第一話
平成十六年。三月九日。警視庁公安部外事第三課に所属する刑事たちは、深夜の東京港品川埠頭を張り込んでいた。
今夜この埠頭ではテロ組織退屈な天使たちの取引が行われる。
取引開始まで後五分。雨が降る中で安藤慶太は相棒の石塚俊と共にコンビナートの隙間に隠れていた。
そんな二人の前を白い仮面を被った男が通り過ぎた。その男が被っている仮面は不気味に笑っているように見える。男の服装は白いローブ。誰が見ても不審者であることは明らかだろう。
その男を見た瞬間石塚は無線で仲間に呼びかけた。
「こちら。石塚。あの男が現れました。どうしますか。尾行しますか」
『待て。ここは待機しろ』
「了解」
石塚が無線を切った頃、テロ組織退屈な天使たちのメンバーであるレミエルが品川埠頭から離れたビルでライフルのスコープをのぞき込んでいた。雨が降っているため視界が悪いが、レミエルの目にははっきりと映っている。公安と思われる人影が。
レミエルはニヤリと笑い、仮面の男に電話する。
「俺だ。公安が張り込んでいる。大体十人くらいか」
『やっぱり』
「まさか気が付いていたのか」
『そうだよ。人数は分からなかったけどね』
「どうするつもりだ」
『とりあえず二人は居場所が分かるから、そいつを捕まえて尋問する。邪魔するな』
「邪魔か。安心しろ。視界が悪いから狙撃もできない」
『なるほど』
仮面の男は電話を切り、来た道を引き返す。
一方安藤慶太と石塚俊は迫りくる殺気を感じ身震いした。この殺気は仮面の男が発しているものだろう。これまで二人はいくつものテロリストたちと対峙してきた。だがこの殺気はレベルが違う。これまでのテロリストがただの人間だとすれば、この仮面の男は悪魔。
石塚はプレッシャーから無線を落とした。彼が無線を落とさなくても、仮面の男は二人を見つけただろう。
一分も経たないうちに白い仮面の男は二人の前に現れた。仮面の男は拳銃の銃口を安藤慶太に向ける。
「お前らは公安だよな。どこで取引の存在を知った」
安藤慶太は冷や汗を掻き黙秘する。石塚俊も安藤と同じように死を覚悟して黙っている。
「なるほど。二人共黙秘か。こっちは知っているよ。この埠頭に十人くらいの公安警察官がいるって。よかったね。今日の天気が雨で。晴れていたら全滅だよ。仲間が狙撃するからさ」
仮面の男は不気味に笑いながら拳銃の引き金を引く。銃弾が安藤の頭を撃ち抜き、彼は絶命した。
「油断しちゃダメだよ。彼のように死にたくなかったら話して。誰から聞いたのかな」
「教えない」
「そう。それなら見逃そうかな」
「俺を殺さないのか」
「殺さないよ。だって殺人をする気分じゃないから」
石塚は拳銃を取り出し、逃げようとする仮面の男に銃口を向ける。
「お前のことを信じることはできない。お前は俺の目の前で安藤を殺した」
「だからこの場で私を殺すということかな」
石塚の手は震えている。この状態では仮面の男を射殺することができない。その隙を突き、仮面の男は石塚の腹を殴った。拳銃は床に落ち、石塚は気絶した。
「また会おう」
その声を最後に仮面の男は姿を消した。
平成二十五年。三月九日。品川埠頭に一台のポルシェ・ボクスターが停まった。その運転席にはレミエル。助手席には珍しくサラフィエルが座っている。
「なんで俺が武器取引の下見に参加しないといけないんだ」
レミエルが運転席でボヤくとサラフィエルは微笑む。
「仕方ないやろ。相方のハニエルが高校の同窓会でおらんから。それに俺は自動車運転免許を持っとらんから、足がないんや。いつもはハニエルが運転する自動車に乗って移動するんやけど」
「ウリエルもいるだろう。あいつは資金調達係。こういう取引にも詳しいはずだし、移動手段もある。あいつが運転するハーレー・ダビッドソンのサイドカーに乗ればいいだろう」
「ウリエルはサマエルと一緒にイタリアに出かけたやん。ウリエルは例の仕事。サマエルはオリーブオイルを取りに行くらしいで」
