裏切りと愛情
どうしてあの矢は飛んできたのだろう。
ルウが先ほどから考えているのはただ1つ、そのことだった。
ここは茨の城。
連れてこられたときのことを思い出してみても、この城の内部に近付くのは容易ではないと思う。
だからこそサラやその仲間たちはここを選んでいるのだし。
それが、あのとき。
ルウは確かに廊下の窓に人影を見た。
角度や距離を考えても、あの人影がルウ、いやサラに矢を放ったことは間違いないだろう。
あんなに近く。
もしかしてこの城は包囲されている……?
いや、それなら気配くらいするはずだ。
しかし実際はどうだろう。
ルウは周りを見渡した。
……気配など、ない。
穏やかで、静かな夜。
あの日もそうだった。
ともすれば世界はここだけで、王軍と戦っているなんてこともおよそ思いつかないような、そんな。
そ れ な ら ば ナ ゼ ?
なぜ、あの矢はあれほどの至近距離から放たれたのか。
ふとある考えに思い至る。
けれどそれはどう考えても想像することが出来ない。
ルウは頭を振りながら、静かに息を吐いた。
そうしなければまだ、背中が痛い。
そんなことを考えながらぼうっとしていたら、サラが遠慮もせずに部屋の中に入ってくる。
いつもどおりのその姿に、ルウは苦笑した。
いや、安心した。
昨日の、あの涙や……匂い立つような白さは幻だったのだと思えるから。
これですべてがいつもどおりなのだと。
「具合はどう?」
「大分いい」
「……そ。良かったわ」
「お前ももう泣いてないな」
「う、うるさいわね……いつまでも泣いてるわけないじゃないの、バカ。それより、ねぇ、ちょっと相談があるんだけど」
サラの顔がかぁっと赤くなる。
ルウにはそれが可笑しかった。
まるで普通の娘みたいだ。
サラが昨日と同じ場所に腰掛けるのを見て、ルウは重い体をゆっくりと起こした。
そのときだった。
その部屋の中にどやどやと武装した兵士が入ってきたのだ。
そして扉の向こうに立っていたのは、他ならぬグレイだった。
*
「何?どうしたの?グレイ……っ?」
そういうことか、とルウは思った。
しかし驚きはさほどない。
それよりも、こう、すっきりしたような気分がした。
全てのピースが当てはまるような、そんな。
想像したくなかった現実。
けれど、これで全てのつじつまが合う。
「サラ様……やはりここにいらっしゃったのですね」
「グレイ……?何、どうしてこんな……嘘?!」
「嘘ではありませんよ。これが現実です」
「あれは、グレイ、だったの……?」
サラの瞳に写る、絶望と怯え。
それを見透かすかのように彼は唇の端をかすかに上げて微笑んだ。
「サラ様」
「どうして……?どうしてこんなこと……」
「どうして?またそんなことをおっしゃる。……やはりお気づきにもなられないのですね、あなたは」
「何、に……?」
穏やかに立ち尽くすその姿はいつもとまるで変わらない。
誰の目から見ても美しく、その闘う姿は優雅なこと極まりない。
それがグレイなのだ。
……なのに、なぜそんな風に微笑うのだろう。
グレイはその微笑をふ、と崩して目を閉じた。
そして再びその瞳にサラを映すと、思いもよらない速さでサラに詰め寄った。
ルウは動かなかった。
いや、正確に言えば動けなかった。
体はまだ、自由が利かない。
それに気付かぬ間にルウは寝台をグレイの兵に囲まれていた。
動けば命はないだろう。
サラに詰め寄りながらも振り向いた彼の瞳がそう語っていた。
一方サラは。
立ち上がったが最後、部屋の中心にどんと構える柱に背中を押し付けられ、顔の両脇にはグレイの腕。
閉じ込められながらもがこうとするも、彼女の衣装の裾がグレイの黒い靴に踏まれて動けない。
彼女の趣味で裾がとても長い衣装。
こんな形で災いするなんて、思ってもみなかった。
あの日のルウの言葉を素直に受け入れていれば、と一瞬脳裏を掠めるがそんなことを考えている余裕もない。
グレイは腰をかがめてサラの顔を至近距離で覗き込む。
サラは思わず顔を背けた。
だが、それすらも敵わず唇を塞がれた。
それと同時にわずかな痛みを感じた。
「……っ」
あまりにも気が動転していた。
つぅ、と口の端を赤いものが流れ落ちる。
それを確認してグレイは満足そうに目を細めた。
「あなたの近くにいていいのは私だけです。あなたを傷つけていいのは私だけなのです……!」
生暖かい指先が、血が流れたその道筋をやんわりと辿る。
思わずサラは震えた。
……こんなのグレイじゃない。
何度も瞬きをする。
けれどそれでも、悪夢のようなその微笑みは消えてはくれなかった。
「お可哀想に、唇が切れてしまってますよ……?」
「や……」
「こんなに震えてしまって……可愛いですね、サラ様。ご心配めさるな、私はグレイですよ」
グレイが突いていた手を離した。
けれどもサラは動けない。
太腿の辺りの布をぎゅっと握り締めた。
「……そう。私はいつだって私のまま。いつもいつでもあなたのためだけに生きてきました。……あなたが好きだから」
射るような視線で見つめられて、サラはますますその手できつく布を握り締めた。
目が逸らせない。
「それなのに、あなたはルウを隊長にした。私のほうがずっと長くあなたを見つめていたのに」
「……それ、は、」
「あなたはいつだって無邪気な顔して残酷なことをなさる。気付いていなかったのでしょう?私の想いに」
「……」
「こんなに愛してるのに……どうしてあなたは気付かない」
「グレイ……」
「何か間違えていますか?私ではいけませんか?」
再び詰め寄られる。
怖い……!
