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第3章

 そして、春就職に行った息子、翔太が帰省してくることになった。

どうしようか。恵利子を紹介したほうがいいだろうか。

恵利子にそのことを話すと、

「ぜひ会ってみたいね」と言われ、紹介することにしたけど恥ずかしいのが先にたって、中々言えず、

帰省する前日にやっとメールで

「実は、会わせたい人がいるんだけど、会ってみる?」と送った。

「えぇ~マジで、じゃ楽しみにしてるから」とすぐ返信が来た。

よかったと一安心したものの、不安で不安で仕方なかった。

 

 そして不安やら恥ずかしいやらで、次の日を迎えた。

和男が駅まで迎えに行っている間、恵利子は食事を作って待っていることにしてくれた。

「おぉ!」翔太は左手にお土産らしき紙袋を持ち、肩にはボストンバックをかけ、右手を上げ、出発した時とはまったく違う笑顔で帰ってきた。

わずか5ヵ月足らずだが、少しは大人になったみたいでうれしいやら何やらで、

安心したかのように和男の顔もにやけていき、「おぉ~」って右手を上げた。

荷物を車のトランクにしまい、助手席に座った翔太をマジマジ見つめ


「少し痩せたか?」

「ちょっと痩せたかも」

「そっか、まぁ元気そうでよかったな」

「まぁ何とかな。友達に土産買ってきたんで、ちょっと先に寄って行くから」

「おぉ~そっか。意外といいとこあるんでないかい」


和男は、にやけた顔のまま用意しておいた缶コーヒーを渡した。


「で、お父さん彼女できたの?」とエヘラエヘラ笑う翔太に

「ん・・・あぁ~・・・まぁな・・・」

「おぉ~すげぇ~よかったじゃん」

「ん、そっか」


翔太の笑いは止まらず、緊張していた和男も、つられてつい笑ってしまった。


「実は、今日家に来ているんだ」

「えぇ、マジ?恥ずかしいなぁ~」

「お父さんのほうが、恥ずかしいよ」でも、これで和男の不安は吹っ飛んでいった。

着ている服も、ちょっとおしゃれになったというか、髪型もまたちょっと変わった。

東京に馴染んでいく姿が、ほっとさせる。言葉は、さすがにまだまだ訛りがあるけど。

風合瀬海岸のあたりまで来ると、いつもの夕陽が赤く燃えている。


「ちょっと止まって」翔太は、携帯で夕陽を撮る。

「一緒に写真撮ろうか」

「え~・・・やだよ」

「まぁ、たまにはいいだろな。デジカメもあるし」和男は、車に置きっぱなしのデジカメを取り出す。

そしてセルフの設定にし、車の屋根にデジカメをセットする。

「いくよ。10秒だからな」

カシャッ。グーサインをする父と子。

「よし、もう一枚」またグーサインをする父と子。

それなりにいい笑顔だ。デジカメを覗き和男は思う。

そして、どこかで見たことのある光景。

そう、翔太が就職に行ったあの日、ここで同じような光景を見たんだっけ。


「お父さん、どうした?」

その日のことをふと思い出し、にやけている和男に翔太は言う。

「いや、別に・・・」と言う和男を見て、翔太は首をかしげる。

「じゃ、帰るか」

夕陽が沈む海岸通りを車は、爽快に走っていく。


 家に着くと、恵利子が玄関まで出迎えてくれた。

まるで翔太が、二人の子供であるかのように。

そして「おかえり」と。

「あ・・・どうも・・・ただいま」と翔太は固まっていたけど、何とか言えたようだった。

それをさっしてか恵利子は、翔太の持っている荷物にさっと手をかけ

「自分の家なんだから早く入れば、和男さんも早く」

和男はこういう場合、どうしたらいいかわからず、恵利子の言うがままになっていった。

「お腹空いたでしょ、ご飯できてるからね」

和男と翔太は、お互いまだ固まったままテーブルについた。

恵利子が言うように自分の家なのに、なぜか緊張し落ち着かない。

女っけもなく、男二人だけの生活が長かったから尚更のことであろう。


「何が好きかちょっとわからなくって、これでよければいっぱい食べてね」

「ん・・・どうも。いただきます」


翔太は、一口・二口食べて「うん、おいしい」と言うと、固まった顔も緩んでいった。

けど和男は、何を言い、どうしたらいいかまだわからず、テーブルのご馳走を眺めているだけだった。


「和男さんも食べたら」

「おぉ~そうだな」あわてて箸を取り、一口食べる。

「おぉ~う・・・うまい」