「それは四か月前の言訳と同じだろう。サマエルはなぜイタリアに向かった」
「だからオリーブオイルや。前回はその建前でイタリアマフィアの武力抗争に参加したらしいけど、今回は本当にオリーブオイルが目的らしいで」
「今回は本当か。アズラエルは立場上取引の下見に参加できないとしても、ラグエルが残っている。ラグエルに頼めばいいじゃないか」
「ラグエルは日向沙織と共に雲隠れ。詳しくは知らんけど、サンダルフォンを追っとるらしいで」
「仮面野郎だな」
「仮面野郎。サンダルフォンのことやろ」
「そうだ。俺はその仮面野郎に頼まれてこの品川埠頭を訪れたことがある。あの時も取引に下見などを行った。取引当日は公安が張り込んでいたが、視界が不明瞭で狙撃ができなかった。今日ほど晴れていたら、公安の刑事を根こそぎ狙撃したんだけどな。結局収穫は仮面野郎が公安の刑事を一人殺しただけだった。その時以来だ。消去法でどうでもいい仕事を頼まれるのは」
レミエルがもう一本煙草を吸おうとライターを手にする。時刻が午前一時になった瞬間、車外から銃声が聞こえた。
「銃声やな」
「ああ。どうやら相手は警察官らしい。あの音はニューナンプM60。日本警察が使う拳銃の音だからな」
「さすがプロやな」
「何回も聞く音だ。それくらい覚えている」
「相手が警察官ちゅうことは、公安の仕業か」
「まだ分からないが、撤退した方がいいかもな。どうせ仲間を張り込ませて怪しい奴がいないかを監視しているんだろう。後のことはそいつらに任せて撤退だ。それと取引現場を変更した方がいいだろう」
レミエルは愛車を運転し、品川埠頭から遠ざかった。二人が乗る自動車は首都高速を走っているが、追跡者が現れない。
レミエルがカーチェイスを期待している中で、助手席に座るサラフィエルの携帯電話に着信があった。
「なるほどなぁ。ほんなら気を付けて帰ってな」
電話を切ると、彼は電話の内容をレミエルに伝える。
「仲間からや。品川埠頭で殺人があったらしいで。現場には薬きょうが落ちとる。あの音は殺人者が被害者を射殺した音やろな」
「カーチェイスは無駄か。早く帰って別の取引現場を準備した方がいい」
翌日の午前八時。警視庁の刑事部長室を喜田輝義参事官が訪れた。喜田はコーヒーを飲んでいる千間創刑事部長に昨晩発生した殺人事件の報告書を見せる。
「品川埠頭で殺人事件か」
「死因は射殺。犯人が使用した拳銃は、現場に残された薬きょうから、ニューナンプM60であることが分かりました」
「ニューナンプM60。厄介な拳銃だ。我々警察組織が使用する拳銃と同じだろ。それで被害者の身元は」
「被害者は石塚俊。警察庁警備部公安課に所属しています」
「かなり厄介な事件だということが分かった」
「それだけではありません。被害者の服装は白いワイシャツにズボン。ネクタイやベルト。上着を着用していません。それと被害者の首筋に口紅が付着しているのですよ。被害者が所持していた財布には二十万円が入っていたので、強盗殺人の線は薄いと思います。さらに不可解なのは被害者が携帯電話を所持していなかったこと。このご時世に珍しいと思いませんか。不倫を隠すために犯人が持ち去った可能性もあります」
「まだ分からないだろう。被害者に妻がいたとしたら、遺体に付着した口紅は被害者の妻の物かもしれない」
「それはありえません。その被害者の妻には、高校の同窓会に出席していたという鉄壁のアリバイがあるのですから。被害者遺族に合田が連絡したので間違いないかと」
「だったら妻が同窓会に出かける直前にキスをしたのかもしれない。スーツの上着とネクタイ、ベルトは何らかの理由で犯人が持ち去った」
「お言葉を返すようですが、ありえないと思います。北条の調べだと、被害者の首筋とワイシャツに付着した口紅は、死後四時間から三時間の間に付着したようですから。被害者の死亡推定時刻が午前一時。被害者の妻が出かけたのは三月九日の午前九時。彼女には犯行が不可能ということです」
