第1章
2003年3月30日 青森駅
「せば、行ってくるじゃ」
「おぉ~・・・・・がんばれ」
和男は、何を思っていたのであろうか。
誰かに背中を叩かれたようにびくっとし、とっさに出た言葉がそれだった。
言いたいことは山ほどある。でも何を言ったらいいのかわからない。
そしてまた、それ以上言うと、恥ずかしい話だが、泣き出してしまいそうで、言葉にできない。
それが、和男の精一杯の声に出して言える言葉だったのだ。
今年は、いつもの年より寒さも厳しく雪も多い。
温暖化という言葉が、一体どういう意味なのかと思うほど厳しい冬である。
もう3月も終わりだというのに春はまだまだ遠い。
けど、昨日までの暴風雪はどこへ行ったのか。
今日はお天道様も久しぶりに顔を覗かせ、何とも春を思わせる陽気で気持ちがいい。
朝6時に家を出て、2時間半かけてここ青森駅に着いた。
車の中で、口を大きく開け翔太はずっと爆睡していた。
地元で過ごす最後の夜を友達と寝ずに過ごしていたのだろう。
むにゃむにゃと寝ている姿を見て、高校を卒業したとはいえ、まだ子供、
けど、しばらくこんな姿も見られないんだなと思うと、
寂しいような微笑ましいような複雑なものも感じる。
そう、今日は翔太が高校を卒業し、東京に就職に立つ日である。
改札口で、「じゃあな」で終わる予定だったけど、気がついてみると和男は、入場券を買っていた。
「ホームまで行くじゃ」
「えぇ~」と翔太は、唇をへの字にし、苦笑いしていた。
どこか、かわいそうに見えるその笑顔が、和男の胸には、なぜか痛々しい。
ふだんガムなんか食わないのに、翔太は噛んでいた。
その時の気持ちが、痛いほどわかるだけに鳥肌が和男の全身を襲う。
改札口に入り、ホームまで行く間、何を話せばいいか、何と元気づけたらよいか。
けど、何も出てこない。やっとのおもいで出てきた言葉は、
「今日天気いいなぁ~」
「んだなぁ~」
「東京は、もっといいべなぁ~」
「んだべなぁ~」
話したのは、たったのこれだけだった。
翔太の荷物を一つ持つと、「ん?」と翔太はまた苦笑いし、
和男もまた照れくさそうに、同じ苦笑いをする。
ホームで列車を待つ間は、お互い無言であっちを見たり、こっちを見たり落ち着かない。
この親子以外にも周りには、就職に向かう子供たちがいっぱいいて、
「写真撮ろうよ」とか言ってピースサインやグーをしている家族・友達も多い。
巣立つ子どもたちは照れくさそうに微笑んでいるけど、
どこか不安で寂しそうな笑顔にも見える。そんな見送りに来ている
家族たちの姿が、ごく普通の光景が、こんなにも痛々しく感じるとは・・・。
笑顔と涙が入り混じり、甲高い声がホームに響き渡っている。
そのホームのはずれには、父と子、二人だけの姿がぽつりとあった。
絵にならない、どこかぶっきらぼうに立っている二人の姿があった。
ちょっと距離をおいた父と子二人の姿が・・・。
6年半前に離婚し、翔太は和男のところに残った。
いや、残ってくれたって言ったほうがよいのかもしれない。
この6年半のいろんな思い出が、ぐるぐる和男の頭の中を回っている。
今は、「ありがとうな」と言いたいところだが、そう簡単に口に出せるわけもなく、けど何か言わなきゃと思いながらも、何も言いだせないまま、ゆっくりと時間は過ぎていく。
時間がない。焦れば焦るほど口が開かない。額からは汗さえ出てくる。
あぁ~どうしよう。
そして9時58分
スーパー白鳥10号がガタンゴトンガタンゴトンと入ってきた。
「せば、行ってくるじゃ」
「おぉ~・・・がんばれ」
翔太は、わかったと言うように右手を上げ列車の中へと入って行った。
和男は、金縛りにもあったかのように、その場から一歩も動けずにいた。
いや、照れくささからどうしたらよいか、わからずにいたのかもしれない。
列車が動き出すと、あわてて翔太を探すように走っていった。
ドアが閉まるのも早く翔太がどこの席に座ったのかさえ確認できないうちに列車は出発してしまった。
あっという間に列車も見えなくなり、ホームにはもう誰もいない。
その場に残っていたのは、和男一人だけだった。
