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第2章


その後、またそのスーパーへ出かけた。


「和男さん、今日は何にするかな」由香は、相変わらず愛嬌がいい。

「由香、あの~大沢って人、最近入ったの」

「よ~くご存知で」と由香は和男を見上げるように言い、

「独身みたいだよ」とニヤニヤ笑う。

「あら、私のほうがかわいいと思うけど」

「あぁ、そりゃ由香はとってもかわいいよ」

「じゃ今度、映画でも行く」

「行きたいけど、そんなことできるわけねぇだろ、でも由香っていいよな気さくで」

「でしょ、でしょ」とまた顔を見上げる。

「それで大沢さんって、ホント独身なの」

「バツイチみたいだけど」

 

由香が言うには、

離婚してこっちに来たんだけど、人の噂では何か旦那さんが職を失ってから、中々仕事に就けず、ギャンブルやお酒に溺れてしまって、家のお金を持っては出かけ、そして徐々に暴力も振るうようになり、ついには女も作ったって噂よ。


「まぁ、和男さんとちょっと似てるね」

「ん?はぁ~」

「でも、和男さん女は作らなかったけどね。フフフ」

「おいおい。」

「いいのいいの」由香は、楽しそうに笑って言った。


よく聞く話であるが、それが真実かどうかは本人でなければ誰もわからない。

娘さんが一人いて、春から高校3年生で一緒に暮らしているというらしい。


「和男さん、もしかして一目ぼれ」

「いや、そんなんじゃなくて、何か寂しそうな顔しているなぁ~と思って」

「それって気になるってことでしょ」

「だから、そんなんじゃなくて」

「いいの、いいの、名前はね、恵利子、大沢恵利子って言うんだよ」

「だから別に、そんなんじゃ」

「恵利子さんと友達になって、もっと教えてあげようか」

「だから。そんなんじゃ・・・」と言いかけると、

由香は「じゃ、仕事に戻らないとね」と言い、いつものように明るく、そして手を振って仕事に戻って行った。


その日、和男は彼女のレジへ行かず、他のレジへと向かった。

彼女のことが気になりつつも、しばらくそこのスーパーへは行かなかったのである。

もし由香の言うことが本当だったらと、自分を重ね合わせてしまったのである。



「どうすんの?こんな給料で」

「わかってるって、何とかするから」

「何とかって?もう何年立つって思ってんの」


和男が長年勤めていた会社が倒産した。次の仕事がなかなか決まらず雇用保険も終りに近づいていた。ハローワークに出かけては、帰り道パチンコ屋に走ることも多くなった。

一人になりたい時は、人混みの中が一番居心地がいい。

和男が見つけた最高の場所である。


平日だというのに、なぜこんなに人が多いんだろう。

ネクタイを締めた人も多く、女も若い人から年配の人まで、主婦らしき人もこれまた多い。お金がほしいから来てるだけでもなさそうな気がして、和男もいつのまにかほとんどの日々をパチンコ屋で過ごすようになった。

当然のように勝ち負けはあるが、トータルでは負けている人が多いのではなかろうか。和男も例外ではない。パチンコさえするお金がなくなってきたのである。この先どうなるんだろ。恐怖に似た不安が襲わないわけでもない。もちろん眠れない日も続く。

食事も喉を通らない。まぁ通ったとしても腹いっぱい食える身分ではないけど。幸いお酒は体があまり受け付けなく、酒に走ることはなかった。


 そんな時やっと見つかった仕事。

今までとはまったく違う運送業。

いわゆるトラックの運転手である。給料は今までの半分よりちょっと上。

何もしないより、この仕事をしながら新しい仕事を探せばいいだろと思い、和男は運送会社に就職した。慣れるまでクタクタになったけど、きっと違う道が見つかるさ、と一生懸命働いた。


けど不景気の波はここにもやってきていて給料は上がらず、下がったのである。まして違う道なんてどこにも見えやしなかった。

だからこそ、家に帰れば妻の愚痴は増えて行く。

当たり前のように「離婚」って言葉も出始めた。

もちろん妻も働いていたし、だからこそまた堂々と言えるのである。

ダメなのは俺だ、と和男はいつもそう思っていた。


しだいに妻との会話も減り、用事があれば子供をとおして言うようになり、夫婦仲はギクシャクし始めたのである。


「何で、いつも弁当作らなきゃダメなの。今度から自分で作れば」

妻にそっけなく言われ、次の日から和男は自分の弁当は自分で作るようになった。

ただ、朝二人で台所に立つのも気持ちいいもんじゃないし、夜、寝る前に和男は弁当を作り、冷蔵庫に入れておき、朝、ご飯だけつめるようになった。弁当を作るといっても余ったおかずを詰めるだけだけど。

それが日課になっていくと、子供たちも何かしら感づいているのであろう。長男、次男は自分の部屋からあまり出てこなくなった。

でもまだ小学校に入ったばかりの三男だけは、おもしろそうに毎日のように卵焼きを作ってくれるようになった。

寝る前になると「お父さん、弁当作んねば」って言って、必ず卵焼きを作ってくれた。

作ったのをちょこっとつまみ食いするのがまた楽しかったらしい。

一日の中でそれが和男にとっては、一番うれしく楽しいひと時となっていった。


 そんな生活が続くと、もう元には戻れない。

さらに会話はなくなり、一言も話さない日が増えていく。

そしてだんだんと重い空気が流れ始める。仕事が終わり家に近付くと、なぜか胃が痛くなり、体から力が抜けて吐き気さえするようになる。

食べる力もなく、体重は5キロほど減っていた。

離婚は体力を使うとよく言うけれど、まさしく本当だなと思った。

けどそれは、和男だけではなかった。妻も同じだった。

お互いこのままでは体も壊してしまいかねない。

できるならやり直したいと和男は思っていたが、妻はもう限界だった。


「離婚してください」


それからは早かった。

妻が用意しておいた離婚届に和男は黙ってサインしたのである。

こういう時は、女の方がしっかりしているものである。

離婚ってどこか他人事のように思っていて、まさか自分たちが・・・。

悪い夢でも見ているのでないだろうか。これは現実なのだろうか。

明日の朝、目覚めれば何事もなかったかのような生活が待っているのでないだろうか。

でも、それは現実だった。

日が立つにつれて重くのしかかってくるものでもあった。




 和男は仕事の帰り、久しぶりにきれいな夕陽に出会い、車を止め海辺に下りていった。

やっぱりまだ寒くて、頬を撫でていく風がとても冷たい。

でも、これがまたいつものように心地よくて、深く深呼吸し目を閉じると、体の力がすうと抜けていき、香ばしい潮の香りと共に、かもめと一緒に青い空を自由に飛んでいるような気持ちにさえしてくれる。

和男はポケットからデジカメを取り出し、写真を撮りだした。

これからは、一人暮らしを楽しまなきゃなぁと、写真も趣味にしようかなと思ったりしていた。いつかはちょっと立派な一眼デジでもほしいなぁとも思っていた。

ほんときれいやなぁ~今までもこんなにきれいだったのかなぁ~

50年過ぎたけど、今まで何も感じなかったよなぁ~。

じっと見ているだけでもホント癒されるよなぁ~

歳のせいかもしれないけど気持ちいいなぁと、和男は安っぽいデジカメでシャッターを押し続けていた。


幸せな人には、より幸せを与え、辛い思いや悲しみを感じている人には、優しく語りかけ、大丈夫だよ。がんばろうよって言っているかのような、そんな夕陽を和男はただじっと見つめていた。


もうすぐ春が来る喜びと、新たな人生の始まりが、不安と寂しさそしてうれしいことも、何が起こるかわからない、これからの人生、残り少なくなったけど、きっと楽しいこともいっぱいあるはず、馬鹿みたいに笑って行こう。離婚の傷がまだ癒えない和男にとっては、この夕陽が元気と優しさをくれるような気がして、自然に笑顔になっていた。