「ただの不倫だと思うか。被害者は警察庁の公安に所属していた。そんな奴の不倫相手がスパイだったらどうする。スパイの有名な手口がハニートラップ。俗に言う色仕掛けだ。仮に石塚がスパイのハニートラップに引っかかって、警察組織の機密情報を漏らしたとしたら、かなりの不祥事になる」
「千間刑事部長は石塚を殺害した犯人がそのスパイだと言いたいのですか。スパイが石塚の拳銃を奪って、口封じのために殺害した」
「警察庁も隠蔽工作を始める頃だろう。警視庁としてもこの事件は隠蔽するに値する。ただの不倫だったら協力しないが」
「一番の問題は合田たち捜査一課をどうするか。彼らは一度事件に関わると、絶対に真実を明らかにするでしょう。マスコミには警察庁職員が殺害されたと話せばいいとして、彼らを何とかしないと隠蔽できません」
「分かった。この件は警察庁に任せよう。厄介な要素が多すぎて、胃腸の調子が悪くなった。胃薬を買ってきてくれないか。それと捜査本部はお前に任せる」
「分かりました」
喜田参事官は刑事部長室を退室すると、ある人物を呼び出すためにメールを打った。
『都内にいるのなら会いたい。日比谷公園の駐車場で待っている』
それから一分も経たない内に返信メールが届いた。
『分かりました。それでは午前十時。その場所で待っています。彼女と共に』
午前八時十分。警視庁捜査一課の木原弘明巡査部長と神津冬馬巡査部長は警察庁を訪問した。二人が警察庁のロビーで受付を済ませると、榊原刑事局長が二人の前に現れた。突然刑事局長が現れ、回りの警察庁職員は一斉に敬礼する。
「おはよう。お二人さん。例の殺人事件の捜査か」
「榊原刑事局長。そうです。今回はアポをとっています」
「公安絡みの事件か。大変だね」
榊原刑事局長が二人を労っていると、ロビーに黒いスーツを着た黒縁眼鏡の男が現れた。
「警視庁捜査一課の方ですか。私は石塚俊の上司の関口隼人です。応接室で話しましょうか」
関口は二人を応接室に案内する。高級なソファーと机が置かれている応接室。そのソファーに関口が座ると、彼の正面に位置するソファーに二人が腰かけた。
「早速ですが、昨晩品川埠頭で石塚俊さんが殺害されました。なぜ石塚さんが品川埠頭にいたのか。その理由が分かりますか」
品川埠頭と聞き、関口は顔色を変える。
「分かりません。プライベートのことでしょう」
「本当にそうですか。品川埠頭と聞いて、顔色を変えましたよね」
「思い出しただけです。九年前品川埠頭で彼の相棒安藤慶太が殉職しました。その時はテロ組織退屈な天使たちによる取引現場の張り込みをしていたのですが、組織のメンバーに見つかって殺害されました。偶然でしょう。同じ現場で彼が射殺されたということは」
「偶然とは思えないな。安藤慶太の殉職がこの殺人事件に関わっているのではないか」
「知りませんよ。あの事件で逆恨みする人なんているはずがないから」
「逆恨みですか」
「あの事件についてなら話せない。ペラペラ話したら厄介なことになりますから。別のことを聞いてください」
木原はもどかしく思いながら聞き込みを続ける。
「昨日石塚に変わったことはなかったのか」
「いつも通りですよ。違いは珍しく外食したことですね。いつもは愛妻弁当を食べていたのですが、昨日は牛丼店で食事をしていましたね。後で話しを聞くと、妻が高校の同窓会に出かけたから、昼食を外食にしろと言われたそうです」
「そうか。ということはあなたも昨日の昼が外食だったということか」
「それは違います。その話は部下の丸山綾乃から聞いた話ですから。丸山にも話を聞くのなら、呼び出しますよ」
「お願いしますが、その前にもう一つだけお聞きします。昨夜午前三時ごろどこで何をしていましたか」
「自宅で寝ていましたよ。証人はいませんが」