一人改札口を出て、車まで急ぎ足で行く。誰かと顔を合わせないよう下を向きながら。
すばやく車に乗り込むと同時にルームミラーを見る。
えぇ?目が真っ赤である。
あぁ~やばいと思ったとたん目から何かがこぼれ落ちて来た。
いい歳して何やってんだろと思いながらも、それは止まらなかった。
さびしいのではなく、翔太が無性にかわいそうに思えたのである。
しばらく、ハンドルの上に頭をおいたまま和男は恥ずかしさも忘れ、泣いていた。
せめて、ごく普通に家族みんなで見送りできなかったことを謝るかのように。
ただぼうと運転していた帰り道
深浦町風合瀬海岸の夕陽が、3月にしては、あまりにもきれいで、思わず車を止めてしまった。
窓を少し開け、ポケットからタバコを取り出し、ゆっくりと深く吸う。
夕陽が沈んでいく時、よくじゅわ~と音が聞こえるようだとか言われるけど、
本当にそのように聞こえるようで、普段は海辺に降りることもないのに、
タバコの消しドアを開け、まだ雪の残っている海辺に下りて行った。
いつも見る夕陽だけど、こんなにもきれいだったんだなと、しばらくの間じっと見つめていた。
冷たい風が、頬をなでていく。それがまたとても心地よさも感じさせる。
そして、6年半前の記憶が・・・・
「お父さんとお母さん離婚することになったばって、どっち行く?」
子供は3人で、小学6年・4年・2年、3人とも男である。和男は3人に低い声で、
そして言葉一つ一つを噛みしめ申し訳なさそうにゆっくり言った。
突然のことに何があったのか理解できないと思っていたけど、子供たちは違った。
普段の生活から何か感じていたのだろう。父と母の様子が普通じゃない。
いや、感じないわけがないだろう。その空気は確かに異様ともいうべきだから。
子供なりに、今日という日が来ないよう、毎日毎日思って暮らして来たのかもしれない。
もしそうなったらどうしようとも考えていたのだろう。
子供たちなりに結論を出していたのだろう。二人は即答で答えた。
「ここにいる」と長男
「お母さんとこ」と三男
「・・・・・」答えられない次男
次男・三男の泣く声が、痛々しくて心の奥底に突き刺さる。
「何でや、何でや」と泣く声が、切なすぎる。
まだ小学6年だというのに長男は、泣きもせず、瞬きひとつもせず、じっとしている。
一生懸命こらえているのがよくわかるので、尚更、胸が張り裂けそうである。
親の勝手で、こういうことになってしまい、子供たちには申し訳ない気持ちでいっぱいである。
そんな子供たちを見て、和男は涙をこらえるのに必死で、あと何を言ったのかも覚えていない。
それぞれ自分の部屋へ走るように逃げていく子供たちを、
追うこともできず和男はただその場に下を向いたまま動けずにいた。
その夜、妻は三男を連れて実家へと帰って行った。
それから、和男と次男と長男の3人の新たなと言うよりもぎこちない生活が始まった。
さて明日は二人とも学校である。
初めての弁当作り、自分の弁当は夫婦仲がギクシャクしてから適当に作っていたけど、
子供たちの弁当はそうはいかないだろうな。
和男は彼なりに、スーパーでできたおかずを買ってきて、弁当箱に詰め、とりあえず持たせてやった。
食べてくれただろうか?ご飯の量はどうだっただろうか?少なくなかっただろうか?逆に多くなかっただろうか?仕事しながら、一日中そればかり気になってしようがなかった。
いつもより早く仕事を終え、急いで家に帰ってくる。
二人ともまだ学校から帰ってきていなくてほっとする。
今日の夕飯どうしようかということで、インスタントラーメンで我慢してもらうしかないなと思っていたら、次男が「おっ」って言い帰ってきた。
「お!遅かったな」
「ん・・・部活」
「あ、そうか」
言葉も少なく、まず先にラーメンを作ってやり、
「今日これで我慢してな、ばってんチャーシュー入りだど」
「ん・・・」
「ん」だけしか言わないけど、和男は自分なりに精一杯明るく振舞った。
そしてまもなく長男も「おっ」って言い帰って来た。
「今日、インスタントラーメンだばって」