「はぁ~よかった」と恵利子は、和男たちが食べている姿を見て微笑んでいた。

「私も食べようかなっと」

「おぉ、恵利子さんも早く食べれば」

和男は、恵利子が食べていないことに全然気づかず、それだけ緊張していたのである。

「ん?・・・ちょっと味薄いかな?」

「いや、全然そんなことないよ。うまいよ」

翔太は言い、ほんとにおいしそうに食べていた。

相変わらず和男は、二人の顔色を覗うようにキョロキョロしながら遠慮がちに食べていた。

翔太は恵利子に仕事のことや、向こうでの生活のことなど聞かれ、時に笑い答えていた。

ん~ってうなずきながら、「がんばってね」って恵利子に言われ、

「おぉ」って返事をしいる翔太が、和男と恵利子の子供でないのが不思議なくらいであった。


 翔太は、恵利子のことをどう思ってくれただろうか、

和男はただそれだけが気がかりでしようがなかった。

ご飯が終わってまもなく友達が迎えに来て翔太は出かけて行った。


「恵利子さん、ありがとう」

「え、何が?」

「もし、恵利子さんがいなかったら、男二人何もおもしろくないからね」

「私こそ、翔太君に会えてうれしいよ」

「恵利子さん・・・」

「でも、翔太君どう思ったかな」

「大丈夫、でもこの前と反対だね。俺が初めて恵利子さんとこ行った日とね」

「でも心配だなぁ~あんなおばちゃんって思っているかな」

「大丈夫、おばちゃんはおばちゃんでしょ」

「えぇ~それはそうだけど、和男さん、私のことそんなふうに思っているの」

「いや、いや、違うよ、違うったら」

「和男さんだっておじちゃんでしょ、フン」

「そりゃ、そうだけど」


二人は、おかしくなって笑い転げた。

二人で一緒に食器を洗ったり拭いたり、後片付けをしながらも、

おじちゃんか、おばちゃんかってまだ笑っていた。

和男は恵利子を家まで送って行き

「今日は、本当にお疲れ様、ありがとうね」

「はぁ~でも大丈夫かな」

「大丈夫、翔太はもう社会人だし問題ないって、娘さんの奈央ちゃんのほうが心配だよ」

「奈央は、いいの、問題なしよ」

「大丈夫、じゃまた」

「うん、おやすみなさい」

そう言って、手を振る恵利子が家に入るのを見届けてから、和男は家に帰って行った。


 翔太は、友達のところに泊まりであり、一番心配していたことが、何とか無事終わって和男は、普段あまり飲まないビールを開ける。

そのビールのうまいこと、実に爽快な気分というのは、こういうことかと思った。

 

 翌日、和男が台所で夕飯の準備をしていると翔太は帰って来た。


「今日、何?」

「おぉ、久しぶりに聞いたな今の言葉。ん~きのこと豚肉の炒め物・・・だけ」

「まぁ~いいっか。で、よかったね。恵利子さんいい人みたいだし、何かもったいなくない?しっかりしないとまたダメになるよ」とニヤニヤしながら冷蔵庫から麦茶を取り出し言った。

和男は、知らないふりをし、「さぁ、できたぞ、飯食うか」とごまかした。

二人っきりで飯を食うのも久しぶりだけど、以前と違って明るくて、会話も進んだ。

でも、恵利子のことは話題にしないよう和男は話をそらすのに精一杯だった。


「そんでどうだ?東京でやっていけるか?」

「まぁ、何とかなるから大丈夫。全然心配いらないよ」

「お、そっか」

「お父さんこそ、大丈夫?」

「俺は余裕」

「まぁ、恵利子さんいるしね」

「おい、それは・・・関係ないよ」

「これで俺も安心したよ。まぁ、末長く健康第一でね」面と向かって言うのは恥ずかしいもので、翔太は麦茶を冷蔵庫に取りに行きながら言った。

「だから、俺はまだまだ余裕だっつうの」

とは言いながらも、翔太の何気ない一言に和男はうれしかった。


 後片付けも終わり、和男は恵利子に

「翔太に、恵利子さんいい人だし、何かもったいないね。

しっかりしないとって言われたよ」とメールを送った。

「ほんと?よかったぁ~うれしい。翔太君によろしくね」って返事が返ってきた。


 次の日、翔太はスーパーで恵利子に会ったらしく

「この前はどうも、おいしかったよ」って言ったみたいで

「翔太君来たよ」ってうれしそうにメールがきて、携帯の受信画面を見ている和男は、もっとうれしくて仕方なかったけど「そっか」と一言だけ送信したのである。

 お盆に行われる町の花火大会に和男と恵利子は出かけた。

偶然、友達と一緒にいる翔太と会い、二人はかき氷を買ってもらった。

 