「じゃあ!またな!」と夕陽に向かって言い、車に戻り帰ろうとすると、

遠くに一台の車が止まっており、運転席にはスーパーの店員大沢恵利子さんらしい人がいるのが見えた。

沈んでしまった夕陽をまだ見つめているように、

ずうと海の彼方遠くを見続けていた。

和男は、いったんRに入れたギアをPに戻し、

気がつけば、彼女のほうを見ていた。

どれくらいの時間がたったのであろうか。

彼女は、何かを思いつめるように、そのまま視線を変えることなく遠くを見続けていた。

 

日も落ちあたりもすっかり暗くなり、ようやく彼女は帰って行ったけど、

彼女が帰った後も和男はしばらくその場に残り、由香が言っていた彼女の噂話を思い出し、人のことは言えないけれど、本当だったら辛かっただろうにと。彼女みたいな人がなぜ幸せになれないのだろうかと思っていた。


 次の日和男は、いつものスーパーへ行った。

その日レジには、恵利子の姿はなかった。

次の日も、そのまた次の日も恵利子の姿はなく、

以前と変わらぬ店員さんたちばかりだった。

そう言えば、休みなのか由香もいないなぁ。

一体私は何を考えているのだろうと和男は思い、まだろくに話もしたことのない恵利子のことが気になりかけていた。


2・3日後また行ったら、久しぶりに恵利子がレジにいるのを見た。

安心したというかドキっていうか、この気持ちは一体何なんだろう。


「あら、和男さん、久しぶりね」

「あ、由香」

「あ、あのね、恵利子さんやっぱり噂どおりの離婚劇だったよ」

「ん~そうか」

「何、ん~って」

「和男さんのために教えているのに」

「え、何で」

「だって、あれでしょ、気になるんでしょ」

「あ、いや別に」

「でも教えちゃう」

「ん、別にいいよ」

「娘さんがね、お母さん何で離婚しないの。

あんな人お父さんじゃない、いつもお母さんを殴ってばっかりで、離婚して二人で一緒に暮らそうって言ったらしくてね、それで逃げるように出てきたらしいのよ、それでこの前ちょっと休んでいたんだけど、正式に離婚したらしいよ」

「ん~そう」

「まぁ、和男さんもバツイチだけどね」

「まぁな・・・」

「じゃ、いつか食事ご馳走してね」

「え、ご馳走したいけど、ヤバイよ」

「和男さん、変なこと考えるからダメなのよ、まぁ、変なことあっても別にいいけど」

「由香ったら・・・」

「じゃ仕事戻らないとね」


その日和男は、恵利子のレジへ入って行った。

本当の笑顔が戻ってきたような気がし、何だか妙にうれしくて

「あ、どうも」と言ってレジを終え、帰って行った

。それからそこのスーパーへ行く度、和男は恵利子のいるレジへと入って行った。多少込んでいても、彼女のレジへと入って行った。

 

そしてある日、違うスーパーで買い物をしていると、

「あら、今日はこちらでお買い物?」振り返ると、恵利子が和男を見て言っていた。

「あ、どうも」

「いつもお一人でお買い物、大変ですね」

「あ、あぁ~でも、もう慣れちゃいました」

「でも、しっかりしていらっしゃるのね」

「いや、そんなことないです。何も作れませんし」

和男は、子供のように頭をかいて、へらへらと笑った。

そんなしぐさを見て、恵利子もニコニコと。

「工藤さんも大変でしょうけど、がんばってね」

と恵利子は、いつもの笑顔で言ってくれた。

「あ、何で名前知っているんですか」

「由香さんがよく話していますからね」

「え、由香が・・・」

「でも悪口じゃないですよ」

「えぇ・・・」

「じゃ、またね」

「あ、はい、どうも・・・」

二人は、丁寧にお辞儀をしその場を別れた。

 

もしかしてこれは恋なのだろうか。

無性にうれしいやら何やらで、顔がにやけてくる。

今更、恋なんてすることないだろうと思っていただけに、

この気持ちは何なんだろうか。


 叶う、叶わないとかは問題ではない。

恋そのものに、恋焦がれていたのかもしれないと和男は、

心の中からじわじわと暖かくなるものを感じていた。

過去にもこんな気持ちあったのかも知れないが、

とっくの昔に忘れてしまった。


 誰かが言っていたけど

「愛に年齢は関係ない。それは常に生まれ続けるものだからである」

そんな言葉を思い出し、今更恋なんて、でもそれに近いものを感じているのかも。

 

 恵利子と始めて会話らしい会話をした次の日から、

和男の気持ちは変わっていった。

何となく漠然に過ごして、これからは、なるようになればいいし、

前向きに生きようとは思うものの、現実は、ため息ばかりの生活だし。人生もあと何年、生きなきゃいけないんだろうか。けど、このまま死ぬのもなんだしなぁ~って、ただ時間に流されて生きていくだけなんやろうなって思っていたけど、人生に楽しみを見つけたような気がして、その日から体も軽くなったような気さえした。


 今まで十分生きてきたし、残りの人生「おまけ」でいいやと思っていたけど、考えてみれば「おまけ」には何がついてくるかわからない。

子供の頃、買ったお菓子についてくる「おまけ」がどんなに楽しみであったか。

いや、「おまけ」がほしくてお菓子を買っていたものだと。

だから「おまけ」って結構楽しいかも、「おまけ」の人生最高に楽しいかもと。

今までも、いろんな恋をしてきたけれど、叶わないほうがいい恋、

そういう恋もあってもいい。叶えばいつか消えるかもしれない。

もうそういうのはしたくない。

だから消えないように叶わない恋のほうが、ずうっといいかもしれないと。

 

 2・3日後の帰り道、またきれいな夕陽に出会い、

和男はいつものように海辺に下りていった。

今日の夕陽は、またやけに気持ちがいい。

この前までは、寂しさから癒しを求めていたのに、今は寂しいという気持ちもなく、何かほのぼのとしてくるような気持ちでもある。

夕陽も「何か、えぇことあったみたいだね」って語りかけてくるように、

にんまり笑っているように見える。

「何もないけど、純な時代に戻ったってことかな」って答えるように、

和男もにんまり。

すっかり季節も春になり、その陽気がまた穏やかな気分にさせてくれた。


「じゃ、またなぁ」と真っ赤に燃え、ジュワッ~と音を立てて海に沈んでいっちゃったけど、家に帰ってもどうせ一人だし、これといって何もすることもないし、日が暮れるまでそこにいようとじっと座っていた。

まだ人一人もいない海辺を独占するかのように。

 

 そしてまたある日には、パンジーを買ってきて、夕陽に見せつけてやった。花を買ってくるなんて思っても見なかったけど、見ていてあまりにも、かわいかったので買ってしまったよと、和男はひとり言のように夕陽に向かって言っていた。

夕陽もまた、「ガッハハハ」と声に出し今にも吹き出しそうにしているかのように見えた。


 今日は早く帰って鉢に植え替え、きれいにいっぱい咲いてくれますようにと水を与えなきゃなと、和男は馬鹿笑いしているような夕陽を後にさっさと帰って行った。

その後、ビオラやサフィニアなども買ってきては、花を増やし、花のある生活がこんなにも生き生きさせてくれるなんてと、いつも感謝しながら水だけは忘れず与えていた。

けど、水だけで手入れはしなかったけど。

 