「もう一つだけ聞きたいことがある。石塚俊の不倫相手に心当たりがないのか」
「知りません。彼に不審相手がいるとは思いませんが」
「ありがとうございました。それでは丸山綾乃さんを呼んでいただいてよろしいですか」
「分かりました」
関口は応接室を出ていき、部屋の外で丸山に電話した。
「丸山さん。応接室に来てください。くれぐれもあのことは話さないでくださいね」
五分も経たない内に黒色のショートボブの女が警察庁の応接室を訪れた。
「失礼します。警察庁警備部公安課の丸山綾乃です。同僚の石塚俊についてですよね」
「そうです。それでは座ってください」
木原が着席を促すと、丸山はソファーに腰かけた。
「早速だが、昨日あなたは昼に牛丼店で食事をする石塚俊を目撃したそうだな。その時石塚俊は一人だったのか」
「いいえ。彼の隣には女性がいましたよ。黒いスーツを着た短髪の女です。もっとも石塚さんが座ったのはカウンター席で店内は満員。偶然開いていた席に彼女が座っただけかもしれませんが」
「その女性に見覚えはないのですか」
「知りませんよ」
「その店の名前は教えていただけませんか」
「ウメ屋です。警察庁から一番近い牛丼店の」
「なるほど。ところで安藤慶太という警察官についてご存じか」
「分かりません」
「石塚俊についてどう思う」
「ただの仲間であり、目標とする先輩でした」
「それと石塚俊は不倫をしていたらしいが、心当たりはないのか」
「不倫相手なんているはずがないでしょう。石塚さんは愛妻家ですから」
「最後に、昨夜午前三時ごろどこで何をしていましたか」
「自宅で寝ていましたよ。あいにく一人暮らしだから、証人もいませんが」
警視庁の事情聴取から解放された丸山綾乃は上司の関口隼人に呼び出された。
「大丈夫ですよね」
「はい。石塚俊とあの女が接触していたという情報を匂わせました。捜査線上にあの女が浮上するのも時間の問題かと」
「そうですか。これで痛み分けができる」
「考えましたね。この殺人事件を利用してあちら側に打撃を与える」
「こちら側だけの不祥事にすると困りますからね。これは警察庁上層部からの命令でもある。こちらはあのことを隠蔽できたらそれでいい」
「八嶋祐樹公安部長はあのことをご存じなのですか」
「知っている。お前が警視庁の刑事の取り調べを受けていた時に連絡しておいた。あいつのことだから、警視庁捜査一課の捜査から広瀬佳奈を守る。あいつは必ず彼女に捜査の手が伸びないように隠蔽するでしょう。絶対に取り調べなんてさせない」
「捜査一課は事件の真相を解き明かすことが困難になるということですね。捜査一課ができるのは、彼の妻からの聴取。現場から発見された遺留品の解析。昨日の彼の足取り捜査。これだけです。さすがにこれだけでは真実を解き明かすことはできないでしょう」
「理屈ではそうですが、一応手を打ちましょう。彼らとの交流が深い浅野房栄公安調査庁長官に電話します。警察庁として公安調査庁にも恩を売りたいですし」
関口隼人は浅野房栄に電話する。だが何回やっても彼女に電話が届かない。
関口隼人が浅野房栄に電話を掛けた同時刻。公安調査庁長官は秘書の遠藤アリスが運転する自動車の中で別の人物からの電話を受けていた。
「分かったのよ」
後部座席に座っている浅野房栄は自動車を運転している遠藤アリスに指示する。
「霞が関二丁目にあるヒマワリっていうドラッグストアに向かってほしいの。構わないよね。これから霞が関一丁目にある公安調査庁に戻る通り道にあるから」
木原と神津は、警察庁での聞き込みの後、被害者の石塚俊が立ち寄った牛丼店ウメ屋を訪れた。
二人は店内に入ると警察手帳を店員に見せる。
「警視庁捜査一課の木原です。この男に見覚えがありませんか」
木原はポケットから取り出した石塚俊の写真を店員に見せる。
「ああ。あの人ですね。確か昨日の正午くらいに来ましたよ。奇妙な注文をしたので覚えています」
