第二話
午前十時三十分。千間刑事部長は警察庁の会議室に呼び出された。現在この会議室内には、三人の男がいる。
榊原栄治刑事局長。警察庁警備部公安課の関口隼人。そして八嶋祐樹公安部長。
「本日はお集まりありがとうございます。皆様を招集した目的は、石塚俊殺害の件について相談するためです。先ほど捜査一課の刑事が来ました。それに伴い警察組織の不祥事が次々に発覚しています。そこで皆様の協力でこの殺人事件を隠蔽したいと思います」
関口隼人の呼びかけを聞き、榊原刑事局長は拍手する。
「素晴らしい。不祥事を隠蔽するために警視庁と警察庁が協力するということか。それでどうする。あの事件を捜査しているのは、これまでさまざまな不祥事を暴いてきた捜査一課三係。彼らを何とかしない限り隠蔽は不可能だろう。いずれこの事件の存在がマスコミに漏れ、不祥事が発覚する。それではマズイ」
「榊原刑事局長。そのために千間刑事部長を呼んだのですよ。刑事部長さんはマスコミ担当要員。あなたならマスコミ対策ができるでしょう」
「残念ながらマスコミ対応は喜田参事官に任せている。だから捜査状況を警察庁に流せばいいのだろう」
「千間刑事部長。それで構いません。話を戻して榊原刑事局長には、捜査一課三係に警察庁の動向に関する情報を流さないでほしいです」
「分かった」
刑事局長と刑事部長への依頼を聞きながら八嶋祐樹公安部長は咳払いする。
「なぜ俺を巻き込む。この事件は警察庁の問題だろう。警視庁公安部を巻き込まないでほしいね」
「広瀬佳奈。警視庁公安部に所属する刑事ですよね。彼女がこの事件に関与しているとしたらどうでしょう。彼女が事件に関与していなかったら、警視庁に隠蔽工作の協力を依頼しませんよ。警察庁だけで隠蔽する。八嶋公安部長には、広瀬佳奈と捜査一課三係の刑事の接触を避けてもらいたい」
「分かった」
「こうしている間に合田たちが広瀬佳奈と接触していたら終わりだろう」
榊原刑事局長が皮肉を言うと、八嶋祐樹公安部長が笑った。
「ノープログレム。広瀬佳奈の居所は捜査員も知らない。彼女を見つけ出すことは困難だろう」
「なるほど」
「榊原刑事局長。意見がなければお開きにしますよ。時間もありませんし」
「分かった。解散しようか」
こうして四人の男たちはそれぞれの持ち場に戻った。ここからそれぞれの隠蔽工作が始まる。
警視庁に戻る千間刑事部長の隣には、八嶋祐樹公安部長がいる。
「千間刑事部長。あのハロウィンの夜、警視庁捜査一課三係は、退屈な天使たちのメンバーの一人、ラジエルの身柄を確保したよな。なぜラジエルの身柄を公安に引き渡さなかった。なぜ捜査一課三係の刑事とラジエルを同居させている。どうして彼女の警護を公安に依頼しない」
「勘違いしていないか。彼女は記憶喪失者。自分がテロリストだったことも覚えていない。そんな人物を送検することは困難だろう。彼女が記憶を取り戻せば、公安に身柄を引き渡す。彼女の証言はテロ組織退屈な天使たちを壊滅させる切り札になるだろう。大野と彼女を同居させたのは、その切り札を手に入れるため」
「切り札か。そのカードが必要になるのは当分先になりそうだ」
「それは警視庁公安部長としての意見か」
「そうだな。まだそのカードは必要ない。その切り札は法整備が整ってから手に入れたい」
二人が警察庁のエレベーターの前に到着し、千間がエレベーターのボタンを押す。
「珍しいな。あの幻想が現実化されて警視庁公安部は喜ばないと思うが」
「テロ組織退屈な天使が壊滅すればそれでいい。警視庁捜査一課にもメリットがないだろう」
「理想の警察組織を創造するためだ。手段は選ばない。それは君も同じだろう」