「翔太君、ありがとう」って食べる恵利子の笑顔は、花火のようにきれいだった。

「じゃ」と友達のところに行く翔太に、恵利子は手を振っていた。

「あ、お母さんいいもの食べてる」奈央がやってきて、恵利子のかき氷を一口食べる。

「奈央ちゃん、何人?」和男は後ろポケットに手をやり言う。

「三人だけど」

「じゃ、これで間に合うね。みんなで好きな物でも買って」と千円渡す。

「え、いいよ」

「子供は、遠慮するもんじゃないの」

「じゃ、もらってく。ありがとうね工藤さん」そう言い、奈央も友達の所へ走って行った。

「奈央ったら」恵利子は、和男を見つめて言う。


 こうして花火を見るのも何年ぶりだろうか。

短い北国の夏も、もうすぐ終わろうとしている。

来年も再来年もまた次の年も、こうしていれるだろうかと和男は思っていた。

「わぁ~きれい」って空を見上げる恵利子の横顔を見つめながら・・・。


 そうして翔太の短いお盆休みも終わり、東京に帰って行く日が来た。

恵利子も駅まで一緒に見送りしたかったけど、仕事で行けず申し訳なさそうに言っていた。

けど朝早く、恵利子はやって来て

「翔太君、これ後で食べてね」って弁当を作って持って来てくれた。

「えぇ~悪いね。ありがとう」男はどうしてこんな時照れるのだろう。

恥ずかしいのか翔太の顔は、ぽっと赤くなっていた。

「翔太君、体に気をつけてね」和男の車に乗り込んだ翔太は窓を開け

「うん。・・・恵利子さん・・・親父よろしくね」

「翔太君ったら・・・」うんうんと頷く恵利子の目は、なぜか潤んでいた。


 青森駅に着き、入場券を買い和男は改札口を通りホームまで入っていく。


「がんばれよ」と言うと

「お父さんもな」って意味ありげに笑っていた。

「正月は?」

「ん~冬は寒いし、多分来ないかな?」

「そっか。じゃ、来年のお盆か」

「うん、多分」

「そっか、わかった。体に気をつけてがんばるんだぞ、たまにメールでもくれよな」

「おぉ!大丈夫、心配しなくていいから、自分のことでも心配してりゃいいよ」

「おまえも、いつのまに・・・こんなんなってくれて、ほんとに・・・」

「お父さんがこうだから・・・なぁ」


 翔太は、5ヵ月前とは随分と変わって大人になったなぁと和男はうれしくてしようがなかった。そんな翔太が言うように、和男は、翔太は大丈夫。

これからは自分のこと考えていかなきゃいけないなぁと思った。


 列車が入り、「せば、行ってくるじゃ。恵利子さんにホントよろしくね」と手を振り、翔太は列車の中に入っていった。

5ヵ月前、翔太が東京へ向かった日とは違い、和男の心は穏やかな気持ちでいっぱいで、見えなくなるまで大きく手を振っていた。

5ヵ月前はかわいそうに思えて出た涙も、今日はうれしい涙が出そうで和男は、鼻をすすった。

これもすべて、恵利子と出会えたからである。でなきゃどんなお盆を過ごしていたであろうか。

すべて恵利子に感謝しないとな。

駐車場までの道程、いつにもなく青い空が気持ちいい。


 帰り道、いつもの夕陽に車を止め、周りに誰もいないのを確かめ意味もなく「わぁ~」って叫んだ。

なぜこんなに気持ちがいいのか。とにかく最高に気持ちがいい。

人生って最高だ。

いつ何が起こるかわからない、それが人生だ。

嫌なこと、辛いことはいっぱいあるけどそれも人生。

捨てたもんじゃない。ありがとうな。

すると携帯が短く鳴った。開くと翔太からのメールである。

「今、着いた」そっか、もう着いたか。

青森駅から家に帰るまでの間に、新幹線は東京に着いてしまう。

東京と青森、遠いようで近いし、一度は東京に行ってみるのも悪くないかな、東京タワーとかも行ってみたいし、でも翔太は嫌がるだろうな。

そう思う心も、躍っている。

「体に気をつけてがんばれよ」と返信すると、「おぉ!」って返ってきた。

水平線に沈みかけた夕陽の前を、大きな船がゆっくりと通り過ぎて行く。

カラスも家に帰るのだろうか。その前をカァ~カァ~泣きながら飛んでいく。

夏もそろそろ終わりなのか。風もちょっと涼しくなったかなと感じる。

さぁ、家に帰ろうか。

 

 さらに和男たちは、毎日のように会うようになり、恵利子のアパートで、奈央ちゃんと三人で食事をしたり、時には恵利子が家に来て食事を作ってくれて一緒に食べたり、和男がいない時は、勝手に入り込んで食事を作ってくれていたり、毎日がどうしようもないほど楽しくてしようがなかった。

間に入ってくれたおせっかい由香は、いつもスーパーで会うたび

「いいなぁ~うらやましいなぁ~」と言うけど、本当に喜んでくれた。

「由香、今日すんごくかわいいね」

「え、今日?」

「あ、間違った。いつもよりずうっとだった」

和男と由香の仲も今までとまったく変わらず同じだし、職場でも由香と恵利子は仲良くうまくいっているようで、和男と恵利子の二人の会話に由香が出てくることも少なくなかった。

由香にありがとうと思っているのは、二人とも一緒だった。



 そして雪がちらつき始め、雪国には当然のように厳しくて寒い冬がやってきた。

冬の海は荒々しくてそしてたくましい。

冬の海辺に立つ和男を、雪が横から降って来ては顔を叩いていく。

寒いというより痛い。でもその痛さがまた生きていることを実感させる。

どのくらい立っただろうか。

夏の海も冬の海も、なぜこんなに見続けても飽きないのだろう。

この海の先って一体どうなっているのだろうって子供の頃よく思っていたものだ。

この先にまた違う国があるなんてとても考えられず、この海は永遠に続くものだと思っていた。

今でも、そう感じさせる海は不思議で偉大だ。

また海はすべて飲み込み、いらないものは吐き出してしまう。

冬が終わり、春が来るころになれば、海辺一帯はゴミの山となる。

どこから来たのだろうかと思うぐらい考えられないもので溢れる。

それは人の心も同じだ。海はすべて飲み込み、いらないものを吐き出してくれる。人は何となくそれがわかっているのか、海にすべて飲み込んでほしくてやってくるかのようである。時には、涙さえ飲み込んでくれる。

海がしょっぱいのはその涙なのかもしれない。

穏やかな日もあれば、大荒れの日もある。

女性に見える日もあれば、男性に見える日もある。

子供に見える日もあれば、大人に見える日もある。

海はその人の鏡なのかもしれない。

鏡をじっと見ていると、自分の心が見えるように、海もまたその人の心を開かせてくれる。

そこには、言葉は必要ない。だからか、海はいつまで見ていても飽きないのは。


 そして人はまたやって来る。

飲み込んでもらうためじゃなく、飲み込んでもらったお礼に来るかのように。和男も同じだった。

この一年を思い出し、荒れた海をただじっと見つめていた。

今までとはまったく違った一人の中年の男性がそこにいた。


 楽しいその年も終わり、新しい年がやってきた。

和男と恵利子は、一緒に初詣に出かけた。


「初詣も何年ぶりかな」

「私も・・・私たちって、何でも数年ぶりなのね」笑う恵利子に和男は

「ガッハハア、だよなぁ~」と笑う。

「和男さん、何お願いしたかなぁ~」

「ん、教えない・・・よ~だ」

「じゃ、私も教えな~い」

「恵利子さんとずうと幸せでいれますようにってお願いしたに決まってるじゃない」

「ダメ、ダメ、これからのことお願いしたんじゃダメなの、みんなお願いばっかりしている人たちでいっぱいなんだから。神様も大変なのよ、こういう時はね、感謝なのよ、感謝しなくっちゃ」