 いつものスーパーに行き、恵利子のレジに行っても、

特に話もすることもなく「どうも」って言い、笑顔で帰って来れる。

それだけでも、和男にとっては何かうれしい気持ちになれた。

一生懸命働いている姿を見ていると、元気をもらえる、そんな気もしていた。

そして何よりスーパーへ行くことが楽しみの一つになっていったのである。

学生の頃、学校へは大儀で行きたくないが、行けば彼女に会える。

同じような気持ちにさせてくれた。



 そうしてようやく、夏が近づいてきたかなという頃

和男は、いつものように仕事の帰り道、ちょうど夕陽が沈むのに出会い、

風合瀬海岸に車を止めていた。さすがに若い恋人たちが、肩を寄せ合い砂浜に座って真っ赤に燃えている夕陽を見つめている。

いや、夕陽じゃなく、二人の未来を見つめているのだろう。

そして周りには、和男よりちょっと年代の人たちが、みんな立派なカメラを持ち最高のシャッターチャンスをねらっていた。

冷たく頬を撫でていった風も、今はとってもすがすがしく頬を撫でていく。


 和男は、車から下り大きく深呼吸し、タバコに火を点けようと、胸のポケットからライターを探す。

ちょうどその時、車のボンネットに腰掛け、ちょっと寒そうに腕を組み、

夕陽を見ている女の人が目についた。


「あ、恵利子さんだ」


 恵利子も和男に気づいたらしく、軽く会釈をし、微笑んでくれた。

和男は、あたかもびっくりしたかのように、大げさに何度も何度も頭を深く下げ、お辞儀をした。

もっと近くで会えたら、話をできたのにと思いながらも向こうに行こうとはせず、和男は夕陽じゃなく、この前のように夕陽を見つめる恵利子を見ていた。もう帰るのだろう。

車のドアを開け、また和男に軽く会釈をし、恵利子は帰って行った。

恵利子は何を思い、何を見つめていたのか。

砂浜では、父と小学生2・3年ぐらいの男の子がキャッチボールをしている。

父の投げるボールを両手で怖いながらもやっとキャッチし、どうやという顔で力いっぱい投げる姿がとてもたくましい。

近くで母親が顎に両手を当て、しゃがんで幸せそうに二人を見ている。

海辺での光景は、全てが微笑ましく感じられる。

 


 その後、いつものようにスーパーで恵利子のレジに入っていった和男に

「この前、きれいだったね、・・・夕陽」

恵利子は、ニコニコしながら、ちらっと見て微笑んで言ってくれた。

「ん?・・・・」

戸惑う和男に恵利子は、またちらっと微笑んでいた。

後ろにお客さんが並んでいることもあり、何か言いたいけど、

何も話せない。

そんな和男は、純な若者のように呆然とし固まっているようにも見えた。

レジから出てくると


「和男さん、何かいいことあった」

「なんもないよ」

「はあ~ほんとないよなぁ~」

「由香がため息なんてめずらしいやないか」

「そりゃぁ~私だってねぇ~」

「何かあった」

「うちも離婚しようかな」

「ちょっと、そう簡単に言うなよ」

「はぁ~」と言い、由香は仕事に戻った。


 いつもの由香らしくないけど、そう思う時は誰だってあるだろう。

結婚って何だろうとよく言うけど、答えを知りたければ結婚してみるしかないかも。

その後また由香とスーパーで会い


「お~由香、どう元気?」

「ん~・・・まぁね」

「うまくいっている?」

「あの馬鹿親父、謝ればいいと思って」

「じゃ、仲直りしたんだね」

「Hのことしか考えてなくて、ほんとにもう、ねぇ、一回行こう食事、いいよね」

「えぇ~・・・でもなぁ~」

「深く考えすぎだって、ねぇ、ねぇ」

「ん~・・・」

「いろいろ話したいこともあるし、ねぇ」

「ん~まぁ一回ぐらいならいいか」

「じゃ、あとで電話するね」

そう言って、由香のペースにはまり、和男は曖昧な約束をした。


 しばらくして由香から電話があり、二人で食事に出かけることになった。


「何か、こうして食事するの何年ぶりかな」

「そうだな」

「25年ぐらいなるかもねぇ~」

「25年かぁ~、早いもんだね」

「ね、和男さん、何で私たち別れちゃったのかな、そんなに私のこと嫌いになったの」

「そういう訳じゃないんだけど、何でかな」

「縁がなかったってことなんかなぁ~」

「縁か?・・・」


 和男と由香は、5年ぐらい付き合っていただろうか。

喧嘩はしょっちゅうしたけれど、

次の日には、すぐ仲直りしていた。

このまま結婚するものだと思っていたけれど、自然と心が離れていき、

別れることにした。

結婚と恋愛は、やはり違うものなのだろうか。


「でも私、まだ和男さんのこと好きよ、変な意味じゃなく、ただ好きってことよ」

「俺も由香のことは、好きだよ」

「やだぁ~初めて聞いたような気がする」

「え、そうか」

「あの頃、言ってくれたことあったっけ」

「いつも言ってたじゃない」

「いや、初めて」

「違うって」

「いや、初めて」

「だから違うって」

一瞬言葉がとまり、二人は大笑いした。

「いつも、こんなんだったね」

「そうだね、由香って気強いからね、今も」

「じゃ、優しくないの」

「優しいよ、今こうして別れた人と話できるなんて、本当にうれしく思うよ」

「何、急にセンチメンタルになっちゃって、そういう和男さんが好きなんだけど」フフフ

そんな感じで由香との話は尽きない。

「あ、それで離婚したいと言っていたけど、その後大丈夫やね?」

「ん、まぁね、でも女はいつでも離婚したいと思っているからね」

「そうなの」

「そう、ただお金の問題もあるからね」

「でも由香とこは大丈夫だね」

「子供のこともあるし、私しっかりしているし、ねぇ」

由香は和男を見つめそう言った。

「ねぇ、ところで恵利子さんどう?」

「どうって?」

「だから、どう思うって」

「いい人だなとは思うよ」

「じゃ、私、中に入ってやろうか」

「中にって、いいよ、そんなんじゃないし」

「和男さんみたいな人は、私みたいにおせっかいな人が必要なんだから、ねぇ任せて」

「ほんとにいいったら」

「和男さん、幸せになってもらわなくちゃ、私和男さんと不倫しちゃうよ」

「ば~か」

「私、体もおばちゃんになっちゃったけどまだ大丈夫よ。和男さんには何度も見られてるし、全然恥ずかしくもないよ。私、いつでもいいよ」

由香はからかっているのか本気なのか、じっと見つめてくる。

「おい、おい、ほんとにバカなんだから由香は」

こうして和男と由香は、何を喋っていたのか、あっという間に時間が過ぎて行った。

由香のそんなざっくばらんの性格が、嫌いではなかった。

むしろ和男は好きだった。

友達以上恋人未満という言葉が、どうかはよくわからないけど、二人にはそれがちょうどよかったのである。



 しばらくしてスーパーで由香に会うと

「ねぇ、恵利子さんにそれとなく言っておいたから、あとは和男さん次第ね、脈あるよ」

ほんと由香っておせっかいなんだからと思いながらも、

和男は胸がドキドキするのを感じた。

いつものように、恵利子のレジに入るかどうか悩み、

結局その日は違うレジに入っていった。

それから一週間ぐらい、和男は恵利子のいるレジには、

入って行けなかった。

まるで子供のように照れくさくて、入っていく勇気がなかったのだ。


 そしてある日、違うレジに入ろうと待っていたら、

恵利子のほうのレジが開いた。

普通なら入っていくのであるが、何か行きづらいというか、

恥ずかしい気もしていた。

けど行かなきゃ逆におかしいし、和男はドキドキしながら入っていった。

恵利子は、いつもと変わりない笑顔で、手つきもだいぶ慣れ早くなり、

カゴからカゴへピッピッと買ったものを入れていた。


「1355円になります」

「あ、あぁぁ・・・」

和男は千円札と500円玉を一個渡した。

「145円のおつりになります、ありがとうございました」

「あ、どうも」と言い、カゴを手に持つと

恵利子は「久しぶりね」って微笑んだ。

和男は、「うん」と言おうと思ったら、恵利子はもう次のお客さんの買い物カゴに手をやっていた。和男は、年甲斐もなくうれしいやら、何やらで胸が高まり、走り回りたい気分にさせられた。