「ん、何でもいい」
それ以上会話は続かず、さっさと食べ終わると二人は、自分の部屋へ入って行った。
後片付けもしなきゃなと、二人の弁当箱を恐る恐る開ける。
はぁ~とりあえず全部食べてくれてほっとする。いや有難いとさえ思った。
そしてまた、明日の弁当はどうしよう。
今日と同じというわけにはいかないだろうな。
あとでまたスーパーに行ってこなきゃなと弁当箱を洗う。
普段台所に立つことさえなかっただけに様にならない自分だけど、
よし自分なりにがんばらねばとキュッキュッと弁当箱を洗った。
そして3日後、二人は夏休みに入り、次男は妻の実家へ遊びに来ればと言われ、
泊まりに出かけたまま、もう帰って来なくなった。
そして、長男翔太と和男との本当の二人だけの生活が始まった。
朝5時に起き、卵焼きだけの朝食を作り、二人分の弁当も作り、7時には翔太を起し、
起きたのを確認してから仕事に向かう。そんな生活が始まったのである。
そして、何より悩んでいたのは何たって食事である。
今まで料理なんかしたこともなく、かと言って作らないわけにもいかず、
書店で料理の本を買ってきては、マニュアル通りに作っていく。
が、うまくできるわけもなく、けどやるしかない。
キャベツを刻んでみても、千切りとは、とても言えず、キャベツをボロボロ床に落とし、
あわてて拾う自分の姿が情けなくて惨めで、和男はキャベツを拾う手を止め、
しばらくじっとしている時もあった。
味噌汁も、飲めば底に固まったままの味噌が。
肉を焼けば焦がしてしまうし、魚は食べられないぐらい焦がしてしまって、
ゴミ箱の中へと何度も捨てた。
初めて作ってみたカレーも、マニュアル通りにやっても水加減がうまくできず、
水だけのカレーになったり、逆に水が少なくただの固まりになったり、煮込めばいいと聞いて焦がしてしまったり、けど翔太は、文句一つ言わず食べてくれた。
おにぎりだけはさすがに食べづらいのか、まん丸すぎるとか、大きすぎるとか言われたけど
「ははぁ~、んだいなぁ~」って笑って、ごまかしていた時もあった。
けど飯いらねって言われたことは一度もなく、二人で料理の本を見ては、
「次これ、いんでねべか」と言って、「よし今度やってみるか」と作ってみたりもした。
味は保証できなかったけど、それはそれで食べれないことはなかった。
翔太は自分でも挑戦し、作っていたこともよくあった。
和男よりは、見た目もよく味もよい時もあった。
二人で食べては「おぉ~これいいかも」って笑いながら食べてた時もあった。
翔太の弁当箱は、風邪ひいた時以外は、一度も残さず全部食べてくれたのか、いつも空だった。
もちろん、和男よりは一品多く入っていた。
けど、時々入っていないのもあった。それは、箸だった。
「箸入ってねがった」って何度も言われ「ありゃあ~どうした?」
「割り箸もらったばって、これで3回目だ。明日割り箸何本か持っていくから」って言われたりもした。
先生からは「飯ちゃんと食っているか」って何度も何度も言われるらしく、
うるさくてって言っていた時もあった。
そして翔太の誕生日には、いつも寿司だった。出前じゃなくスーパーから買ってくる寿司。
また初めて迎える二人の正月は、すき焼きとこれまた寿司だった。
特に何か作れるわけでもなく、考えてみれば寿司は一番簡単だった。
でも喜んでくれた。その笑顔を見て和男としては、これが翔太にしてやれる精一杯の気持ちだったのだ。
いいのか悪いのか、特別な日には寿司というのが、お決まりになっていった。
月日の立つのは本当に早いもので、いつのまにか小学校の卒業式、中学校の入学式がやってきた。
人目が気にならないわけでもないが和男は、ビシッとネクタイをしめ出席した。
両親二人で出席している方がほとんどだけど、和男は二人分拍手するかのように大きな拍手を送り、
まわりからほほえましく笑われ、照れていたものだった。
先生方には何度も何度もお辞儀をし、涙もろい和男はいつも目を真っ赤にしていた。
毎日毎日が無我夢中で、気がついてみると翔太はもう中学3年になっていた。
あ!そういえば受験だ!