「残念ながら君とは違う。俺は警察組織の不祥事を隠蔽できればそれでいい。警察庁は警視庁をただの都道府県警察としか見ていない。それが許せない」
間もなくしてエレベーターが到着し、ドアが開く。二人が乗り込むと、八嶋公安部長が千間刑事部長に聞く。
「なぜ東京の警察組織の名称が、東京都警ではなく警視庁なのかが分かるか」
「首都である東京都を守る警察組織という意味で警視庁と呼ばれている」
「正解。警視庁を都道府県警察の一つとしか評価しない警察庁の理屈が正しければ、平等に東京都警察と呼べばいいではないか。警察庁は警視庁を正しく評価してほしい。だが今回の殺人事件を隠蔽するためには、警察庁に協力しなければならない。俺は嫌々隠蔽工作に協力している」
「なるほど。公安部長はプライドが高いようだな」
「千間刑事部長。プライドが高くないと、君の理想の警察組織は創造できないだろう。君は俺と同じ思考を共有するべきだ」
「それもそうだな」
エレベーターが警察庁地下の駐車場に到着した。駐車場には一台のタクシーが停車している。八嶋公安部長がそのタクシーに近づくと、彼は千間刑事部長に声をかけた。
「どうだ。一緒に少し早い昼食を摂らないか。もちろん奢る」
「それはいいな」
そして千間刑事部長は八嶋公安部長に続くようにタクシーへ乗り込んだ。
その頃、関口隼人が浅野房栄公安調査庁長官に電話した。
「浅野房栄公安調査庁長官。君の力が必要です。あれを現実化させるために、協力していただけませんか。あれはあなたの夢ですよね。それなら断る理由はないと思いますが」
『残念ながらそれはできないのよ。確かにあれは私の夢だけど、あなたに協力したら、私の夢とは正反対の代物が完成しそうだから。それと例の警察庁職員殺人事件。その事件に興味があるから、公安調査庁としても捜査するけど、よろしいかしら。暇な公安調査官がいるからね』
「あなたは警察庁に恨みがあるのですか」
『恨みはないけど、個人的に興味があるの。殺された警察庁職員と私との間にあるミッシングリンク』
「それって職権乱用ですよね」
『職権乱用で事件を隠蔽するあなたに言われたくないわ』
「それはこっちのセリフですよ。別に構いませんが、警察庁の隠蔽工作の邪魔はしないでいただきたい」
『分かったわ』
関口隼人が電話を切ると、丸山綾乃がドアをノックして入室した。
「失礼します。会議はどうでしたか」
「何とか警視庁の刑事部長と公安部長。警察庁刑事局長を味方にしましたが、公安調査庁が敵になりました。厄介ですね。浅野房栄公安調査庁長官は捜査一課三係と面識がある。彼女と捜査一課三係が協力すれば、隠ぺい工作が無意味になる。どうしましょうか」
「とりあえず、捜査一課三係と同様に公安調査庁もマークするしか方法はないでしょう」
一台の白いランボルギーニ・ガヤンドが品川のパチンコ店に停まった。その車内にいる愛澤春樹と日向沙織はこの店で働く人物と接触しようとしている。その人物はテロ組織退屈な天使たちの末端構成員である柴田誠司。
日向沙織が初めてのパチンコ店に目を輝かせている中で、愛澤春樹は自分の顔に変装マスクを被せた。スモークガラスのため、変装の様子は外からは見えない。愛澤春樹は白鬚が特徴的な老人の顔になっている。
「あなたも変装しませんか。手持ちの変装マスクが白髪の老婆の物しかありませんが」
「遠慮します」
二人が車から降りると、パチンコ店に足を運ぶ。
「私はトイレにいるからね。店内の防犯カメラに私が映ったらマズイでしょう」
「それなら一緒に来なければよかったのではありませんか」
「留守番は嫌だから」
日向沙織がトイレに向かう。トイレとは逆方向にある店内は多くのギャンブラーで溢れている。その中から愛澤は柴田誠司を見つけた。その柴田誠司の右腕には黄金の腕時計がつけられている。