スーパーから出ようとしたら、由香が遠くからいつものように手を振っていた。

和男も、片手に買い物袋を持ち、手を振った。

それからは、スーパーへ行く度、恵利子のいるレジへ迷うことなく入って、

「がんばってるね」と一言言えるようになり、

「うん」とうなずく恵利子の笑顔を見るのが、何よりの楽しみであるようにもなった。


「何やっているのよ、ほんとに」由香は、相変わらずこんな調子である。

「さっさとしないと、誰かにとられちゃうよ」

「だから、そんなんじゃないって」

「何言っているのよ、ば~か。そうそう携帯のアドレスとか書いて渡したらどう?ダメもとでやってみようよ。もしダメだったら私がいるからさ。ねぇ、ねぇ、ねぇ、」

「由香ったら・・・・・」


 今更、誰かに付き合ってくださいとか、好きだとか、そんなの言える歳でもないし、ましてバツがついている以上、変な意味もない壁を作ってしまうものだし。

由香が言うように、馬鹿なのかもしれないけど、馬鹿でいい、今のままでもいいと和男は思った。けど由香が言うように、ダメもとでアドレスか?って思うと、ぽっと体のどこかに火がつくような気がしないでもなかった。

 


 そして何日立っただろうか。

今日も夕陽がきれいで、車を止め見ていると、

いつかのように恵利子も夕陽を見ていた。

いつもなら、それで終わりなんだけど、

和男は、歩いて恵利子のほうに向かった。


「今日お休み・・ですか?きれいだね夕陽」

「うん、休み、ほんときれいだね」

微笑みながら、夕陽を見つめ目を少し閉じる。

さわやかな風が、恵利子の髪を優しくなでて、空では、いつもと変わりなく、かもめが気持ちよさそうに舞っている。


「隣、すわってもいいかな」

「うん、どうぞ」


こんなふうに二人並んで夕陽を見るなんて、誰が想像しただろうか。


「工藤さん、由香さんと仲いいねぇ」

「え、あ、まぁ~」

「昔、恋人だったそうね」

「え、そ、そんなんじゃ」

「いいの、由香さんが言っていたよ、何で別れたかわかんないけど、付き合っていたんだよって、結婚するかもと思っていたけど、別れちゃったってね」

「え、まぁ~」

「でも由香さん、いい人よね」

「え、まぁ~」

「工藤さん、一人で寂しい?」

「気楽なとこもあるけど、やっぱ寂しい言えば寂しいかな、でもどうしようもないしね」

「男一人ってのも、そうだよねぇ~」

「でも、うち子供一人いるから」

「由香さんから聞いたけど、就職したんだってね、息子さんがんばっているだろうね」

「がんばってもらわないと、困るしねぇ~」

「私も、あと1年で娘卒業かぁ~」

「娘さん、名前奈央だっけ、進学?」

「働きながら、美容師の資格とるんだって」

「えぇ~しっかりしているね」

「もしかして、名前由香さんから聞いた?」

「あ、ん・・・」二人は、由香の野郎って大声で笑った。

「あ、沈んじゃう」

「明日、また会えるさ、俺が恵利子さんと、また会えるように」

「え?」

「いや、何でも・・・」


 和男は、恵利子に聞こえないように言った。

夕陽も沈み、赤かった空もしだいに暗くなりかけた頃、

二人はゆっくりと立ち、いつものように大きく深呼吸し


「あ、娘迎えに行かなくちゃ」

「そうか、じゃまた」

手を振る恵利子が、とてもういういしく見えるのは、

これはやはり恋というものなのか。

和男は、この歳にして本当に恋に落ちたのである。

今までは、そう思っていても心のどこかで歳のせいにして否定していたのである。恥ずかしい、何を今更、そんな思いが心のどこかで否定していたのである。

前、叶わないほうがいい恋があってもいいと思っていたけど、

その思いも少しずつ変わっていったのか、何やら抑えられない気持ちになっていったのである。

これはもしかして「おまけ」の人生なのだろうか。



 2日後、「2352円になります」

和男は、まず二千円だし、そして小銭入れからちょうど352円出し渡した。

「はい、ちょうどですね、ありがとうございました」といつもの笑顔で言い、レシートを渡された。

その時和男は、ポケットから一枚のメモ用紙を取り出し、恵利子に渡し、

サッとその場を逃げるように去った。

恵利子は、メモ用紙を開き、そしてそっと胸のポケットにしまい込んだ。

そのメモ用紙には、こう書かれていた。

「よかったら、アドレス教えていただけませんか」そしてそこには和男の携帯のアドレスも書かれていた。由香が言ったように和男はダメもとでこうするのも悪くないかなと思い、実行したのである。

いい歳してと思いながらも、心がうきうきするのを感じていた。

けど恥ずかしいあまりに由香には内緒であった。


 家に帰っても落ち着かない。

トイレに行くにも、風呂を洗うにも携帯を肌身離さずしっかりと持っていた。

若い人たちが、いつも携帯を離さないようにしているように和男もしっかりと持っていた。

携帯が鳴っていないのに、メールが来ていないか開き、何度も確かめてしまう。

また逆に、あぁ~あんなことしなければよかったかなと思ったりもした。

ドキドキハラハラな時間がゆっくりと過ぎていく。

来るかな、来ないかなと・・・・・。


 そして夜の9時近く、携帯が鳴った。

一通のメールを受信したのである。

ドキドキしながら携帯を開くと、相手は翔太からであった。

「今月の携帯代いくら?」と

翔太の携帯代は、名義変更が面倒くさいのでかかったお金を和男に振り込むことになっており、今月請求するのをしっかり忘れていたのである。

すぐ調べて、返信してやった。

「わかった」ってすぐ返信がきたけど、またメールを受信した。

今度は、何だろうと思って開くと

「今日はありがとうね、おやすみなさい」恵利子からである。すぐ和男は

「恵利子さん、こちらこそほんとにありがとう。おやすみなさい」って返信した。

これが和男と恵利子との、始めてのメールのやりとりであり、それから二人のメールが始まった。かと言って、学生みたいに一日に何通もすることはできないし、恵利子の場合、子供のこともあるし、ある程度考えて一日に1・2回すればよいほうで、したいけどしない日もあり、それはそれで楽しかった。


 トラックのハンドルを握りながら、わけのわからない歌を口ずさみ、

用もないのに携帯を開いたりする。そして自然と顔がにやけていく。

一人家に帰ってきて、はぁ~とついていた溜息もいつのまにかどっかへ行ってしまった。

台所の食器もまとめて洗うのでグジャグジャになっていたけど、

今ではさっさと済ませ掃除も前より小まめにするようになった。

洗濯ももちろん、一人になってからは溜めて洗っていたけど、

毎日するようになった。


 不思議なものだ。

なるようになればいいと思っていた人生。息をしているだけの人生。

それがいつからか、生きてるって感じるようになった。

幸せってなんだろって考えることもなくなった人生。

それが今は、幸せと思えるようになるとは。

この先、どうなるかはわからないけど今をしっかり受け止め、

生きていこうと和男は思った。

人を好きになるということは、何より素晴らしいことであると、

今になってようやくわかったような気がした。



「いつか食事とか行きませんか?もしよかったらですけど・・・」

「うん、じゃ、休み一緒になったら行こうね」


メールっていいもんだ。この歳になって口に出して言える勇気もないし、

和男は絵文字が入ったそのメールをいつまでも眺めて、

高校生がするようなガッツポーズをしていた。


 そして、ついに初めて二人で食事をする日がやってきた。

うれしいやら、恥ずかしいやら、朝からドキドキし、何を着て行こうか、

髪は大丈夫だろうかとか、若いものが初めてデートする時と同じ気持ちを和男は感じていた。

数少ない洋服を出しては着てみて、これ古いかな?