「好きなとこへ行け」
「うん」
親としてどうなのかなと思いながらも、ごく普通に入学し、
ごく普通に卒業してくれればそれでいいと和男は思っていた。
受験受験って騒ぐことも心配することもなく翔太は、ごく普通に入学した。
中学までは学校も近いこともあり、7時に起こして勝手に行ってくれたが、高校からはちょっと違った。和男はいつも通り朝5時に起きて、相変わらず卵焼きだけの朝食と二つの弁当を作り、
5時半には翔太を起こし6時には駅まで送っていく。
帰りは夜9時ころ駅まで迎えに行く。
だから朝は、いつも時間との闘いだった。
起こしてもすぐ起きず、けんかみたいになったのもそりゃあ時々あった。
自分が高校生の時、親に口答えした時のように。
学校から帰ってくる夜9時頃、駅まで迎えに行くと、決まって「今日の飯何?」って聞いた。
生姜焼きや豚丼と言うと、「お~」って言って喜んでくれた。
カレーの時は、先に「今日カレーだべ」って言われた。
体中にカレーの臭いが染み付いているんだろうね。
飯の炊き忘れも、もちろんあった。
そばよりうどんが好き。
牛肉より豚肉が好き。
カツ丼よりはただのカツが好き。
野菜やピーマンは何でも食べる。
こんなことも、二人で暮らして初めてわかったことである。
小遣いも少ししかやれなかったけど、文句も言わなかったし、助かった。
そして何よりうれしかったのは、和男の誕生日である。
小学生の頃から覚えていてくれて「誕生日だな」って言ってくれただけで、もう本当にうれしかった。
それが高校生になると、毎年誕生日には、でっかいバナナボードを買って来るようになった。
少ししかあげてないお小遣いで、買ってきてくれたのかと思うと、和男の目は潤んでいた。
目を真っ赤にしながらじっくりと食べていた。
一生忘れられない思い出がまた一つできたと。
また翔太は夏休みに、アルバイトをして好きなスニーカーなど買っていた。
ほしいのに買ってとは言わなかったし、和男にとっては、頭が下がる思いだった。
けど、もちろんけんかもよくした。
担任の先生からは、「髪が長い」ってよく電話がかかってきたし。
けんかの原因は、今思うと何だったんだろう。
何度もお互い、大声張り上げて叫んでいた。
「何だ、その態度」
「うるせぇ~」
「何、うるせぇだと」
こんな感じで何度かやったものだ。
取っ組み合い寸前で、とことん叫び合っていた。もちろん止める人もいなかったしね。
いつも、心の中にあるモヤモヤを、翔太に向けて発散していただけなのかもしれない。
「何でわかんね、お父さん嫌いなわけでもねべ」って言ったのが、
今でもしっかり和男の心には焼きついていて、自分の弱さに気づかされたものであった。
そんな翔太を救ってくれたのは、やはり多くの友達である。
休みの前日の夜は、お互い泊まりに行ったり来たりで楽しんでいた。
和男としては、心配どころか、その方がいいとさえ思い、友達に感謝をしていた。
おかげで和男も、友達のお母さんたちと親しくなったし、
スーパーで会えば立ち話なんかもできたりした。
3年生になり、三社面談など学校へ行くことも多くなり、知らない息子を知ることもできたし、
思っていた以上に学校生活を楽しんでくれていてほっとしたと思ったものだった。
運転免許も取り、初めて運転する車に乗った時は、そりゃあ、さすがに怖かったけど。
就職か専門学校か、どうするか、自分で決めろということで、翔太は就職を選んだ。
試験も受かり、これであとは卒業だけかと思うと、本当にうれしいのか不安なのか。
けどそういう気持ちも、いつのまにか「ありがとう」いう気持ちに変わっていった。
卒業式の日、久しぶりに和男もネクタイを締めて行ったけど、ダメだったなぁ~。
小学校や中学校とちょっと違い、本当に涙もろくなっちゃって、こらえるのがやっと、
本当にやっとだったなぁ~。
卒業証書をもらう姿を見て、和男は、本当はぼろくそに泣きたかった。
特にグレもせず、育ってくれたと感謝しかなかった。
翔太たちの他に、何人か離婚組みの友達もいたけど、みんな最高の笑顔しとったなぁ~
退場の時、涙をこらえるかのように、唇をかみしめ天井を見つめ歩いてくる翔太を見つめ、