サラはぎゅっと目を閉じた。
「間違ってる」
それはルウの声だった。
*
「間違ってるよ、あんた」
そこにいた全ての目が彼を見た。
ルウはサラを見た。
その後、布団に起き上がったままゆっくりとグレイに対峙した。
「何をどう間違ってるっていうんだ」
グレイはルウを睨んだ。
ルウはそれを淡々と受け止めている。
「愛情の形だよ。サラを好きなら、どうして命を狙う。好かれたいなら振り向かせろよ」
「お前に何が分かるっ」
「分からないな。でも、実際あんたの気持ちにサラは気付いてないんだから、そんな風に気付かされたって戸惑うだけだろ」
「うるさいっ」
「認めたくないだけなんだ、自分の思い通りにならない現実に」
「黙れっ」
あんたも俺も大概バカだよな、とルウの唇が動いた。
その顔は苦痛に満ちていて、まるで自分がグレイであるような表情をしている。
サラはルウを見つめていた。
ああそうか。サラは分かってしまった。
ルウは自分を責めているんだ。
一度だけ話の中に出てきたナディ国のお姫さま。
亡くなったって言ってた。
ルウは彼女を守りたかったんだ。
ルウは彼女が好きだったんだ。
べスを語ったときのルウの哀しそうな、そして愛しそうな瞳。
伝えられなかったその、行き場のない想い。
だからグレイの気持ちが分かるんだ。
でもどうしてだろう。
ルウがそうやって心を痛めつづけているのを見るのが嫌だと思う。
グレイの兵が、起き上がれないルウの喉元に剣を突き付ける。
「ルウ……っ!」
「大丈夫だ……大丈夫」
ああ、どうしてそんなことが言えるのだろう。
どうしてそんな風に笑うことができるのだろう。
初めて逢ったときから感じていた。
あの瞳。淋しそうなのに、真っ直ぐな瞳。
その瞳に見つめられると、自分は1人じゃないと思えた。
自分たちが勝てると思えた。
いつの間にか、ルウは自分の同志だと思い始めていた。
怖かった。
虚勢を張っていないと、この戦いにあっけなく負けてしまいそうな気がした。
だから素直になれなくて、いつもいつも、減らず口を叩くことしか出来なかった。
そんな自分をルウはきっと、手に負えない厄介な子供だと思っていたに違いない。
ごめんね。
ごめんね、ルウ。
サラは心の中で謝った。
ルウにはこの戦いは関係なかったのに、自分の勝手な都合で彼を巻き込んだ。
サラの目から、ほろりと涙が零れる。
グレイはそれを見るなり苦笑した。
「ほう……そうですか。サラ様……あなたはあの男のためになら泣けるというのですね……」
「グレイ……止めて……」
「所詮はただの娘、というわけですか」
グレイはサラの顔の真横にある柱の側面を拳で思いっきり殴った。
サラは動けない。
怖くて、震えが止まらない。
そしてグレイはその顔をルウへと向けた。
「知っているか、ルウ。このお姫様は本物じゃない」
「え……?」
「サラ様は選ばれし姫君なのだ。だから今ここでこの方を手にかけ、永遠に私のものにしてしまってもアクヴァールが絶えることはない」
「何を、言ってる……」
グレイはふふふ、と面白そうに笑った。
「サラ・メリル・ド・アクヴァーレス・アクヴァは水の華女だから、この国の王女に選ばれたのだ」