亡国
夕暮れのアクヴァール。
紅い夕陽に照らされて、きらきらと輝く水面。
多少少なくなったものの、サラがアクア・ストーンから作り出しているおかげでまだこの国には湖があった。
けれど一見穏やかそうに見えるこの国でも、今もどこかで戦いが続き、傷つく者たちがいる。
自分は何のためにこうして生き永らえているのだっけ。
ふとそんなことを思って感傷にふけってしまうのは、この美しすぎて逆に淋しい景色のせいだろうか。
それとも、どこか祖国に似ていると思うからだろうか。
どんなに目を凝らしても、その視線の先にはあの人はもういない。
ルウは目をぎゅっとつぶった。
窓辺に座って立てた膝に顎をついてぼんやりとしながら、こうしているのが夢か幻だったらいいのに、と思った。
明日目覚めたら、まだ自分はナディにいて、王様のよく分からない洒落を聞かされることに少々うんざりする、そんな夕暮れであったなら。
それでも現実はそうはいかない。
リコが陥落し、カイラスまで敵に回った。
ナディがシモンにやられたときより性質が悪いと思うのは当然だろう。
ここにいたところでナディを取り戻せるとは思えない。
それなら何のために自分はここにいるのだろう。
思わずため息をついた。
「どうした?」
振りむくと、そこにいたのはグレイだった。
その顔はいつもどおりわずかに微笑んでいた。
ルウがさんに掛けている足元から城内に風が吹き込む。
グレイのその綺麗な金色の髪がされるがままにそれに揺られた。
彼は本当に尊敬に値する人間だ、といつも思う。
今までにグレイほど剣にも弓にも優れている騎士に会ったことがない。
けれどそれでも驕ることなく、いつも悠々としていて。
サラのわがままにも笑顔で返すような、そんな人間の器の大きさに、正直感動する。
自分はそうはなれないだろうと思う。
なりたいと思うこともないだろうが。
「いや……何となくぼうっとしていただけだ」
「そうか」
グレイがルウのそばに寄る。
ルウは足を下ろしてグレイの方に向いた。
グレイの視線は、いつもと同じで真っ直ぐにルウを射抜く。
「……帰りたいか?祖国へ」
直球の質問が投げかけられて、いささか面食らった。
しかしグレイの訊き方はルウを責めたりからかう様子は微塵もなかったので、ルウはそれに答えた。
「帰りたい。と言うか、」
……取り戻したい。
そう口にすることは出来なかった。
でも本当は。
あの頃の生活を。祖国を。
……そして、あの人を、取り戻したいと今でも願い続けている。
「……そうか」
グレイは軽く頷いた。
ルウの気持ちをよく分かっている、といった風に。
……流れる空気が、とても穏やかだ。
ルウは居心地の良さを感じていた。
だからかもしれない。
グレイが訊いてくる昔話を、躊躇いもなく話していた。
グレイは終始無言で、ルウの目線の先にある風景を見ていた。
緑豊かだったこと。
水も豊富だったこと。
王や王妃や、王女のこと。
「ルウは幸せだったんだな……」
ルウは苦笑いをした。
「そうかもしれない」
……そうかもしれない。
もう、守ることすら出来ないけれど。
*
バン!とけたたましい音を立てて、サラとシュミルが入ってきた。
ルウとグレイは話を止めてそちらを向いた。
シュミルが真っ青になって叫んだ。
「ルウ!ナディが、カイラスとシモンに乗っ取られた……!」
……!!!