和男の心は、もう限界だった。目には涙が溢れ、よく見えなかったけど手が痛くなるほど力強く必死に拍手を送っていた。
3回目の卒業式、これですべて終わったのか。終わってしまえばこれまた寂しいものである。
小学校・中学校と同じように、ほとんど学校に来ることもなく、知らない先生も多い。
「翔太の父です」と言いながら、何度も何度もお辞儀をしたものである。
最高の卒業式も終り、和男はカッコつけて車から降り、タバコを吸いながら翔太たちを待っていた。
みんな、踊ってるかのように歩いてくる姿が笑えた。
「終わったな」と和男が言うと
「お!」と翔太は、右手を上げ笑っていた。
そして和男の車には、友達4人が乗ってきた。
先ほどまで泣きそうだったこの子たちも、車の中では明るく笑い声が絶えなかった。
もう少しで、みんな離れ離れになるのはわかっているが、それがより一層そうさせているのか。
はしゃいでいるのをルームミラーでチラチラ見ながら、和男は微笑ましいものを感じた。
友達それぞれを家まで送り、その後翔太がまたみんなを拾って送別会へと向かった。
就職も近づき、必要なものを揃えなくちゃということで、あれとこれとあれもかということで、
買い物にも出かけたけど、男親はやはり、気がつかない点がいっぱいあった。
せめて就職だけは普通以上に送り出してやらないと、という気持ちが、
逆に考えすぎてあまりにもいらないものまで揃えちゃうし、本当に必要な物は完全に忘れてるし、
頭の中はパニック状態だった。
翔太の方が常に冷静だった。
スーツを買いに行った時、改めて就職かと実感したものだ。
そして何とか準備し、ダンボールを集めてきて、あと自分でやっておけと、
和男は翔太に荷造りをさせた。
そしてある晩、翔太の大好きな回鍋肉を食べながら和男は、
「これでとりあえず自分の通帳を作って来い」って言って10万円渡し、
「行く時またやるから」と言うと、翔太は深々と頭を下げ、
「わかった」と言い、お金の入った封筒を両手で受け取った。
就職まで日が近づいてくるにつれ、胸はドキドキって破裂するぐらい嫌な日が続いた。
やはり心配で心配で仕方なかったんだろう。
近くで仕事があれば何よりなんだけど、田舎は尚更、仕事があるわけもなく、
田舎から出て行かなくちゃいけない。先のことを考えると、出てって、
もまれて強くなってくれるのが一番いいんだけど。
出てって帰ってきても、はたして仕事があるかどうか、
和男にとっては、それが痛いほどわかるのである。
でも今は、翔太の選んだ道をしっかり歩いてほしいと思うのである。
親の勝手ではあるが、離婚という境遇の中での子供たちは、いっぱいいる。
でもそれに甘えてダラダラしないでほしい。
だからこそ、自分で自分の人生を自分なりに切り開いていってほしい。
面と向かって言えないけど、これが、和男が翔太に対する一番言いたい気持ちなのかも。
勝手な言い分だとはわかっているが。とにかく幸せになってほしいと。
仕事もきちんとし、好きな人と出会い結婚し子供も生まれ、いつも笑顔でいる。
そんな人生を歩んで行ってくれればいい。平凡って何なのかよくわからないけど、
笑顔でいれる人生をずうっと歩んで行ってほしいと。
親が子を思う気持ちは、みな同じで自分のようには、なってほしくないのがほとんどではないだろうか。
就職に立つ前の夜
和男は久しぶりに寿司を買ってきて、「おぉ~乾杯だ」と言い、二人ビールで乾杯をした。
まだ未成年の翔太と乾杯する和男は、なぜか一人えらくテンションが高かった。
本当はさびしいものがあったんだろう。話す言葉もあっち行ったりこっち行ったりで、
ちんぷんかんぷんである。意味もなく一人喋って一人で笑っていた。
酒も普段飲まないくせにこの日はいやにペースも早く、顔はすでに赤くなり、
酔っぱらってしまっていた。
お互いビールを注ぎ合い、時々、間ができながらも、二人の間を時間が通り過ぎて行った。
そしてお金を15万円渡し、「これで給料日まで我慢せぇよ」と言うと、
また深々と頭を下げ「うん」と翔太は頷いた。
二人のこの場が、さらに暗くなっていくのを感じ
「まぁ飲めや」と和男は翔太のコップに何度もビールを注いでいた。