「感謝って?」

「和男さんと出会えてありがとうってね」


 そう言って見つめる恵利子が何ともういういしくてたまらない。

けど和男は「神様ありがとう」じゃなく

「恵利子さんありがとう」ともう一度賽銭を入れ、ガランガランと鐘を鳴らし、二礼二拍手し一礼したのである。

雪がふわふわと静かに降って落ちてくる。

空を見上げ、和男は大きく口を開ける。

冷たいのがまた心地よく、静かに降る雪が口の中に入って溶けていく。

そしてまつ毛に優しく積っていく。

恵利子もまた、今年はもっといいことありそうねって空を見上げた。

雪の精が空を見上げている二人の上でキラキラと舞っている。

そして、二人を包み込むようにグルグル舞い躍っている。

二人は見つめ合い、また空を見上げる。


「おみくじでも引く?」

「うん」

二人はそれぞれ大吉が出ますようにと願いを込めて、おみくじを引いた。

「お!やった。大吉だ」和男は子供のようにはしゃいだ。

「恵利子さんは、何?」

「ん~凶だって」少し落ち込んでいたけど、いつもの明るさで

「まぁ、神様も忙しくて間違うこともあるしね」


 それが、二人の運命だったのだろうか。

実はその頃から、恵利子には言わないけれど、和男の体調はあまりいいものではなかった。

風邪なのか、時々微熱も出て咳が止まらない日も続いた。

でも、しばらくするとすっかり良くなり、ただの風邪だと思い、病院嫌いの和男にとっては助かったものだった。

ここ数年、風邪はもちろん病院に行くこともなかっただけに。

 


 月日の立つのは早いもので、今日は、奈央の卒業式である。

卒業式も無事終わったかなと、仕事をさっさと終わらせ、大きなケーキと少しのお祝い金を持って恵利子のアパートに急いで向かった。


「奈央ちゃん、卒業おめでとう」

「工藤さん、ありがとう」

「これから送別会なんだけど、このケーキ持って行ってもいいかな」

「いいんじゃないの。友達と食べるのもおいしいからね」

「ん、じゃ持って行く。でもこれ受け取れないよ」と言い、お祝い金を差し出す。

「いいんだよ。俺の気持ちだから」

奈央は、恵利子にどうしようかというかのように困った顔をする。

「和男さんの気持ちだから、受け取ってもいいんじゃない」

「・・・・・・」

「ほら、早く行かないと送別会遅れちゃうよ」和男が言うと、奈央は時計を見る。

「和男さん、本当にありがとう」奈央は、深く丁寧にお辞儀をする。

「いや、いや、奈央ちゃんこそがんばったからね。でも、これからもっと大変だけど、今の調子でがんばれば、きっと大丈夫だよ」

「ん、がんばらなきゃね」

「うん」

「じゃ、行ってくるね」

「楽しんでこいよ」

「あまり、ハメはずさないようにね」と恵利子が言うと

「はい。はい。あ、それから和男さん、お母さんよろしくね。じゃ、行ってくる」

「えぇ・・・・・」と和男がびっくりすると

「ば~か」と恵利子が舌を出して言っていた。

「恵利子さんに、ほんとそっくりだね、奈央ちゃん」

「ほんとに馬鹿なんだから。で、和男さんと言わなかった?」

「あ、そう言えば・・・」妙に照れくさくて、顔が赤くなっていった。


 二人っきりになり、間が悪くなると和男は


「結婚しようか、いや、結婚してくれないかな、バツイチだけど・・・」

「えぇ?私もバツイチよ。ついでに和男さんと同じコブ付きよ。

こちらこそ私でよければよろしくお願いします」

「恵利子さん、ありがとう。でも婚約指輪もうちょっと待ってくれないかな」

「和男さん、婚約指輪なんていいよ。お互い2回目だし」

「でも、そういうわけには・・・」

「いいの、私、幸せよ」

「じゃ、いつか必ず。買ってやるからごめんね」

「じゃ、今度から、さん付けはなしで、恵利子って呼んでね」

「え?・・・じゃ、恵利子、ありがとう」

「私こそ、ありがとう。あなた」

「あ・な・た?」

「和男さんはおかしいから、今度からあなたって言わせてもらうね」


 そんな二人は、年甲斐もなく抱き合っていた。

ただこうしているだけで何もかも忘れられる。

人は生きているうちに、いくつか幸せを感じる時がやってくる。

波が打ち寄せは引いて、打ち寄せては引くように。

辛いことがあった後は、必ず幸せがやってくる。

早かろうが遅かろうが必ずやってくる。

そう、必ずやってくる。

 

