなら。
失敗を取り戻す時間はいくらでもあるんだ。だって私はまだ6歳なのだから。
私の可能性は、それこそ無限なのだから。今が無理だからとあきらめて、自分の限界を定めるような、そんな年齢じゃない。そう思っても、いいんだ。
そう考えたら、覚悟が決まった。
「――家に帰ったら、精霊達と向き合うわ」
息がかかる距離で父と目を合せながら、胸に宿った覚悟を宣言する。
「多分許して貰えないだろうけど、謝って…そして話すことから始めてみるわ。どんなに拒絶されても、罵倒されても、毎日一時間、呼び出して精霊達みんなと話すことに決めた。――何年でも、何十年でも続けて、きっと彼らと和解して見せる」
一度めちゃくちゃに壊した関係を、再構築するのはとても難しいことだ。そして壊れた時間が続けば続くほど、修復はますます困難になっていく。
精霊達と契約を結んでからもう一年になる。一年の間、拗れに拗れた関係を、良い方に持っていくのは、さぞかし苦しいことだろう。きっと、私はこれから何度も投げ出したくなるような辛い思いをするだろう。
それでも、何もしなければ、何も変わらない。
――私は子どもだ。子どもは、無謀だと思われることにも挑戦できるのが、子どもの特権だ。
だったら子供らしく、がむしゃらにやるだけだ。
「よく、言った。ルクレア」
父はそんな私に心底嬉しそうに表情を緩めた。
「そんな風に言えるお前は、ボレア家の…否、私の誇りだよ」
そんな父の言葉が嬉しくて、私の口元もほころんでいくのが分かった。
誇らしげに胸を張って、父と顔を見合わせて笑う。
――だけどそんな明るい前向きな気持ちと裏腹に、胸の奥には、まだ重苦しいものがこびりついていることもまた感じていた。
他でもない、デイビットのことだ。
精霊達との関係は、これから無限の可能性がある。…これから修復できる可能性は少ないながらもきちんと存在する。
だけど、デイビットとの関係は、そんな可能性が一切存在しない。だってきっと二度と関わり合いにならないだろう子どもだから。父は、私はきっともう二度とあの村に行くことはないだろう、そう確信しているから。
私が自分の手で滅茶苦茶にしたデイビットとの関係は、永遠に修復されることはないだろう――その事実が、酷く重たくて、せっかくの決心が鈍りそうになるのを感じていた。
「――ルクレア…忘れてしまっていいよ。あの少年のことは忘れてしまっていい。それが、精霊達の関係を改善する為に、邪魔になるというのなら。」
そんな私の考えを見越したように、不意に囁かれた言葉にどきりとする。
デイビットのことを考えたのがなぜばれたのだろう。
父は真意が読めない、貼りつけたような笑みを浮かべながら、私のこめかみに指をあてた。
「お前は今はただ、精霊達のことだけを考えるべきだ。他の事に気を取られながら、関係が修復出来る程、精霊達は甘くはないよ…余計な憂いは、しかるべき時まで封じてしまいなさい」
父の指がこめかみの上で、何か幾何学模様を描いた。
――式だ。
そう気づいた瞬間、意識が遠くなった。
「だけどその罪は・・・その罪が引き起こした痛みは、代償は、覚えていなさい。今お前が抱いているその気持ちは、忘れてはいけないよ」
父の声が遠くに聞こえる。なんだか酷く眠かった。
頭の奥が、霞みがかったようにぼんやりとしていく。目蓋が、重くて仕方ない。
…あれ、私は今どうして馬車に乗っているのだっけ。
私は今お父様と…お父様と話をしていたのだけど、一体何がきっかけだったっけ。
ああ、もう頭が働かない。
「それは、お前にとってきっと、必要なことなのだろうから」
耳に掠めたそんな言葉を最後に、私はそのまま失神するように眠りについた。
――そして目が覚めた頃には、デイビットのことも、天使がいるとされていた村のことも、綺麗さっぱり忘れていた。