「いらっしゃいませ」
柴田がその老人に声をかけると愛澤は微笑んだ。
「君の腕時計は素晴らしいな」
愛澤が柴田の腕を握り、さりげなくメッセージを彼に渡した。そして愛澤は柴田から離れ、店内から出ていく。
それと同じタイミングで日向沙織がトイレから出てきた。
「早かったね」
「メッセージを渡すだけですから」
そうして二人はパチンコ店を出ていった。
その様子を一人の黒いスーツを着た短髪の女が気配を消して見ていた。その女の名前は広瀬佳奈。警視庁公安部外事第三課に所属する警部である。
広瀬佳奈は秘密裡に携帯電話で八嶋祐樹公安部長に連絡する。
「広瀬です。日向沙織らしき人物を確認しました。白髪の老人と一緒です。盗撮した写真を送ります」
『その老人はラグエルかもしれない。ラグエルの得意技は変装らしい。そして日向沙織と行動を共にしているという情報もある。おそらく間違いないだろう。諄いと思うがラグエルの追跡は断念しろ。お前は対象との接触に専念するんだ』
「了解」
広瀬佳奈は電話を切り、八嶋祐樹公安部長に盗撮した写真を送った。その写真には日向沙織と白髪の老人が一緒に写っている。
一方愛澤春樹は日向沙織を助手席に乗せ、白いランボルギーニ・ガヤンドを走らせた。
走行中に変装マスクを剥がし素顔に戻った愛澤に一本の電話が届いた。その相手はレミエルだった。
「もしもし。今運転中ですから、要件だけ伝えていただけませんか」
『柴田誠司。知っているよな。末端構成員だ。そいつが公安と接触しているらしい』
「柴田誠司ですか。彼なら先ほど接触しましたよ。例の殺人事件の証人が必要だとアズラエルに頼まれましたから。その話が事実だとしたら、彼はノックだったということですね」
『ノンオフィシャルカバー。一般人を装った潜入捜査官か。まさかそんな奴がいたとはなぁ。俺も信じたくない。どうする。柴田を殺すか』
「構いませんよ。仕事が終わった後ならね。探りを入れてみますから、接触した公安刑事の名前を教えていただけませんか」
『警視庁公安部外事三課の広瀬佳奈警部』
「分かりました。それでは合図を待ってから暗殺してください」
愛澤春樹は電話を切り、頬を緩ませた。
「なぜが嬉しいのですか」
日向沙織の問いに対して愛澤春樹は微笑む。
「メッセージですよ。こちらが柴田誠司に託したメッセージのコピーです」
愛澤はスーツのポケットから問題のメッセージを取り出して、日向沙織に渡す。
『午後一時。品川の潮風公園で待っています』
日向沙織はそのメッセージを読んでも愛澤が笑顔になる理由が分からない。間もなくして自動車が赤信号で止まった。そして愛澤は解説を行う。
「公園は公安の密会スポットとして有名だそうです。そして柴田は公安のスパイという疑惑がある。つまりその待ち合わせ場所は広瀬佳奈に成りすまして接触するのに相応しい場所ということです。彼女に変装すれば、一石二鳥でしょう。ノック疑惑の捜査と殺人事件の証人探し。両方が同時にできる」
信号が青信号に変わる直前、愛澤は腕時計を見た。時間は午前十一時を指している。
愛澤は咄嗟に右のウインカーを出す。信号が青信号に変わった瞬間、自動車は右折した。
その頃大野と沖矢は石塚俊が暮らすタカハラマンションを訪れた。まず二人は大家さんに警察手帳を提示して身分を明かした。
「警視庁の大野です。石塚俊さんの件で伺いたいことがあるのですが」
「石塚さんが何をしたのじゃ」
「彼の遺体が発見されたのだよ」
「そうですか。それと関係あるのかどうか分からないが昨日の午後十時にタクシーがこのマンションの駐車場に停まったな。そのタクシーに石塚俊が乗り込んだことを覚えているよ」
「そのタクシーはどこの会社の物でしたか」