これじゃちょっと地味だな。

これじゃ逆に派手かもな。はぁ~どうしよう。

結局ジーンズにTシャツ、いつもの格好のまま。

髪もまだあるものの白髪が増え細くなり、昔のようにうまくまとまらない。

改めて鏡を見て歳を感じていた。そして恋というものは、いくつになっても、いくつ経験しても、このドキドキは変わらず、手や額に汗さえ感じていた。その汗がまた微妙に笑える汗でもあった。

鏡の前の自分が、緊張しているせいか自分でないようにも見える。


 待ち合わせの時間までまだたっぷりある。余りすぎている。

自然とタバコに手がいく。ちょっと吸っては消して、また吸っては消して、灰皿はもうすでに満杯である。腕時計にも何度も目がいく。

まだ1分立っていないはずなのに、また腕時計に目がいく。

よしあと10分したら家を出よう。その10分がほんと長かった。

灰皿は一度捨てたものの、すでにもう満杯になっていた。


 車のエンジンをかけ、「よし」と和男は確認する。

昨日の夜、今までにないほど丁寧に掃除をしておいたのである。

ファブリーズで親父臭さを消し、新しい芳香剤を置き、

車の中はストロベリーの匂いがいっぱいに漂っている。

そしてルームミラーに写る自分の顔を見て再度

「よし」と言いほっぺたを叩く。

心臓はドキドキじゃなく、ドックンドックンと音を立てている。

車の中のカップホルダーには、缶コーヒーが二つ並んでいる。

腕時計を確認し、静かにDに入れ車をだした。

恵利子の家の前に着くまで何度ルームミラーを見たことだろう。

何度見ても変わらない顔のはずなのに、これが恋なのだ。


 恵利子の家の前に着くと、恵利子もラフな格好で出てきた。それがとても新鮮でうれしくて、さっきまでの緊張感は一気に緩んでいった。

「おじゃましま~す」いつもの笑顔でドアを開け助手席に入って来る。

「あ、あぁ~・・・待った?」

約束の時間には遅れてもいないはずなのに、和男はあと言葉が見つからなかった。

「全然、時間ちょうどだもん」笑う恵利子がとてもかわいい。

用意しておいた缶コーヒーを飲みながら

「実は私、緊張しちゃった」と恵利子はコーヒーを両手に持ち、

微笑んで言った。

「うそ~実は俺も」と二人は、お互い顔を見合わせ大きな声で笑った。

和男は、あまり話題のあるほうではなく、どちらかというと奥手のほうに入るかもしれない。しかしその場を持ってくれたのは、やはり恵利子のほうで始終二人は笑っていた。


 そして二人が向かったのは、ごく普通のレストランである。

腹減ったしということで、二人が注文したのは生姜焼き定食である。

それもボリューム満点の。二人で食事をしながら、和男は思っていた。

何も話さなくても、ただ一緒にいるだけでこんな穏やかな気持ちになれたことってあっただろうかと。いや、多分昔はあったのかもしれない。

けどそれも今では、すっかり忘れてしまったのだろう。

過去を忘れるには、新たに進むのが一番と聞くけど、和男はもう過去を思い出すことはなくなっていた。時々二人でクスクスと笑う姿は、どう見ても夫婦には見えないだろう。

なぜなら、こんなに笑う仲のよい夫婦ってまずいないだろうから。


 恵利子は自分の過去は話さず、和男も聞かない。

和男も自分の過去は話さず、恵利子もまた聞かない。

二人にとって過去なんてどうでもいい。これからいつも笑って生きていきたい。そんな思いは、二人一緒なのかもしれない。

お互い結婚に一度失敗し、心に傷はある。

その傷は消えることはないかもしれない。

でも痛みがなくなり、笑って生きていくことはできる。

人生って一度きりじゃない。やり直しは何度だってできるに違いない。

そして生きていれば、楽しいことは必ずやってくる。

今朝、遅すぎると感じた時間の流れも、今は早すぎるくらいに過ぎて行った。


「今日はありがとう」

「いや、こちらこそ」

「久しぶりに、いやぁ~何年ぶりかな。楽しかったなぁ~」

「それ、こっちのセリフ」

「これ何だっけ?興奮しちゃったな」恵利子は、UFOキャッチャーで取ったチョッパーを見ながらほんとに女子高校生のように笑っていた。

「それ、チョッパー。ワンピースの中に出てくるお医者さんね」

「そうそう、チョッパー。かわいいね」

「また会えるかな?」

「ん~どうかな?」

「えぇ?」

「う・そ・よ。じゃまた近いうちに・・・ね」

「はぁ~よかった」

「え?びっくりしたの?」恵利子は、ほんとに心の底から笑っていた。

「あ・・・あぁ~」

「フフフ。・・・・・和男さん」

「ん?・・・」

「お仕事気をつけてね」

「あぁ、ありがとう。恵利子さんも体に気をつけてよ」

「うん、じゃまたね」恵利子は、ドアを開け車から降りようとした。

「あの・・・・・」

「ん?・・・・・」

「もし、よかったら・・・もしよかったらですけど」

「ん?何?」

「お友達としてでいいですから、お付き合い?・・・いや、付き合ってくれませんか?」

「うん、こちらこそよろしく」恵利子は、いつも以上の笑顔で言った。

「え!ほんとに・・・恵利子さんありがとう」

「じゃ、またね」と車のドアをゆっくりと閉めた。


 和男が車を出すまでその場に立ち、静かに車を出しながら恥ずかしそうにお辞儀をする和男を笑い、恵利子もまた丁寧にお辞儀をし、小さく手を振っていた。

この歳になって、まさかこういうことが起きるとは。

そうだ歳なんか関係ない。

神様ありがとうございます。本当にありがとうございます。

これは奇跡だ。神様の仕業だ。きっと神様がくれたものに違いない。

神様なんか普段から何も思うこともない和男だが、どうしてもこの日に感謝したかったのであろう。

それだけ特別な日であったのだ。


 そして二度目の食事の帰り道、久しぶりに素敵な夕陽に出会い、

「見ていく?」和男が言う。

「うん、見ていこう」恵利子は、いつになく明るかった。

車を止めると、恵利子は何も言わず車から下りて、海辺へと歩いて行った。

和男は、若い恋人たちがするようにその後を追いかけたが、

ふと立ち止まった。


 今、この瞬間が夢ではなく、現実か確かめるかのように。

そして、今この瞬間をもっともっと感じていたくて立ち止まった。

そしてこれは現実だと確信したかのように、ゆっくりと恵利子のいる海辺へと下りて行った。

でっかい流木を見つけ、恵利子のとこまで持って行き

「座れば」と言い、二人大きな木の上に座り、夕陽を見つめていた。

「きれいだね。いつも」恵利子の瞳の奥には、その真っ赤な夕陽が光輝いていた。

「うん。やっぱ歳かな?今まで何にも感じなかったもんなぁ~」

「フフフフ、でも今、感じればそれでいいんじゃないかな。いいふうに歳とったと」

「はははっは、いいふうにか」和男は、小石を拾い海にボチャンと投げた。

「和男さんと会ったのもここだったもんね」

「ん・・・・・?」

「やだぁ~写真撮ってくれたじゃない」

「あぁ~そうか。そうだったね」

「フフフ・・・あの日、和男さん泣いてた」

「え?何で泣くんや」

「まぁ、いいの、いいの、そこが和男さんらしいとこだから」

恵利子は、和男を見つめ大きく手を広げ、

「気持ちいいねぇ~」と言い、そして和男の肩にそっと頭を寄せてきた。

さわやかな髪の香りが、和男の体の中までじわじわ行きわたり、

幸せってこんなことなのかもしれないって思っていた。


 和男は、左手を恵利子の肩に回し、そっと抱き寄せ、二人何も言わず夕陽を見つめていた。さらに二人は、どちらからとなく体を寄せあい、和男の左手にも力が入り、お互いじっと見つめ合う。