 そして、奈央が東京に向かう日がやって来た。

東京で働きながら、美容師を目指すということである。

その日、和男は無理して何とか仕事を休み、一緒に見送りに行くことにした。

子供を就職に送り出す親の気持ちが痛いほどわかるだけに。

また少しでも恵利子の支えになってあげることができたらと思い、そして何より、普通の家族のように普通に見送りできたらいいなと思ったからである。


 去年のように、ホームに列車が入ってきた。

周りは去年と同じだ。家族や友達に見送られ泣いているのか、笑っているのか。

ただ違うのは、奈央の友達も見送りに来てくれて、父と母がいて普通の家族のように見えること。

そう、父と母がいる。本当も嘘もない。父と母のように見える家族がいる。

写メを撮り合っている奈央たち、見ているだけでも心が和む。


「おじさん、おばさん並んで、奈央と一緒に写真撮るから」

「え?・・・」

「いいから早く、早く」

和男と恵利子は、恥ずかしそうに並ぶ。緊張しているのがわかりすぎる。

「じゃ、ピース。ピース」

友達の言うとおりに二人は、ひきつったままピースをする。

「あとで奈央に送るから、奈央もあとで送ってやって」

「うん。じゃ、行ってくるね」

「奈央、体に気をつけるんだよ」

「大丈夫、お母さんこそ大事にね」

「奈央ちゃん、ほんとがんばってや、何かあったらすぐ連絡よこすんだよ」

「うん、和男さんもお母さんよろしくね」

「えぇ、こっちは心配いらないから、あまり無理しないで」

「もう、二人ともそんなに心配しなくていいって。じゃ、行って来るね」

「奈央ちゃん、あっちで会おうね」友達は泣いている。

「うん、先に行ってるよ」友達にピースする奈央も、さすがに涙をこらえているのがよくわかる。

けど、いつもと変わらないように無理して微笑みながら列車の中に入って行った。


 和男と恵利子は、席に着いた奈央の窓まで向かい、

「がんばって、がんばって」ただそれだけ繰り返し言っていた。

声になっては聞こえないものの、口の動きで何を言っているかわかるほど繰り返し繰り返し言っていた。恵利子は今にも号泣しそうに、目を真っ赤にしていた。

奈央は、「うん、うん」と大きくうなずき、涙を必死でこらえているのがよくわかる。だからこそ、最高の笑顔で手を振っていた。

和男と恵利子は、列車が見えなくなるまで手を振り続けていた。

旅立ちのこの瞬間、親としてはとても複雑だ。

もちろん、それ以上に子供たちにとっては、もっと複雑なものがあるであろう。

けど、誰もが通る道である。

いつか素晴らしい思い出になるのを、この時は誰も知らない。

経験したものでないと知らない。

だから和男は、知っていた。

恵利子にとっても奈央にとってもこれが素晴らしい思い出の一つになることを。


「みんな、ありがとう」恵利子は、涙を拭きながら友達にお礼を言いお辞儀をする。

「おばさん、奈央ちゃんとは、ずうっと向こう行ってからも友達だからね」

「ありがと。これからも、よろしく頼むね」

「うん、じゃ帰るね。おばさんも元気で」

「うん、ほんとありがとう」

「奈央ちゃん、行っちゃったなぁ~」

和男が言うと、恵利子は、また泣きだし言った。

「何か、かわいそう」

「ん、同じ気持ちだよ、変な言い方だけど、かわいそうに見えるんだね」

「大丈夫かしら」

「奈央ちゃんは大丈夫、絶対大丈夫だよ」

和男は、また泣き始めた恵利子の肩にそっと手をかけ

「帰ろうか」と言うと、恵利子はうなずき二人肩を寄せ合ってホームを後にした。

 

 そして、恵利子も一人だけの生活が始まった。

自由なようで自由でない。気楽なようで気楽でない。

本当はさびしく不安な一人暮らし。

けど違った。

恵利子の笑顔がすべてを語っていた。

それは恵利子だけじゃなく、和男も一緒だった。

そしてお互い家を行ったり来たりする日々が続いた。

いずれは、きちんと籍を入れることにしていたし、

回りの友達も「おぉ~よかったなぁ」って冷やかしながらも言ってくれた。

特に由香は「今度は絶対幸せになってね」って言ってくれたし、

「でも私を、忘れたら許さないから」といつもと変わらないのが、またとてもうれしかった。

 

 家に帰ると明かりの点いている日がある。

ごく普通のことなのに、これがどんなにうれしいか、そしてどんなに幸せなことなのか。

前にもそういう生活はあったけど、当たり前のことのように何も思わなくなっていた。

家の玄関の前で、暖かい明りを見つめ立ち止まることもあった。

「ただいま」って言うのが、無性に照れくさくて小さな声で言ったものだ。

そして、すぐ晩御飯を食べられることの幸せ。

誰かと一緒に食べることの幸せ、世間話をしながら笑い食べる幸せ、そんな当たり前のことが、うれしいし、何より楽しかった。

しかし、明かりの点いていない日もある。

そういう日は、恵利子が遅番で仕事中だとわかっていても、正直ちょっと寂しかったりする。これもまた、男の勝手ってやつだろう。

そんな時は、食べなれたインスタント食品で済ませることが多かった。

 

 実はその頃、以前にもまして和男の体調はあまりよくなく、

いつものように微熱や咳が続いていた。

また風邪かな、歳をとると風邪もひきやすく、体も弱くなるのかなと思っていた。仕事もトラックの運転手なので、休むこともできず、風邪薬ばかり飲んで出かけていた。その日も、風邪薬を飲んで仕事に出かけ、何とか1日無事終わり帰ってくると、いつものように家に明かりが点いていて、恵利子がいつもの笑顔で迎えてくれた。