「確かフジミヤハイヤーだったかな」
「その時石塚さんは一人でしたか」
「一人だったよ。彼が帰ってきたのは午後七時。もちろん一人で帰ってきたよ。それから午後十時にタクシーへ乗ってでかけるまで彼は一歩もこのマンションから出ていない。このマンションは大家室の前を通らなければ出入りできないから覚えているよ。防犯カメラを見れば証明できると思うが」
「その前にもう一つ聞きます。このマンションにこの女が訪れたことはありますか」
大野は大家に広瀬佳奈の写真を見せた。
「知らないな」
大野は一応関口隼人や丸山綾乃、八嶋祐樹の写真を大家に見せたが、大家は見たことがないと首を横に振った。
「石塚俊の部屋を見せてほしいのですが。それとタカハラマンションの防犯カメラの映像を借りたい」
「分かったよ。合鍵を持っているから、一緒に行こうか」
二人は大家に連れられて、石塚俊の部屋を訪れた。その部屋は綺麗だった。
台所には洗いかけの食器が積まれている。二人は部屋を隅から隅まである物を探す。だがそれは見つからなかった。
「ありませんね」
その大野の一言を聞き大家は首を傾げた。
「何を探している」
「携帯電話ですよ。遺体発見当時石塚さんは携帯電話を持っていなかった。充電中で自宅に置き去りにしている可能性もあったのですが、この部屋からは見つからなかったようです。おそらく午後十時に出かけたときに持ち出したのでしょう」
「広瀬佳奈に繋がる手がかりも見つからなかったのだよ」
捜査が無駄足になったことを沖矢が嘆いた時、大家があることを思い出した。
「広瀬佳奈なら名前だけ聞いたことがある。確か石塚さんにアニメのフィギュアを送った人じゃった。一か月に一回というペースで送ってきたから覚えている。住人の郵便物は一回程度目を通しているからな」
確かに石塚俊の寝室には五体のフィギュアが飾られていた。その様子に二人は違和感を覚えた。
「妙なのだよ」
「部屋中を探してもアニメグッズが見つからなかった。沖矢。この部屋から出て僕の電話してください」
沖矢は大野の指示に従い、部屋から出ていった。そして彼は大野に電話する。
「もしもし」
『も……大……す』
「やっぱり」
大野は電話を切り、寝室のドアを開けた。
「あのフィギュアには盗聴器が仕掛けられている可能性があります。北条さんを呼んで調べてもらった方がいいでしょう」
午前十一時二十分。北条と合田はタカハラマンションへやってきた。北条が盗聴器捜索機械を持って部屋に入ると、合田が沖矢に聞いた。
「盗聴器が仕掛けられているというのは間違いないのか」
「あの部屋で電話をしたら、ノイズが聞こえたから間違いないのだよ。おそらく盗聴器は五か月前から送られてきたアニメのフィギュアに隠されていると思うのだよ」
それから一分後石塚俊の寝室から北条が出てくる。
「やはり盗聴器が仕掛けられていた。詳しく調べてみなければ分からないが、盗聴器の寿命は一か月。もちろん警視庁に持ち帰って指紋を照合する」
「北条さん。それとノートパソコンも持ち帰ってください」
「分かった」
北条は五体のフィギュアとノートパソコンを回収して警視庁に戻った。
三人は北条を見送った後、家宅捜索を続行した。だが手がかりとなる物は発見されなかった。
そして合田たちは家宅捜索を終了し、大家に御礼を述べた。
三人はタカハラマンションの駐車場まで歩く。
「合田警部。これからフジミヤハイヤーに向かいます。そこのタクシーに石塚俊が乗り込んだそうですから、聞き込みを行います」
「俺も一緒に行く。生憎北条の車でここまで来たからな。お前らの車に便乗させてもらう」
急きょ大野たちの捜査に加わった合田を鼓舞座席に乗せ、大野はフジミヤハイヤーに向かう。