「奇妙な注文というのは何でしょう」
「来てください。そのお客さんが座った席に案内しますから」
二人は店員に連れられて、石塚俊が座ったカウンター席に案内された。
「この席の右隣に黒いスーツを着た女性が座りました。このお客様はその女性を奢ったのですよ。その女性はこのお客様が来店してから十分後に来店しました。それから一分くらいひそひそ話をした後、お客様はその女性の領収書を奪って、会計をしたんです。彼女の食事代は俺が払うって」
「その様子は防犯カメラに映っていないのか」
「もちろん。映っていますよ。捜査協力として映像をお貸ししますが」
「お願いします」
木原と神津が牛丼店ウメ屋から防犯カメラの映像を受け取り、警視庁に戻ろうとしていた頃、喜田参事官はドラッグストアヒマワリの駐車場に停車した自動車に乗り込んだ。その車内には、浅野房栄がいる。後部座席に座っている彼女の隣に喜田参事官は座った。
「走りながら話しましょう。警視庁まで送ってもらいたいからね」
「タクシー代わりに呼び出すなんて。随分出世したのね。参事官のくせに」
「無駄話は時間の無駄ですよ。走らせて。ここから警視庁まで車で十分くらいかかるから」
遠藤アリスは車を走らせる。その車内で浅野房栄公安調査庁長官と喜田参事官は密談を行う。
「それで話したいことというのは何なの」
「平成十六年。三月九日。品川埠頭で若い警察官が殉職。それから九年後その事件の関係者が同じ現場で殺害されました。九年前の事件はテロ組織退屈な天使が関わっているようです」
「それで」
「この殺人事件の捜査に協力してほしい。相手は警察庁警備部公安課と警視庁公安部。おそらくこの事件の背後にはあなたが求めている物が隠されていると思います。それが警察庁に潰されるのは悔しいでしょう。僕個人としては、あなたの陰謀に協力したいと考えています」
「面白いね。私が求めている物があなたに分かるのかしら」
「はい。分かりますよ。あなたと殺された石塚俊にはミッシングリンクがあるようですからね」
「あら。そんな人しらないけど」
「だから言ったでしょう。隠された繋がりだって。それは面識を意味しているとは限らない」
同盟が結ばれたところで喜田参事官は遠藤アリスに声をかける。
「警視庁近くの日比谷公園の駐車場で下して。お話は終わったから」
「分かりました」
喜田参事官を乗せた自動車が日比谷公園の駐車場に停まった。
「後は歩いて帰ります」
喜田参事官は浅野房栄に伝え、自動車を見送った。その直後白いランボルギーニ・ガヤンドが日比谷公園の駐車場に停車した。喜田はその車を見つけると、その車のドアを叩く。すると運転席から一人の男が顔を出した。その男の服装は灰色のスーツ。この男の名前は愛澤春樹。テロ組織退屈な天使たちのメンバーでコードネームはラグエル。喜田参事官自身もこの組織のメンバーで、組織の仲間からはアズラエルと呼ばれている。
「結構早かったですね。後部座席に座ってください。助手席には彼女が座っているので」
「日向沙織ですよね。彼女は指名手配犯ですよ。そんな彼女を連れまわして大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。いざとなったら僕が彼女を守りますから」
「本気ですか。そんなことを言えば亡くなったあなたの妻が悲しむと思いますが」
「あの結婚はお見合いを強引に決めたあなたが悪い。あのお見合いがとんとん拍子に進んで結婚したのですから」
「だったら断ったらよかったでしょう」
「九年前は彼女が死んだと思っていました。だから諦めて亡くなった妻と結婚をしたのですよ。まさかそれが僕を呼び出した理由ですか」
「違う。話は車に乗ってからです」
喜田が後部座席に座ると愛澤は運転席に乗り込んだ。
「紹介します。警察関係者のアズラエルです」