 食事の用意もできていたけど、一口食べて

「悪いけど、風邪引いたみたいで・・・」

「じゃ、おじや作ってあげるから、無理してでも食べてから寝なきゃ」

そう言って、すぐおじやを作ってくれた。

和男は、恵利子が作ってくれたおじやを何とか全部食べ終わると

「悪いけど寝るかな」

「明日お休みでしょ、病院行かなくちゃ」

「一晩寝ればすぐ直るよ」

「ダメ、ダメ、歳なんだから病院行くの」

「あぁ~わかった、行ってくるよ」

「あ、その前に熱は?、体温計はどこ?」

「この前、探したけどなくて」

恵利子は、和男の額に手を当てて

「ちょっと熱っぽいね」

「そうかなぁ~でも、ほんと大丈夫だから」

「じゃ、明日体温計買ってくるね」

「あぁ~悪いね」

「とにかく病院必ず行ってよ」


 和男が、布団に入るのを見とどけてから、恵利子は後片付けをし

「じゃ、明日また来るからね」って言い、帰って行った。


 次の日、病院に行くわけもなく、和男はずうっと寝ていて、目が覚めるともう夕方だった。

恵利子が来る前に起きなきゃと思い、体のだるさを感じたままやっとの思いで起き、何か食べなきゃと冷蔵庫を開ける。

卵かけご飯でも食べようかと、ご飯を少しだけ茶碗に盛り、卵をかけてかき混ぜていると


「どう、よくなった?」とあわててるかのように恵利子が来た。

「ん、だいぶ良くなったよ」

「病院行ってきた?」

「ん・・・・・ん」

「行ってないんでしょ」

「ん、まぁ~でもほら、元気元気」

「体温計買ってきたから、計ってみて」

言うとおりに体温計を当て、

「大丈夫だって」って、苦笑いし、しばらくじっとしていた。

「6度8分、ほらほら大丈夫やで」

「でも、卵かけご飯はよくないよ。何か作ってやるから、向こうでテレビでも見てて」


 また言うがままに、テレビを見て横になっていた。

恵利子は、またおじやとうどんを作ってくれた。

昨日とは違い、食欲もあり全部食べられた。


「よかった。じゃ、洗濯するから着替えて」

「恵利子、本当に悪いね、ありがとう」

「いいえ、どういたしまして」


 一人もんの時、なんといっても辛いのは病気になった時である。

後片付けや洗濯をしている恵利子を見て、もし誰もいなかったらと思うと、本当に感謝しきれなくてすまない気持ちでいっぱいだった。


「シーツも取り換えたし風呂も沸いてるから、ちゃんと温まって今日も早く寝なきゃね」

「何から何まで悪いね」

「その代わり、私が風邪ひいたらよろしくね」和男の好きな笑顔だ。

「おぉ!任せておけって」

「明日、仕事休んだら」

「いや、もうすっかり大丈夫だから」

「そう、無理しないでよ」

「おぉ~」そう言って、和男は恵利子を抱きしめた。

「恵利子・・・」

「や~だ」暖かい、恵利子はなぜいつもこんなに暖かいのだろう。


 次の日からいつも通りに仕事に出かけたが、体調はいいわけでもなく、何となく体全体がだるい。

恵利子も遅番の日が続き、来られない日は電話があり、和男のことを心配してくれた。

2・3日後やって来た時には、和男も無理して笑っていたが、どことなくわかるのだろう。

「明日私も休みだから、一緒に病院に行こう。

一人じゃ絶対行かないんだから、病院でデートね」

「えぇ~それよりどっか行こう」

「いつでも行けるから、まずは病院行ってから、ねぇ、わかった」


 また恵利子に言われるがままに、次の日恵利子に連れられて、しぶしぶ病院に出かけた。

どことなく病院の空気ってまずい、かえって病気になって帰ってくるような気さえする。

待合室で待つこと約1時間、やっと名前が呼ばれ


「じゃ、行ってくるか」

「ついて行ってあげようか」

「いいよ、恥ずかしい、一人で行ってくる」そう言って、和男は診察室に入って行った。

レントゲンやら何やら、あっちこっち振り回され、ようやく終わり再び診察室に呼ばれた。


「すぐ入院してください」

「入院って・・・・何で?」

「もっと詳しい検査が必要です。今すぐにでも入院できればいいのですが」

「今すぐって、そりゃ無理です」

「じゃ、明日にでもその準備して、また来てください」

「ただの風邪じゃないんでしょうか?」

「はっきり言って、癌の疑いがあります。肺癌の疑いがありますので、念の為もう一度検査して、それから治療を始めたほうがいいでしょう。わかりましたか」

「ガ・ン・・・ハイ・・・ガ・・・ン」


 今時の医者は、こんなにもはっきり言うようになったのか。

昔なら、患者には隠したもんなのではないか。

たいしたことないから言っているのか。

医者にしてみれば、風邪と同じようなものなのか。

けど、ガンという言葉は和男にとってはあまりにも重かった。

「詳しいことは、もう一度検査してからお話します」

「・・・・・」

「癌は、知らないうちに体を蝕んでいくんです。症状もなく症状が出た時はすでに癌に覆われています。けど、癌にも初期や末期などいろいろありまして、すべて検査してみてから報告しますので、とりあえず明日入院の準備をして、必ず来てください。今は癌と言っても、医療も進み治る確率も高いですから、あまり気にしない様にしてください」


 和男は、何が起こっているのか自覚できず、まして自分に癌の疑いがあるなんて、今までそんなこと一度も考えたこともなく、健康だけがとりえだったので、何が何だかよく理解できぬまま診察室を後にした。