その道中合田の携帯電話が鳴った。その相手は月影家康管理官だ。
「月影。何だ」
『大変なことになりましたよ。警視庁の拳銃が不正に持ち出された形跡があります。その拳銃はニューナンプM60。登録者は広瀬佳奈。おそらく広瀬佳奈は拳銃を所持していると思われます。それとこれは可能性でしかありませんが、石塚俊を殺害した凶器も広瀬佳奈の物だとしたら、どうでしょうか』
「ちなみにその拳銃はいつ持ち出された」
『昨日の午後十時から午前一時までの間であると思われます』
「なぜこのタイミングで拳銃が不正に持ち出されたことが分かった。本当ならもう少し早く分かるだろう」
『その原因は八嶋公安部長。彼の特命で拳銃が持ち出した可能性もあったから騒げなかったということですよ。公安の動きは警視庁の刑事でさえも把握できませんから』
「それで八嶋公安部長に確認したら、拳銃が不正に持ち出されたことが分かったということか。もう一つ聞く。広瀬佳奈の拳銃の腕はどれくらいだ」
『プロのスナイパーと互角ほどです。百発百中。おそらく彼女が犯人だとすれば、第二の射殺事件が起きる可能性もあります』
「分かった。一刻も早く広瀬佳奈を確保する必要があるということだな」
『公安調査庁も彼女の行方を追っている。警視庁は検問を張る。ここは彼らに任せてお前らは事件の真相を追ってほしい』
「分かった」
合田は電話を切ってから唇を噛んだ。
「また不祥事か」
公安調査官たちは広瀬佳奈の行方を追っている。そうとも知らず、愛澤春樹は広瀬佳奈への変装準備を済ませて、潮風公園に向かっていた。
その道中愛澤の元に一本の電話が届いた。スマホに表示された名前を見て彼は首を傾げる。その相手はアズラエルだった。
「アズラエル。何の用でしょうか」
「急きょ東京中で大規模な検問が行われることになった。その目的は広瀬佳奈の捜索。お前の隣には指名手配犯の日向沙織がいるだろう。その検問に引っかかれば、日向沙織が逮捕される」
『それでは検問が行われる場所を教えていただけますか。もちろん地図で構いません。そのデータは僕のタブレットに送ってください』
「分かった」
愛澤は電話を切り、自動車を路上駐車した。それから彼はタブレット端末を鞄から取り出す。間もなくしてアズラエルから検問地図が送られてきた。
「なるほど。この辺りで行われている検問箇所は台場駅周辺。そこと潮風公園は目と鼻の先。だからこの辺りで待機した方が安全のようですよ」
「それで私はどうすればいいのかな」
「とりあえずあなたは変装するしかないでしょう」
「変装ってお婆さんの変装マスクしか手持ちがなかったよね。嫌ですよ。そんなマスクを被るのは」
「大丈夫です。こんなこともあろうかと、広瀬佳奈の変装マスクと一緒に別のマスクも造りましたから。金髪外国人。お婆さんよりはマシでしょう」
「ありがとうございます」
日向沙織が微笑むと愛澤はレミエルに電話した。
「レミエル。ラグエルです。都内各地で大規模な検問が行われているそうです。今どこにいますか」
『サラフィエルと一緒に潮風公園を散歩しているところだ。狙撃場所の下見を兼ねている』
「それはよかった。そのまま潮風公園に待機してください」
愛澤は電話を切って頬を緩ませた。
「それで暗殺したらどうやって脱出するつもり」
「大丈夫です。この検問地図には穴があります。その穴を辿れば脱出できそうです。最も三年ぶりにドライブテクを披露しなければなりませんが」
愛澤はにっこりと笑うと、日向沙織の顔に変装を施した。見る見るうちに日向沙織の顔はイギリス系外国人の顔に変わっていく。
「体系も変えましょうか。詰め物をすれば太らせることもできますが」
「結構です。愛澤さんも変装した方がいいのではありませんか」