和男は、恵利子の左頬に右手を当て、そっと引き寄せる。


 そしたら恵利子は「ダメ」と言い、

人差し指を和男の唇に当て、恵利子は笑っていた。

照れ隠しでごまかす和男に恵利子は、

「私から」と言い、そっとキスをしてきた。

カモメが、ひやかすかのように頭の上で、ア~ア~泣きながら飛びまわっている。

それが、二人にとって初めてのキスであった。

和男は、目を開けたまま、あっけにとられていた。

そして何度も何度も二人はキスを繰り返した。

そんな二人を見ていた夕陽までも、見せつけないでくれよというかのように笑っているように見えた。

二人は、体を寄せ合ったままずうっとにんまり笑っている夕陽を見つめていた。

その夕陽も照れるように沈み始め、空も真っ赤に燃えている。

すごい色だ。

空に絵具を塗ったように赤やオレンジ色が鮮やか過ぎる。

まるで二人の為だけに塗られた絵のように。

その絵に描いたような夕陽に向かい、和男は人差し指でゆっくり描いた。

「ありがとう えりこさん」と。

「こちらこそ かずおさん」と恵利子も描き、二人はまた抱き合った。

二人の描いた文字が、いつまでもその絵の中で浮かんでいるかのように見えた。


「結婚って何だろうね」恵利子がそんなこと言うのは初めてだった。

「ん~俺もわかんね」

「幸せってなにかなぁ~」

「・・・・・」

「幸せになりたくて結婚するのか、幸せだから結婚するのか。

どっちかな?」

「どっちも正解じゃないかな」

「まぁ、二人とも一度失敗してるからね」恵利子は微笑んでいた。

「だよなぁ~」和男も笑いながら、また海に小石を投げた。

「私、不安だった。これからどうなるんだろって。毎日毎日不安だった」

「同じだよ。俺もこの先どうなるんだろっていつも思ってたし、孤独死が見えてたもんな」

「あまり先のこと考えないようにしたけど、どうしても考えちゃうし・・・」

そう言う恵利子の目が、涙で潤んでいたのが和男には見えた。

「恵利子さん、何かあったら遠慮なく言ってよ。何でもするから」

「ありがとう」恵利子は、和男に気づかれないようにそっと涙をふき取った。

車まで思いっきり抱き寄せ、二人ゆっくりと砂浜を歩いていった。


 言葉は何もいらない。

恵利子のこのぬくもりを感じていることが最高の幸せだと。

その道のりが、とても幸せに感じられたのは和男だけでなく、

恵利子も一緒だった。

砂に足を取られ転びそうになると、大きな笑い声が海辺に響き渡っていた。

靴に入った砂をとろうと、恵利子は和男の右肩に左手を乗せ、

靴を脱ぎ砂をほろこっていた。

それがまた40代だけに、和男にはとてもかわいいくてしようがなかった。

車の中で二人は、一緒に吹き出した。

何がおかしかったのかわからなかったが、なぜか顔を見合わせた途端、

おかしくて吹き出してしまったのである。

そしてもう一度二人は、唇を重ね合わせたのである。



 それからも和男は、毎回恵利子のレジに入り

「がんばって」と一言言うようになり、

「うん」といつものように、笑顔で答えてくれるそんなひと時が、とても幸せで幸せで怖いくらい幸せを感じていた。


「ねぇ、和男さん、恵利子さんとうまくいってるの?」

おせっかい由香は、相変わらず健在だ。

「別に、普通だけど」

「しっかりしないとダメだよ」

「え、ん・・・まぁ~」

「あぁ~大丈夫かな、ほんとに」

「由香」

「何?」

「由香って、ほんと優しいんだね」

「何、今更、今わかったの?」

「いや、前からそう思っていたけどよ~」

「あぁ~やっぱ和男さんがよかったかな」

「今の旦那さんが一番だよ」

「これからも絶対、友達でいてね」

「こちらこそよろしく」

「恵利子さんは、私たちのこと全部知っているから気にしなくていいよ」

「さすが、おせっかい由香だね」

「だから一言多いってば」

「ごめん、ごめん、でもありがとうね」

「あぁ~やっぱり損したかな、私も離婚して和男さんと一緒になった方がよかったかな」

「俺と由香は、いい友達だと思うけど」

「男と女に友達って成り立つんかな」

「むずかしいけど、こうしてるじゃない」

「そうかなぁ~。あ、仕事しなくっちゃ」

「由香・・・」

「え?何?」

「ありがとうね」

「何、あらたまって」

「いや、由香もがんばってね。ほんとありがとうね」


 考えてみると、これもすべて由香のおかげであり、感謝しないと。

和男は心の中からそう思った。

由香と不倫して付き合おうかと、思った時も確かにあった

けど、由香の幸せは壊したくなかったし、それ以上自分が壊れていくのも怖かったし、でもある意味で由香は、自分にとって一生大事な存在なのかもしれないとも思った。


 それから和男と恵利子は、休みが合えば会うようになり、買い物などにもよく出かけた。まるで、若い者がデートするように。

そして、和男にとって一番うれしいデート場所は、

何と言ってもスーパーであった。

一人スーパーで買い物するより、やはり女の人と一緒に買い物するほうがどんなにいいか。

でも一緒に住んでいるわけでもないので、和男の食材は恵利子と一緒に選んで買い、恵利子は自分のは自分で買っていた。

それぞれがカゴを持ち、それぞれに同じものが入っていることもあった。

周りから見れば、これまたおかしいかもしれないが、それもまたとても楽しかった。

でもいつかは、買い物カゴ一つで自分が持ち、二人で買い物する時がくればと、和男はいつも思っていた。でも、もしそんなことを言い出せば今の幸せが消えてしまいそうで、とても言えることではなかった。


「今日はカレー作ってみようかな」

「え、和男さんのカレーどんなんかな?」

「そりゃ~食べれるで」

「一度食べてみたいなぁ~」

「それだけは、勘弁してよ」

「そう言われると、かえって食べてみたくなるのよねぇ~」と恵利子は和男を覗き込む。

「カレーって、その家によって味違うしね」

「そうよね、子供の年齢にも合わせないといけないしねぇ~、和男さんは辛口?」

「そうだね、やっぱ辛いのがいいねぇ~」

「やっぱり一度食べてみたいなぁ~」

「こっちこそ、恵利子さんのカレー食べてみたいなぁ~おいしいだろうなぁ~」

「じゃ、今度カレー作ってあげようか」

「え、うそ、ほんとに」

「うん、今度うちに遊びに来てもいいよ」

「え・・・?」

 

