始まりが割れる音がした-3
網膜を強い光が焼いてくる。
目蓋の裏まで届く鮮烈な光は直視するのに向かない。
そこでふと違和感に気付く。そうだ。目は開いているんじゃない。閉じているんだ。
何故自分は目を閉じている。一体、何時目蓋は下ろされたんだろう。
「ベル君ベル君。起きられるかしら、ロべルト君?」
「うわはい! 寝てません起きてます! すいません!」
館長室に備え付けられたソファの上。ロベルトはそこで目覚めた。声を掛けられ飛び起きる。側には品の良い老婦人がおり、ロベルトが目覚めたことにほっと安堵の溜め息をついていた。
呼びかけていたその老婦人は副館長のジャクリーンだ。うつ伏せの体勢から腕立て伏せの要領で、素早く上体を起こすとソファの隣から鈍い落下音がした。覗いてみると氷嚢が床に転がっている。
迅速な行動ではあるけれど、その行動こそがこれまで意識がなかったという確たる証拠でもある。
はたと気付いてみるみる青褪めた。時刻はまだ日の高い頃で、仕事中なのは間違いない。
後頭部もジワジワと痛み出す。業務の間に寝ていたのか、なんて叱責が重なると思うと気が重くなってきた。
しかしその心配も次のジャクリーンからの言葉で杞憂に終わる。
「起きれるのならいいの。頭、ちゃんと冷やしておきなさいね」
「頭……?」
「思いっきり床に打ちつけちゃったみたいから、たんこぶ出来てるのよ。血が出なくて良かったけど、場所が場所だから安静にね」
床に落ちた氷嚢を渡される。そういえば後頭部が冷たさと鈍い痛みでジクジクしてきた。
「大した怪我が無くて安心しました」
ジャクリーンの言葉に賛同するように、奥のデスクから声を掛けられる。頭をデスク側にしてソファに横たわっていたのだから、相手をすぐ見つけることが出来た。
モノクルを掛けた白髪の男性。ロベルトの様なベストではなくきちんとした上着を着ており、リボンタイではなくネクタイを締めている。上着のボタン穴には館長であることを示すバッチが付けられている。彼がスタンガルフ都市博物館の長、スチュアート・ブラウニングだった。
はて、一体いつ頭を打つようなことをしたのだろう。今日は、というか今月もいつも通り、博物館を荒らしまわる腕白坊主の相手をしていたはずなのに。
「……そうだった」
「思い出した?」
時間が経つにつれ、ぼんやりしていた意識が鮮明となる。記憶が次々と反芻されていく。
(――ああ、そうだった)
気を失った原因を思い出した。あれからどれだけ失神していたのか。壁に掛けられた鳩時計を仰ぎ見てみれば、意識を失う前より三十分ほど針を進めていた。
まだ僅かに痛む頭を押さえつつ、首を左右に動かしてみる。なんとか大丈夫そうだ。
室内に確認出来た人物はロベルトを除くと、館長と副館長の二人。その二人が深刻そうな顔つきでロベルトの向かい側のソファを見ている。
そこでロベルトと同じように横たわっていたのは、先程まで展示物だったものだ。
<剣を抱く女>
初代都市長の遺産のうち、最も謎の多い代物。
防腐処理もされていない身体が何故腐らないのか。抱えている剣は誰の物か。初代都市長は何故このような死体を遺産として残したのか。そもそも、彼女は何者なのか。
彼女について詳細な情報は伝えられていない。はっきりしていることは初代都市長が博物館へ<剣を抱く女>を寄贈し、管理していく事を命じていることだけである。
「じゃあベル君も目を覚ましたことだし、館長」
「そうですね。ロベルト、少しの間彼女を見ていてもらえませんか。私たちは少し席を開けるので」
「あ、はい。……やっぱ、騒ぎになってます?」
「ええ勿論ですよ。ティート君の所為にする気はないですが、結果的に多くの人たちの目の前で起きてしまったので、仕方ないですけれどね。今日は臨時休業にして、クラブの子ども達も帰らせました」
「もしかしたら博物館の方も当分、お休みになっちゃうかもしれないわねぇ」
「すいません……。俺の所為で」
殊勝に頭を下げる。だがスチュアートは気にするなと言わんばかりにロベルトの肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ、ロベルト。君が気に病む必要はない。むしろ職員である君がその場に居合わせたのだから、幸運と思わなくては。お客を引き留めて事態の経緯をしつこく問い詰める訳にはいきません」
「はい……。あの、ありがとうございます」
ロベルトの納得した様子を見て、スチュアートとジャクリーンが連れ立って出て行った。
一人残され、対面側で横たわっている存在に意識を向ける。
オレンジ色のブランケットが掛けられていた。恐らくジャクリーンが配慮したのだろう。
近くに寄ってみると、かすかに上下する胸の動きで、彼女が呼吸をしているのが分かる。
動き出す前とは雲泥の差だ。蝋人形の様だった皮膚は仄かに血色が良くなっている。とても先刻まで死体として展示されていたとは、自分の目で見たロベルトでも信じられないくらいだ。
何度も見てきた展示品ではあるが、これほど近くで見たのは初めてだった。
癖のないまっすぐな長い黒髪。少しだけ日焼けした、血色の好い肌。目鼻立ちのすっきりとした容貌。十分に美少女と呼んでも異論はないだろう。
色褪せたローブだけが長い年月を感じさせる。装飾品が一つぐらい在っても良さそうな年齢にみえる。だが剣を抱えていた彼女に、飾りなど要らなかったのかもしれない。
見ていてくれと頼まれたが、本当に寝顔を見るだけしかする事が無い。どうしようかと頭を抱えたその時、目蓋が震えたのが見えた。
「あ」
「……。……」
青藍色の双眸がロベルトを見据える。先程見た色と同じだ。やはり夢ではなかったと、ようやく実感できた。