「ねぇ、どうだった?」

「ん、もしかしたら肺炎にかかっているかもだって、明日一応入院だってさ、たかが肺炎で何で入院なんかしないといけないんかな」

「肺炎でよかったじゃない、もし癌だったらどうしようって思ったりして、あぁ~よかった。じゃ明日私もまた一緒に来るね」

「え、いいよ、仕事だし無理しなくても」

「実は、もう休みとったんだ」

そう言い、恵利子は本当にほっとしたかのように笑っていた。

そんな笑顔を見て、癌の疑いがあるなんて言い出せるわけもなく、間違いであってくれと

「恵利子」と無理して微笑んで言った。


 帰り、恵利子の運転する車の中で、その明るさに助けられ、和男も笑顔でいることができた。

窓の外に目をやり、穏やかな海をぼんやり眺めていると


「翔太君、元気かな?何か連絡あってる?」

「そういやぁ~全然音沙汰なしだな」

「がんばってる証拠だね」

「さぁ~どうだか。奈央ちゃんからは連絡あってる?」

「奈央も全然。どうしてるんだかね」


 二人の会話には、翔太と奈央もよく出てくる。それがまた楽しかった。

もし、癌だったら翔太のこともある。

いや翔太だけじゃない、離れた二人の子供のことも。

でも、きっと大したことはない。そう思い、助手席で大きく背伸びしたのである。

「元気なった」運転しながら恵利子は笑っていた。


家に着き、入院の準備をしてくれる恵利子。

改めて恵利子と出会えてよかったと思い、


「恵利子・・」と後ろから抱きしめた。

「やぁ~だ、たかが肺炎の入院でしょ、すぐ退院できるし、毎日行くからね、寂しい?」

「いや、恵利子と会えて何て幸せ者なんかと思って、恵利子、愛してるよ・・・」

「やぁ~だ、愛してるなんて初めて聞いたよ。でもうれしい、あなた、私も愛してる」

「明日も一緒に病院だし、今日泊まっていっちゃおうかな」

「え・・・」


 その日、恵利子は和男の家に泊まっていった。

二人は眠れず、夜空の星でも見るかのように天井を見つめていた。

まるで流れ星を見たかのように和男はそっと目を閉じ、願った。


「何でもありませんように」と。

「寝た?」恵利子は天井を見つめたまま言った。

「いや・・・」

「私、幸せってなんだろってずうっと思ってた。自分で掴むものだと思ってた。

でも、それって違うんだね。今、わかった気がする」

「ん?・・・」

「幸せって掴もうとすると逃げちゃう。幸せって感じるもんなんだと」

「恵利子・・・」

「私、今とっても感じてるよ。幸せっていうの」天井を見つめていた恵利子は、寝がえりをうち、和男を見つめる。

和男は天井を見つめたまま言った「それは、俺のほうだよ」

「誰だったかな?言ってたけど、結婚ってこの人となら幸せになれるって結婚するでしょ。

それはやめなさい、よしたほうがいいよって。この人となら不幸せになってもしゃあないかって思ったら結婚したほうが後々いいよって。

いつか不幸せになっても失敗しちゃったなって言いあえるからって・・・」

「ん~いい言葉だね。何か失敗した者同士、妙に心に刺さるね」

「私、和男さんとなら不幸せになってもいいかなって思ってる」フフフフ・・・。

「ダメだよ。俺がんばって幸せにするよ。俺だけ幸せのままじゃ不公平だよ」

「がんばらなくてもいいって。こうして一緒にいるだけで幸せだから・・・ね?」

「恵利子ったら・・・」もし検査の結果癌だったらと思うと、和男はまた天井を見つめた。

「今度どっか、暖かいとこでも旅行行こうか」

「うん、行きたいね。でも、まずしっかり治してからね」

「大丈夫。そうだなぁ~どっか南の島・・・じゃなくて温泉がいいかな」

「え?暖かいとこって温泉?そっちのほうが和男さんらしくていいんじゃない」

ずうっと和男を見ていた恵利子も、寝がえりをうち天井を見つめ微笑んで言った。

「生きてれば辛いことばかりじゃないんだなぁ~必ずいいことやってくるんだね。生きてるってことそのものが幸せなのかもしれないね。ねぇ、温泉行ったら混浴ってあるんじゃない。一緒に入っちゃう?歳だから恥ずかしいけど一緒に入っちゃおうか」