それから何日かして、和男は恵利子に招待されアパートに向かった。

その日、娘もいるんだけど、もしよかったら約束のカレー作っているから遊びに来ないって言われ、即答で行きますって答えた。

けどどうしよう。

行きますって答えたけどどうしよう。

あぁ~どうしよう。

娘さんに会いたい気持ちはあるけど、どうも恥ずかしいやら何やらで、

その日からドキドキしっぱなしな毎日が始まった。

最初のデートの時より落ち着かない。


 そして当日。よしと渇を入れケーキを買って初めて恵利子のアパートに入って行った。

いつもの笑顔で恵利子は出迎えてくれた。

「お・じゃ・ま・し・ま・す」

「はい、どうぞ」

テーブルには、ごちそうが並べてあった。

そして「娘の奈央です」

「あ・・・あ・・・こんばんは」

「こんばんは、奈央です」

「工藤って言います、よ・ろ・し・く・ね」


 恵利子の娘さんとは、写真を撮って以来のご対面であるが、

初めてって言ってもいいのかもしれない。不安なのか、うれしいのか、

どちらかと言うとやはり不安のほうが大きくて、胸のドキドキは止まらなかった。ケーキを差し伸べると、「わ、ケーキだ」って喜ぶ姿は、

かわいいくて、さすがまだ高校3年生の女の子かなと思った。


 奈央に、「今日工藤さんっていう人が来る」ってことを話したら、

別にいいじゃんって言ってくれたので招待したそうである。

そして、恵利子の作ったカレーを食べ


「ん~・・・おいしいなぁ~」

「ほんと?」

「ん、これが恵利子さんのカレーなんだね」

「娘の奈央も手伝ったけど」

「え、ほんとに」

「ちょっとね」って娘の奈央は笑っていた。

「ほんと、最高うまいよ」

「よかった」


 三人で、テーブルいっぱいのご馳走とカレーを食べて笑い、これが家庭の味なんだなぁ~と和男は一人幸せを感じていた。

食事も終わり、お茶を飲み、いろいろ話をしていると娘の奈央は気を使ってくれたのか「じゃ、ごゆっくりね」と言って自分の部屋へと行った。

「いい子だね」

「そうでもないけど、二人でいるといつも喧嘩ばっかりで」

「ハハハ、どこも一緒だね」

「で、どう思ったかな?」

「ん~気にしなくていいんじゃない」

「いやぁ~気になるよ」

そう言う和男を見て、恵利子はクスクス笑っていた。

TVのそばに飾られている一枚の写真に目がいくと

「この写真、知ってる?」

「これ、俺が撮ったやつ?」

「そう。意外とよく撮れてるでしょ」

「うん。腕がいいのか、モデルがいいのか」

「モデルでしょ。フフフフ、奈央も気にいってくれてるの。二人で撮った写真って考えてみるとないものねぇ~。だから大事な一枚なの」


 夕陽をバックに最高の笑顔で写っている二人。

今までのいろんな思いがそこにすべて写っているような気がする。

それが、その笑顔となって写し出されているような気がする。

「最高の親子だね」和男は、お世辞でもなく心からそう思った。

娘の奈央にもお礼を言い、その日は早めに帰ってきた。

帰り道、車を運転しながら一人うかれて音痴なのも忘れて、

鼻歌を歌っている和男がそこにいた。



 次の日、恵利子から

「娘の奈央、いい人みたいで、よかったねって言ってくれたよ」ってメールがきた。

「これで仕事ができるよ、気になって、気になって、奈央ちゃんによろしくね」

こうして、普通なら親公認のところ、娘公認で和男と恵利子の新たなお付き合いは始まったのである。


 その後二人は、始めて映画にも出かけた。

映画館に行くのは、実に何年ぶりだろうか。

和男も恵利子も二人とも、わくわくしてポップコーンやフライドポテトにジュースなんかも買って観ていた。

『最後の初恋』これが二人で観た最初の映画である。


 ラストシーンに恵利子は、涙を抑えているのか。

ハンカチをそっと目に持っていき、スクリーンを見つめていた。

和男は、ちょっときついかなと思うぐらい力を込めて恵利子の手を握り、

声には出さないものの、心の奥底で言った。

「恵利子、これが僕の最高のラブストーリーだよ。ありがとう」と。

確かに恋は、今までいくつかした。どれもみな恋と呼べる恋だった。

本気でない恋などなかった。だから叶わない恋があってもいい。

叶わないほうがいい恋があってもいいと思っていただけに、今こうしている自分が不思議で、隣に座っている恵利子を見つめていた。

僕のラブストーリー、まだ始まったばかりだけど最高のラブストーリーがここにある。

和男は、スクリーンを見つめそう思っていた。


 帰り道、車の中で恵利子は

「何であぁなるのかな?」

「ハッピーエンドかと思ったけどな」

「彼女きれいだったね」

「リチャード・ギアもいい男だったね、でもダイアン・レインより恵利子さんのほうが、ずっときれいだよ」

「え、和男さんったら、嘘でもうれしいよ」

「嘘じゃないよ、何倍も何倍も恵利子さんのほうがずうっときれいだよ」

「ちょっと大袈裟じゃな~い」

「いや、ぜ~んぜ~ん・・・・・・俺、マジで嘘言えないから」

車の中は、いつものようにほがらかな笑い声でいっぱいだった。

そしていつものように、きれいな夕陽が迎えてくれ、車を止める。

車の中から「きれいだね」って恵利子が言うと

「そうだね、若い頃はそんなに思わなかったのになぁ~これってやはり歳なのかな」って笑うと、

恵利子も「そうかもね、お互い。でも和男さん前も同じこと言ったよ。やっぱ歳だね」ってフフフって笑っていた。

和男は苦笑いし、微笑んで夕陽を見ている恵利子を、そっと抱き寄せキスをした。


「いいのかな俺、こんなに幸せで」

「私だって怖いくらい幸せよ・・・」

「恵利子さん・・・」


 そして二人は、またそっとキスをし、恵利子も和男の肩に腕を回してきて、しばらくそのまま時間が止まったかのように抱き合っていた。

一層のこと時間が止まってくれたほうがいい。

今の幸せを失いたくないという思いもまた、二人一緒だったのだろう。

恵利子の目には、涙が浮かんでいた。


 その後、初めて恵利子は、和男の家へやってきた。

両手に食料をいっぱい抱えていつもの笑顔で。

そして今日のメニューは肉じゃがである。

もちろん和男の食べたい料理である。

肉じゃがも家庭の味がするからであろうか。

男が食べたい料理の一つでもある。


「男一人にしては、片付いているのね、私が来るから掃除でもした?」って笑っていた。

「いや、いつもこうだよ」和男は自慢げに言ったが、内心ほっとした。

恵利子が台所に立ち、カタカタと包丁をたてている音に、

TVを見ながらごろ寝している自分があまりにも幸せすぎて、

どうしたらよいか落ち着かなくて


「何か手伝うことない?」

「じゃ、玉ねぎお願いしようかな」

「よっしゃ~任せておけ」

「おっ、さすが。意外と包丁の使い方、様になってるね」恵利子は吹き出しそうに言う。

「そりゃぁ~嫌でもやらないといけないしなぁ」

「こんな感じでいいかな?」

「うん。上出来」恵利子が和男を見つめているのを知りながら、

和男は照れくさそうに玉ねぎだけに集中していた。

その不器用さを恵利子は、隣でクスクス笑いながらカタカタ歯切れのよい音を立てていた。

「いただきます」

「う~ん、おいしいね」

二人で食べる夕食が、こんなにもおいしくて楽しいとは。


 一緒に住みたい、暮らしたいと思うものの、なぜかまだそういうことは言えないし、言うきっかけもまた見つからなかった。


「恵利子さん、ありがとうね」

「え、何?また改まって」

「いや、ほんとにありがとう」和男は、深々とお辞儀をした。

「ばかねぇ~。和男さんってそんなことしか言わないね」

涙もろくなった和男が、目を潤ませているのを知りながら

「いっぱい食べて体力つけなきゃ。健康が第一だからね」

「おぉ~そうだな」


 一人になってから、ほとんどインスタント食品で済ませていたので、

何よりうれしくてしようがなかった。

もちろん体のことなんか気にすることもなく、うまいもまずいもなく、

とにかく体の中へ押し込めばそれでいいと思っていた。


 後片付けも二人で台所に立ち、ニコニコ微笑みながら食器を洗っている。

和男は恵利子をちらっと見て言う。


「あの~・・・」

「ん?・・・何?」

「いや・・・あ、おいしかったね」ガッハハハ和男は大声で笑う。

「ほんと?うれしいなぁ~」恵利子は、覗き込むように言う。

その顔が和男は好きだ。

「うん。あの~・・・」

「ん?・・・」

「明日、遅番だよね」

「うん。そうだけど」

「そっか、いや・・・」また和男は、大声で笑う。

「和男さんは仕事だよね」

「ん、まぁ仕事だけど」

しばらくして和男はまた言う。

「あの~・・・」

「ん?・・・」

「もし、よかったら泊っていか・・・ない?」

「フフフ・・・どうしようかなぁ~」

「あ、いや・・・やっぱり・・・ね、まだ・・・ね」ハハッハハハ

「じゃ、お言葉に甘えて泊っていっちゃおうかな」和男と目を会わせずに言う。

「え!・・・うそ!・・・ほんと」食器を洗う手が止まってしまった。

「うん」和男の好きな顔で言う。

一つの布団で、一緒に過ごした初めての夜だった。


 朝、目覚めると隣に眠っているはずの恵利子がいない。

何やら台所でカタカタ音がする。昨日聞いた音と同じ音。

和男は静かに台所を覗きこむ。

それに気付いたらしく、恵利子は


「和男さん、もうご飯できるからね」と言う。

「あ、あぁ~」和男はびっくりし、小学生のように起立してしまった。

「はい、これお弁当。ご飯これくらいでいいのかな」

「あ、うん、ちょうどいい。ありがとう」

「じゃ、ご飯食べようか」

「あ、そうだな」

なぜかまだ照れくさい和男。それを知っている恵利子。

「じゃ、先に行くわ」

「和男さん、気をつけてね。いってらっしゃい」小さく手を振る恵利子。

「おぉ!」ってぎこちなく頷く和男。玄関を出たとたん、顔がぐじゃぐじゃにゆるんでいくのがわかる。天気もいいし、空も真っ青。澄み切った朝の空気が最高においしい。

両手を上げ大きく深呼吸し、恵利子の作ってくれた弁当を見て、

さて今日もがんばるっか。

「おはようございます」近所の人には、いつもより自然と大きな声で挨拶している和男。

会社に着くと、同僚たちは

「工藤さん、何かえぇことあった」

「いや、別に」という顔は、誰も見ても浮かれていた。


 それから特に二人は、休みが合えば当然のように会い、よく出かけた。

考えてみれば、自分の洋服などここ数年買ったことなどない。

それは和男も恵利子も同じだった。共に生活に余裕があるわけでもなく、

子供優先というのも、二人とも同じだった。


 和男は、翔太も社会人になり一人になったけど、二人の教育費がある。

恵利子は今年1年、まだ娘さんを一生懸命育てなければいけない。

けどお金のことを話したことなど一度もない。お金のことが原因で家の中が暗くなり、冷たく重い空気が流れ、徐々に家庭が壊れていった。

和男も恵利子も似たようなものだったからであろうか。

 