そして翔太もまた和男のコップにビールを注いでいた。
15万円がどうなのかよくわかっている。
給料がもらえるまで約2カ月、和男も正直お金もあるわけでなく、これが精一杯だったのだ。
その後まもなく、友達が翔太を迎えに来た。地元で過ごす最後の夜
「まぁ、楽しんでこいや」
「おぉ~」
顔を真っ赤にし、ほろ酔い気分で後片付けをしながら、和男は思った。
おまえと二人で暮らしたこの6年半、長いようであっという間だったこの6年半。
いろいろあったけど、お前がいてくれたおかげで俺は助かったよ。
「ありがとうな」と・・・
そして今、おまえは新たな人生に向かって発って行ったんだな。
列車に乗っていくあの後ろ姿、一生忘れられなくなってしまったよ。
和男は、赤々と燃える夕陽を見つめながら、そんな6年半前を思い出し、
何か夢中やったんだろうかと、タバコを取り出す。
風でなかなか火が点かず、手で風を防ぎ何回となく火を点けるがうまく点かず、
ようやくタバコの先が赤くなると深く吸い、砂浜に転がっている流木に座り、
ゆっくりと薄暗くなった赤い空に向かい煙を吐いた。
タバコの白い輪っかが一つ・二つ・三つ、赤い空にポッポッポッと浮かんでいき、そして消えて行く。夕陽も沈み、かもめだけが気持ちよさそうに頭の上でぐるぐる回っていた。
もうすぐ4月、春はもうそこまで来ている。
誰もが今年こそはと期待し、夢を膨らませ新たな気持ちで生きていこうと誓う。
和男も一緒だ。
冷たい風がさらに心も体も引き締めてくれて、よりそんな気持ちにさせてくれる。
先ほどまでの、沈んだ気持ちは一体何だったのだろう。
和男はゆっくり立ちあがり、大きく背伸びをした。
近くでは、親子であろうかと思われる母と高校生ぐらいの娘さんがキャーキャー笑いながら、
夕陽をバックにそれぞれ写真を撮っていた。
和男にとっては、何とも暖かい光景に見え、和男も微笑みを浮かべていた。
女の子っていいなぁと思っていると、その高校生ぐらいの娘さんが走ってきて
「すみません、あの~写真お願いできますか?」
「あぁ~いいよ」と言い二人のそばに行った。
「じゃ、いくよ。はいチーズ」昭和だなと思いながらもカシャッとシャッターを押した。
「じゃ、もう一枚ね。今度は、1たす1は?」
親子の二人は、顔を見合わせ「ん?」って顔をしていたけど、
「2」って最高の笑顔で答えてくれた。
「ありがとうごうざいます」二人は丁寧にお辞儀をし、二人の写ったデジカメの画像を見て、
またお辞儀をし笑いながら帰って行った。
その時、携帯がメールを受信した。
もしかして翔太かなと思いながら携帯を開いた。
「今、着いた」
「そうか、着いたか、がんばれよ」
「お!」
どうやら翔太は、無事就職先に着いたらしい。これでとりあえずは一安心。
さて、今日から一人だけど翔太に負けないようがんばらなきゃと、和男は携帯を閉じた。
これからどんなことが待っているんだろうか。俺にも、翔太にも。
きっと素晴らしいことが待っているに違いない。そう確信するかのように
「よし、帰るか」と一人言い、まだ真っ赤に燃えている空を後に帰って行った。
家に着き、まずは翔太の部屋を掃除しないといけないなぁと部屋に入る。
部屋の中は、さすがに散らかり放題である。
片付けていると高校の卒業アルバムを発見。
「見せろ」って言っても、見せてくれなかったアルバム。見たって罪には当たらないだろう。
ベッドの上に座り、ゆっくりとアルバムを開いていった。
そこにまた、親が知らない息子の姿がある。
友達もみんな、ホントえぇ顔をしている。
学校のDVDも見つけ、悪いけどとは思いながらも見ていると、
また涙もろくなってる父の姿がそこにあった。こんなに明るかったんだろうかって。
友達と一緒にバカな顔して笑っているのを見ると、親としても最高にうれしくて、
せめてもっと何かしてやればよかった。何もできなかったことがとても情けなくて仕方なかった。
お盆に帰って来るまで、この部屋は使うことないけど、
たまには掃除機だけはかけてやらないとなと思い、和男は掃除機のスイッチを入れた。