「それもそうですね」
愛澤は鞄から鏡と変装マスクを取り出す。だがそのマスクは広瀬佳奈の物ではない。予備として用意したアフロヘアの日本人男性の物だ。
愛澤は鏡を見ながら変装マスクを被る。サングラスをかけながら愛澤は不満を口にする。
「女に変装するつもりだったのですが、まさか男に変装することになろうとは。空気で胸を膨らませるやつを着ていたのに、無駄になりましたよ」
「だったら女に変装すればよかったでしょう」
「偶然手元に男の変装マスクしかなかったのですよ。イギリス系外国人のマスクはあなたに渡したので使えませんし。それにあなたは異性に変装することを嫌がるでしょう。だから僕は男に変装するしかないということです」
「優しいですね」
「あなたには嫌われたくありませんから」
路上駐車した愛澤のランボルギーニ・ガヤンドが発信した頃、広瀬佳奈は品川で八嶋公安部長から電話で事実を聞いた。
「嘘でしょう」
『仕方がないだろう。あの男が生きていればあれの邪魔になる』
「だからと言って殺さなくてもよかったのではありませんか」
『それはこっちの話だ。なぜ手続きをせずに拳銃を持ち出した』
「仕方がないでしょう。こうするしか方法がなかったから」
『やっぱり君もあれを拒む不穏因子だったのか』
「そうです。あなたたちに殺されるなら私にも考えがありますから」
広瀬佳奈は電話を切り、覚悟を決めた。
「最期の仕事を始めましょうか」
丁度その頃木原と神津は品川署を訪れた。その出入り口には品川署の署長が立っている。
「警視庁の刑事さんですね。お待ちしていました。例の物は会議室にあります」
話は数時間前に遡る。品川署に窃盗犯の山岡が自首した。その男が石塚俊の携帯電話が入った鞄を盗んだという。
その盗品は会議室に収容されていた。
「それで山岡さんはいつ石塚さんから鞄を盗んだのでしょうか」
「供述では午前零時ごろ品川通りで盗んだらしいです」
「その時石塚さんが一人だったのか」
「一人だったそうです」
丁度その頃広瀬佳奈は品川署を見上げていた。
「ここですね」
広瀬佳奈は品川署に入り、屋上へと続く階段を昇り始めた。
それから三分後木原と神津は品川署の署長に連れられて、スリの取調室に向かっていた。
「ごめんなさい。スリの事情聴取をさせていただいて」
「まあ警視庁の刑事さんの捜査に協力できればそれで満足ですから」
三人が品川署の廊下を歩いていると、彼らの前を広瀬佳奈が通り過ぎた。
木原と神津は背後を振り返り、女の顔を凝視する。
「広瀬佳奈か。木原。合田警部に連絡しろ。広瀬佳奈を見つけたと」
「分かりました」
木原が携帯電話を取り出した。そして神津は品川署の署長に質問する。
「この通りを抜けた先には何がある」
「屋上へと続く階段ですよ」
「屋上か。木原。屋上に行く。もしかしたら広瀬佳奈は自殺するつもりかもしれない」
そして広瀬佳奈は品川署の屋上に辿り着いた。北から吹いてきた風が広瀬佳奈の前髪を揺らす。彼女は携帯電話を取り出し、メールを打った。その表情は暗い。
広瀬佳奈がポケットに携帯電話を仕舞うとそのまま拳銃を取り出す。そのタイミングで屋上に木原と神津が駆け付けた。
「広瀬佳奈さんですね。もう止めませんか」
「嫌です。ここで死なないと石塚さんの意思を受け継ぐことができません」
「お前が石塚俊を殺したのか。殺したとしたら罪を償ってからだろう」
「あなたたちなら真実を解き明かすことができるでしょう。さようなら」
広瀬佳奈は拳銃の銃口を自分の頭に向け、引き金を引いた。響く銃声。銃弾が広瀬佳奈の頭を撃ち抜き、彼女は絶命した。
銃声を聞き多くの警察官たちが品川署の屋上に集まる。木原たちは広瀬佳奈の遺体を見ながら誓う。絶対に真実を明らかにすると。