「・・・・・」和男は、疲れたのか寝息をたてて眠りについていた。


 恵利子は返事がないので、また和男を見て「大丈夫だよ、心配しなくても」としばらく和男の寝顔を見ていた。

母親が子供をあやすかのように和男の肩をそっと叩きながら。


 次の日また、恵利子の運転する車で二人は病院へと向かった。

入院の手続きも済ませ、病室へと案内する看護師さんの後を着いていく和男と恵利子。

もし、癌だったらどうしよう。恵利子に何て言おう。

退院できるのだろうか、それとも余命何カ月とか言われたらどうしよう。

そんなことばかりが頭の中をグルグル回り、真っ白になっていく。


「たまに、ゆっくり休むのもいいかもね」

恵利子は、ぼ~としている和男を励ますかのように言ってくれた。

「あぁ~そういうこっちゃな」

和男がそう言うと、恵利子は、看護師に見えないように、

和男の手をギュッと握り締めてくれた。

恵利子の手は暖かい、そして何より力強い。


 病室につくと、すぐパジャマに着替えて、ベッドに座り、看護師の説明を受けた。

明日からいろんな検査が始まり、結果は明後日にはでるらしい。

夕方には、少しだけど食事は出るとのことで、恵利子はコンビニで自分の弁当を買ってきて、一緒に夕食を食べ、遅くまで病室に残ってくれた。

何一つ暗い顔せず、いつもの笑顔がまた心苦しい。


消灯時間が来て、病室の電気も消えていった。


「帰らなきゃ。じゃ、明日また来るね」

「うん、ありがとう。気をつけてな」

「うん。ぐっすり眠れるといいね」恵利子は、手を振って病室を出て行った。

その時、とてつもない不安が和男を襲い、逃げ出したいくらいの気持ちになり、寝るに寝られない夜が、とても辛く長く感じられた。

疲れた夜だった。


 朝から、あわただしくいろんな検査が行われ、その日も長く嫌な一日であった。

嫌な検査もようやく終わった頃の夕方、恵利子は来てくれた。


「どう?体調は?」

「ん、ばっちりで今でも退院できそうなんだけどなぁ~」

「明日、もっと早く来れるから、何か必要なものある?」

「な~んもないけど、恵利子のキスかな」和男は冗談で言ったつもりだったのに

「ば~か」そう言って、周りを見わたし、誰もいないのを確認してから、恵利子は本当にそっとキスをしてくれた。

びっくりした和男は顔を赤くしながら、横になっている。

その時看護師が入ってきて、何やらあわてている二人はまるで高校生のようだった。

「体調どうですか」

「うん、最高」と言う和男は、恵利子と顔を見合わせて、まだ照れているようだった。

「工藤さん、とても仲いいね」クスクス笑う看護師もまた、二人の顔を覗きこむように言った。

病室は、にこやかな笑顔で溢れていた。

「よろしくお願いします」と言う恵利子は、ほんとできた人だった。

前、翔太が言ったように、俺にはもったいない人だなと和男はつくづく思った。

だからこそ今の自分が、情けなくて辛かった。


 体のどこか無性に痛いということも、無性に苦しいということもなく、ただいつもの微熱と時々出る咳だけが続いているだけで、気持ちはいつもより穏やかにいられた。

これもみなすべて、恵利子のおかげなのであろう。


「じゃ、明日また来るね」

と言って恵利子は、にっこり微笑み手を振り帰って行った。


 本当の夫婦でもなく、ここ1年で知り合っただけなのに、今までずうと一緒だった気がしないでもない。

むしろ、本当の夫婦でないからこそ、こうしていられるのかも知れない。

夫婦にも、いろんな形があると思うが、いつまでも恋人みたいにいられたらと、誰もが最初思うであろうに、けどいろんなことが次から次へと起こり、そういう気持ちも次第に忘れていってしまうのもまた、現実かもしれない。

和男は、恵利子に出会ってなんて幸せなんだろうと、点滴の先を目で追いながら思った。

そしてその日、和男は特に疲れたせいか、じっくりと眠りにつくことができた。

 

 そして結果が出る日、恵利子は昨日よりかなり早くやってきた。

病室で待っていると、看護師がやってきて、


「最初、奥さんに先生からお話があるそうです」と言われ、

「奥さん?」って二人で顔を見合わせ

「じゃ、聞いてくるね」って言い出て行った。

いつものその優しい後ろ姿を目で追いながら、和男は切なくてたまらなかった。

「神様、どうか何でもありませんように。一生のお願いです。何でもありませんように」

けど、軽い気持ちで出て行った恵利子は、中々帰って来なかった。


「奥さん、はっきり言います。旦那さんは癌です。肺癌です」

「癌・・・肺癌って、肺炎では?」

「いいえ、間違いなく肺癌です。それも末期です」

「末期って、あの人肺炎だって言っていましたけど、それってどういうことですか」

「最初から肺癌の疑いがあると伝えていましたけど、心配させないよう嘘ついていたんでしょうかね。もっと早く発見できれば助かったのに、残念ながらすでに末期です」

「末期って、何が一体どうなったの」

「定期的に検診を受けていれば、早く見つけ治療することができたんですけど、検診も受けていなかったようで、真に残念です」

「嘘、嘘でしょ」

「残念ながらもう手遅れです。だから旦那さんに言う前に奥さんに言っておいたほうがよいかと思いまして」

「手遅れって、どういう意味なの」

「はっきり申し上げて、長くて3ヶ月です」

「3ヶ月?そんなぁ・・・」


 恵利子は、あまりにも突然のことに何が何だか理解できず、その場に泣き崩れた。

看護師の手がそっと恵利子の肩に触れる。


 しばらくして、和男も先生のところに呼ばれた。

ドアをノックし開けると、そこには下を向いたままの恵利子がいた。

悪い予感が体中を走りまわり、目まいがして倒れそうになった。


そして和男は、あと3ヶ月という余命宣告を受けた。

 

 もしかして肺癌ではと覚悟していたけど、3ヶ月というあまりの突拍子のない宣告に、魂を取られたような感じで何も考えられず、何も言えず身動きすらできなかった。

看護師に抱きかかえられるように病室に戻ってきたけど、何一つ言葉はでない。

これほど人生を恨んだこともなく、一体俺が何をしたというのであろう。

本当に神様がいるのであれば、俺は恨んで恨んで恨み続けてやると。

どうせなら、なぜもっと早くそうしてくれなかった。

せめて恵利子と出会う前に。あんまりじゃないか。

俺、どうしたらいいんだよ。

和男は、体の中から湧き出てくる怒りにも似たものを感じていた。

これから、恵利子を幸せにしなきゃという時に、恵利子を残して死ぬなんて・・・・・。


「さっき奥さんだって」と恵利子は、和男を覗き込み笑顔で言う。

「ん・・・」そんな恵利子が、いつにもましてとても愛おしくてたまらない。

「克服した人もいるし、がんばろう。二人で、ねぇ、がんばろう」

「恵利子・・・」


 恵利子は、ベッド脇の棚の上を片付け、花瓶の花の水を取り替えてくるからねって出て行った。

小走りに走って行く恵利子の目は、溢れ出る涙でいっぱいだった。

余命宣告を受けた人たちは、どう生きるのだろう。

どう生きていけばいいのだろう。

いつかこの世から消えるということは誰もがわかっている。

そして怖いわけでもない。

けど、今は怖い。

ただただ、どうしようどうしよう。

あと3ヶ月、どうしよう。


 病室の窓から見える空はこれでもかと言うぐらい青い。

雲ひとつ見えない。そう、もうすぐ夏がやってくる。

また恵利子と二人、あのきれいな夕陽を見れるのだろうか。

俺、何やってんだろ。

唇が震えているのがよくわかる。青い空がかすんで見える。

涙もろくなった和男は、涙はうれしい時に出るものだと思っていた。

それが今、ボロボロこぼれてどうしようもない。

声を殺すのに精一杯だった。

出会ったころの恵利子がよく言っていた言葉がふと思い出される。


「あのね、これインディアンの格言らしいけど知ってる。私、これ好きなの」

「え?どんなの」

「人は生まれてくる時泣いて、周りの人は笑っている。

だから死ぬ時、あなたは笑って周りの人が泣くような生き方をしなさいってね」







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