助手席に座っている日向沙織は警察関係者と聞きおびえる。その様子を見てラグエルは声をかけた。
「大丈夫ですよ。彼は我々の仲間ですから」
「よかった。それなら安心できます」
日向沙織が安心すると、アズラエルは口を開いた。
「君を呼び出したのは他でもない。昨日品川埠頭で殺人事件が発生しました。事件発生当時現場には組織の仲間が張り込みを続けていた。もう分かりますよね」
「その仲間が殺人犯を目撃していないのかを確認しろということですね。あなたは我々を私物化しようとしているのですか」
「頼みますよ」
「それなら日向沙織の指名手配を取り下げてください」
「そんなことはできない」
「できますよね。彼女が死んだように偽装すれば、被疑者死亡で書類送検できる。目撃者として警察関係者を選べば完璧だと思いますが」
「それをするなら個人的にやってください」
その言葉を聞きラグエルが笑った。
「冗談ですよ。大体隠蔽が嫌いな僕が隠蔽に加担するはずがないではありませんか。報酬はバーボンウイスキーで構いません」
「ありがとう。ところでそちらの仕事は進んでいるのか」
「はい。こっちはあの人物の根城を突き止めたところです」
「分かった。目撃者探しを頼む」
喜田参事官は指示を伝えると、車から降りた。そして白いランボルギーニ・ガヤンドは公園を出発する。
遠ざかっていく自動車を見ながら喜田参事官は歩き出した。これから喜田参事官は歩いて警視庁に戻る。
その頃木原と神津は警視庁捜査一課に戻った。三係の一室には、係長である合田武人警部と、犯行現場の実況見分をしていた大野達郎警部補と沖矢亨巡査部長。さらに鑑識の清原ナギ巡査部長の姿がある。
「合田警部。戻りました」
「ご苦労。警察庁での聞き込みに成果があったのか」
「はい。警察庁警備部公安課の関口隼人と丸山綾乃に話を聞きました。昨日被害者に変わったことはなかったそうです。強いていうなら、昨日の昼被害者はある女性に牛丼を奢ったということ。その女性の身元は不明ですが、牛丼店から防犯カメラの映像を借りてきたので解析をお願いします。それと関口隼人から聞いた話ですが、犯行現場の品川埠頭で九年前被害者の相棒が殉職したそうです。気になりますよね」
その木原からの報告を聞いた大野は彼に続くように報告を始めた。
「そこが犯行動機に繋がるということですか。こっちは現場を調べて面白いことが分かりましたよ」
「面白いことというのは何だ」
「携帯電話ですよ。被害者の携帯電話から一人の女性の写真が発見されました。これが携帯電話に保存されていた女性の写真です」
大野はその写真を木原たちに見せる。そこにはおかっぱ頭の女性が映っていた。
「待て。この女に見覚えがある」
神津は牛丼店から借りた防犯カメラの映像が記録されたDVDをノートパソコンで再生する。そこには写真の女性と瓜二つの人物が注文した牛丼を奢る石塚俊の姿があった。
「やっぱり。そっくりだ。その女性は誰だ」
神津の質問に大野が沈黙すると、代わりに合田が咳払いした。
「警視庁公安部の広瀬佳奈警部。警視庁のコンピュータで照合したから間違いない。おそらく石塚の不倫相手は広瀬佳奈だろう。その証拠に彼の携帯電話には彼女のメールアドレスが記録されている。それに木原と神津が手に入れた目撃証言を加えれば、疑惑が強まる」
「つまり合田警部は石塚を殺害した犯人が広瀬佳奈だと思うのですか。それが事実だとすれば、不祥事ですよね」
「広瀬佳奈は警察官。それが真実なら、警察官が警察関係者を殺害したことになる。この事実を受け、千間刑事部長は隠密に捜査するよう指示を出した。マスコミの取材はノーコメントで通す」
「千間刑事部長はこの殺人事件を隠蔽したいらしいな」
「それだけではない。警察庁も同時に隠蔽工作を行うだろう。つまりこの殺人事件に隠された真実を明らかにするためには、警察庁と警視庁の上層部を敵にしなければならないということだ」