「恵利子さん、ちょっと見ていく?」和男は、女性の洋服売り場を指差した。

「じゃ、見るだけね」

いつからだろうか。二人は歳も忘れ腕を組んで歩くようになっていた。

恥ずかしいのは、もちろん和男。周りの目が気になって気になって仕方なかった。

でも今は、そうしないと逆に落ち着かないようにも感じていた。

「これ、かわいくない?」

「ん~」と言い、恵利子は値札をちらっと見る。

ちょっと高めだったのだろうか。

「あっちもいいねぇ~」

「どれどれ、おぉいいね」今度は、和男が値札を見る。

「ねぇ、男物見に行こうか?私、男物見るの好きなんだ」

「その前に、好きなの買ってあげるよ」

「え、いいよ別に」

「ただし、上限あるけど・・・ね」

「じゃ、今度でいいから」

「だめ!よし、さっきのあれとあれにしよう。そしてサービスとしてもう一点まで」

和男は、周りから見られないよう財布からお金を取り出し恵利子に渡した。

「俺が払うと変だから、またこういうの苦手だから恵利子さん払って」

「和男さんったら、ありがとうね」

「残りで飯でも食べよう。その時もそれで払って」

和男は本当に照れ屋なのか、ただ周りを気にしすぎなのか。

どちらかというとどっちもなんだろうなと恵利子は

「フフフフ、はい、わかりました」と笑っていた。

これが恵利子に初めてしたプレゼントってやつでした。

豪華なものでもなく、プレゼントとはとうてい言い難いものであったが、

恵利子は子供のようにはしゃいで喜んでいた。


「和男さん、これ似合うよ」洋服を和男に当てて恵利子は言った。

「ちょっと派手じゃない?」

「和男さん、どちらかと言うと派手好みじゃない。絶対似合うよ」

「カッコいいかな?」

「ん~カッコいいというより・・・似合う」

「な、何それ?」

「よし、これにしよ」恵利子は、洋服を左腕に抱えレジに行こうとする。

「待って」和男はお金を渡そうとする。

「これ、私から・・・ね」

「いいよ」

「だいじょうぶ。だって2000円でお釣りくるもん」

恵利子は、いつも笑っている。


 夫婦のようで夫婦でない二人、恋人と言うにはこれまたおかしな二人。

40代・50代の恋を人は何と呼ぶのだろう。

いくつ恋を経験してきても、同じ恋というのはなく、新しい恋はいつになく新鮮でそして心が躍るのはなぜか。20代には20代の、30代には30代の、40代には40代のそして50代には50代の恋がある。

年代に関係なく、人を好きになるということはなんと素晴らしいことか。

歳を重ねるごとに恋なんてと思い、口に出して言えなくなるのもまた事実。けど、年代に関係なく突然やってくるのも、これまた恋というやつ。

自分ではどうにもならない。どうしようもできない。面倒で厄介なやつ。

でもこの面倒で厄介なやつが、とてつもなく元気をくれるのも事実。

いくつになってもそれに出会ったらしっかり受け止め、人生を謳歌しようじゃないか。和男は自分に言い聞かせるように、レジにいる恵利子を見つめていた。


 和男の右手には二人分の荷物、左手には恵利子の腕が抱きついている。


「ねぇ、あそこは?」立ち止まり和男は言う。

「ん?」

「奈央ちゃんにも何か買っていこう」

「えぇ~いいよ。奈央好みうるさいから」

「ん~そっか。でも買っていこうよ。とりあえず見てみよっか」


 おぉ~これかわいいと思っても、女の子の洋服は確かに難しい。

気にいってくれなかったらそれこそ最悪だ。

恵利子も首をかしげやっぱりやめようかと言う。

「じゃ、Tシャツでどう?もう夏だし、Tシャツは何枚あってもいいんじゃないかな」

「ん~・・・」

「何か買ってやりたいんだよ。ねぇ、安物で悪いけど」

「じゃ、お言葉に甘えてTシャツにする?」

「おぉ!そうしよう。恵利子さんと同じく3点セットで」

和男の右手には、荷物がもう1個増えた。


 二人向かい合い、アイスコーヒーを飲みながら

「和男さん、ありがとう」とじっと目を見つめて言う。

「いや、こっちこそありがとう。恵利子さんに買ってもらったの大事にとっておくよ」

「それじゃ、意味ないね」フフフと笑いストローでアイスコーヒーをかき混ぜる。

「あ、そっか。でも、もったいなくてねぇ~」和男も恵利子の真似をし、かき混ぜる。

「そうだ。日頃の運動不足の解消にボーリング行かない?」

「いいね、行こうか。でも何年ぶり?いやぁ~何十年ぶりかなぁ~」

「俺も!・・・筋肉痛なっちゃうかなぁ~。でも、よし!行こう」


 平日のボーリング場はまるで貸し切りのようにガラガラだ。

一昔もふた昔も前に戻ったように二人ははしゃいでいる。

ガタでもストライクでもスペアーでも声が枯れるほど笑い、

大きな拍手をしている。そして投げ終わった後には、ハイタッチをする二人。


「ねぇ次、バッティングセンター行かない?」

「行こうっか。私行ったことないからやってみたい」

「よし!じゃ決まり。行こう」


 和男が打っているのをフェンス越しに見て、空振りの時は大声で笑い、

いい当たりで打った時は、おぉ~って顔をし、拍手をしている。

始めてだという恵利子は、フォームが様にならなくてかわいい。

40代でかわいいというのも何だが、とにかくかわいい。

空振りし、舌をぺロッと出す姿は特にかわいい。

ボールにかすった時は、何事かのように騒いでいる。

「もうちょい、がんばれ」

フェンス越しに言う和男を見て、グーサインをする。

「当たった」恵利子は、自分でもびっくりしていた。

終わって出てきた恵利子に、和男はハイタッチし「やったね」と言う。

「あぁ~私も明日、筋肉痛だな」

恵利子は、すっきりした顔で言い、額の汗を拭く。

「俺は、もうきてるみたいだよ」と脂肪が気になり始めた和男は、脇腹を掴んで言う。


 楽しくて幸せだなと思う時、

季節の流れるのはいっそう早いもので、いつの間にかお盆が近付いてきた。今年は、連日の猛暑が日本列島をと毎日のようにTVで流れている。

うだるような暑さで仕事も汗まみれ、同僚たちは

「暑~い。工藤さん、暑くないかい」

「ほんと暑すぎだな、こりゃ」

「でも工藤さん、気合入ってるね。若い人は違うね」

「おい、おい、まだまだ若いもんには負けられねぇよ」

首に巻いた手ぬぐいで汗を拭きながら言う。

同僚たちに冷やかされながらも、和男は毎日が充実していて楽しかった。

入社時、どちらかというと暗い感じであまり話さなかった和男に、

同僚たちはいつもにこやかに話しかけてくれるようにもなった。

そう、すべてが少しずつ変わり始めたのである。

「じゃ、俺先に行ってくるわ」

「おぉ!気をつけてな」

トラックのエンジンをかけ、はりきって出発していく和男だった。

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