今までにないほど丁寧に掃除機をかけ、きちんと整理整頓も終わり、回りをゆっくりと見回し「よし」と静かに息子翔太の部屋のドアを閉めた。
食欲もないけど、何か食わないとなぁと、
冷蔵庫を開けてみるが、何もない。どうしようかな。
和男は、大儀だけど仕方ないなぁと、いつものスーパーへと出かけた。
「和男さん、翔太君行った?」
「ん、今日行った」
「じゃ、今日から一人だね、寂しいねぇ~」
「そうやなぁ~これから恋でもすっかな」
「だから、私と一緒になればよかったのに」
「ハハハハ、今からじゃ遅いしなぁ~」
「今からでも遅くないかもよ」フフフフ
「旦那いる人は、遠慮しとくわ」
「あら、意外と度胸ないのね」
「当たり前や」
ここのスーパーの店員、由香と和男は、若い頃付き合っていたこともある元恋人だった。
気さくでとてもいい人なんだけど、なぜか別れてしまったわけで、
でも今もこうして話をできるのが妙にうれしいと和男は思っていた。
「ねぇ、ねぇ料理の腕上がった」
「ぜ~ん、ぜ~ん」
「だめねぇ~今日何食べるの」
「何にすっかな」
「男ってこれだからな、ラーメンでいいっしょ、どうせ一人だし」
「え、ラーメン?じゃ、そうすっかな」
「ちゃんと野菜も入れるんだよ」
「面倒くせぇな、はい、はい」
「じゃないと、早く死ぬよ」
いつもこんな調子で、妻としては申し分ない性格やし、なぜ由香と別れたんだろうと思うこともある。縁がなかったんだろうな。
「じゃ、またね」
「おぉ、由香もがんばって」
由香は、仕事柄かもしれないが、いつも笑顔で答えてくれて、ハキハキしている。
由香は、いつものように周りの目も気にせず手を振って仕事に戻っていった。
由香の言うとおり、ラーメンとキャベツ半分とメンマとチャーシュー・もやしなど買い、
レジに向かった。
和男は、離婚当時、スーパーに行くのが恥ずかしくて、みんなに見られているような気がして、
何となく惨めで、閉店ギリギリに行ったものだった。
けど、閉店ギリギリだと売り切れでねぇ~。売れ残りは安く買えるんだけど、ほしいもんが買えなくて、時間帯を徐々に、早めていった。
スーパーにも段々慣れてくると、どこに何があるか、消費期限はどうか、いつ何が安いか。
ポイントカードはどうなのかとか、いろいろ気にするようになった。
あっちのスーパーにあって、こっちのスーパーにないものとか、自然とわかってくるんだけど、毎日の悩みの種、それは、今日の晩飯何にしようかな?だった。
主婦の気持ちがよ~くわかった6年半だった。
また、女の人がスーパーで立ち話をする気持ちもよ~くわかり、
翔太の友達のお母さんとよく立ち話をしていたものでした。
学校があ~だのこ~だのとか、うちのはあ~だのこ~だのとか、
それはそれでとても楽しいとさえ思うようになり、今日は誰かと会えるかなと思いながらスーパーへ出かけるようになった。でも、そんな時はいつもよりいらないものを買ってしまった。
男の見栄ってやつで、買い物カゴを見られてるような変な気がして、いらないものを何度となく買ってしまっていた。
冷蔵庫を開けると同じものが入っていることが何度もあった。
レジに並ぶと、新入りかな?
始めてみる女の人がレジの中にいた。年の頃は、そうだな5つぐらい下だろうか。
綺麗な顔立ちなんだけど、ちょっと疲れているようにも見えた。
一生懸命笑顔で答えているんだけど、心の中からでない笑顔、顔の青白さがそう感じさせたのか、
疲れている笑顔って言ったほうがいいのだろうか。
まだ慣れぬ手つきでレジを打ち、汗が少し出ているのか、時々額に手をやり、両手をかさね合わせお客さんに深々とお辞儀をする。そんな姿が、逆に一生懸命さを感じさせる。
けど、どことなく寂しげな笑顔が、なぜか和男の心に残り、気になった。
和男は、そのレジに入って行った。
「あ?」
「ん・・・?」
「先程はありがとうございました」
「ん?・・・」
「写真撮っていただいて」
「あ・・・あぁ~」
言われて始めて和男は気づいたのである。さっきのあの夕陽の親子だと。
けど、あの時の彼女と今の彼女、何か違う人に見えたのである。
和男は聞こえるか聞こえないかぐらいに「どうも」と言いおつりをもらい、レジを出た。
名札には、大沢と書かれていた。