世界が止まるというのはこういうことを言う。
乗っ取られたということは、ナディが事実上もう存在しないということ。
ナディの民はもうすでに絶えているし、ナディだった土地はたった今、別の国の所有地となった。
ナディが終焉を迎えた。
最悪の事態。
「ナディ、が……」
「ルウ……!」
頭の中が真っ白になる。
足先からすうっと血が引いてゆくような感覚。
どうやって立っていればいいのか、どうやって呼吸をすればいいのか分からない。
サラがそんなルウの目の前に近づいてくる。
目の前にいるのに彼女の顔さえはっきりと分からない。
あ……と彼女の顔に手を伸ばそうとして、そのまま膝から崩れそうになる。
「しっかりしろ、ルウ!」
シュミルのその声は、全く耳に入らなかった。
ナディが消えた。
文字通り、亡国。
そしてルウは知る。
彼の夢は再び潰えたのだと。
いくら取り戻したくとも、もうその国すらない。
かろうじて口元を押さえた両の手が、震えていた。
「しっかりしなさい!」
そのときだった。
バシン、と頬を思いっきり叩かれる。
ルウは目を見開いたまま、返事も出来ない。
その場にいた誰もが息を呑んだ。
それでもルウには確かに、目の前でサラが片手を上げているのが見えていた。
「サラ様……!」
固まっていたシュミルが、慌ててサラに近寄る。
彼女はそんな彼にはお構いなしにルウに詰め寄った。
「しっかりしなさい、ルウ!」
また、言われた。
ルウはその言葉の意味を、働かない頭で反芻する。
「ちょっと聞いてるの?」
「……」
「ルウ?ルウってば……っ」
「お止めください姫様っ」
さらにルウを怒鳴りつけようとするサラを、シュミルが必死になって止めようとした。
だんだんとはっきりしてくる頭。
サラに言われた言葉。
ルウはその瞳に、たった今彼を怒鳴りつけた彼女をしっかりと見据えた。
「しっかりしろ、だと……?」
呟くように、でもしっかりと吐き出されたその言葉に、サラは驚いたような顔をした。
しかし一瞬の後、再び先ほどまでの顔に戻ってサラは言う。
「そうよ。しっかりしなさいよ」
「お前なんかに言われたくない!」
「あんた何様のつもり?ナディで騎士一等をやってたか知らないけど、ルウがここで嘆き悲しんだところでナディは戻ってきたりしないわ。なんにもなりゃしないのよっ」
引いた血が、かぁっと頭に上っていった。
その声がいくら可愛かろうが、二度と聞きたくない。
顔も二度と見たくない。
姫様だろうが何だろうが関係ない。
ルウは怒りに任せてサラの肩をぐいっと掴んだ。
「い……っ」
「これ以上言ってみろ、その減らず口を二度と利けなくさせてやるからな」
ぎりぎりという肩。
指がどんどん食い込んでゆく。
それでも痛みに歪んだ顔をしながら、サラはルウを見据えた。
「何度だって言ってやるわよ。あんたの涙なんて誰も必要としてないわ」
「……っ」
畜生。
何でこんな小娘にこんなことを言われなければならない。
お前に俺の今までの何が分かると言うのだ。
ルウは片手を腰の剣にかけようとした。
しかしそれに気付いたグレイがルウを押さえ込んだ。
「止めろっ!」
「ルウっ!正気に戻れっ」
「俺はいつだって正気だっ!!」
グレイとシュミルの2人に押さえられて、床に座らされたルウは足をじたばたするしかなかった。
そんなルウにサラは再び近づいた。
ルウは咄嗟に顔を背ける。
「ルウ」
「……」
「あなた、何のためにこうして生き残ってきたの?ナディを再興するためなんじゃないの?」
その声色が先ほどまでと違いすぎる。
信じられないくらいに優しかった。
そして思わずその顔を見た。
サラは真っ直ぐに彼を見ていた。
「だったら生きなさい。そして戦うの」
「……でもナディはもうない」
「あるじゃない」
「どこに……どこにあるっていうんだよ!お前たちだろ?さっきナディが消滅したって言ったじゃないか」
「消滅だなんて言ってないわよ」
「消滅したも同じだ……!」
「違うわ……だってまだルウはここにいるじゃない」
その言葉に、ルウはまじまじとサラの顔を見つめた。
何……?
「ルウが生きてるじゃない。あなたナディ人でしょう?しっかりしなさい。ルウが生きていれば、必ずナディは再興出来るわ」
呆然としているルウの頬を、サラはその白くて細い指で辿った。
ルウはされるがまま、サラを見つめていた。
その指が唇に触れた。
サラは目をつぶる。
「アクヴァールの水の神の御加護のあらんことを」
それは水を作るときに湖に捧げる祝詞だった。
「お、前……」
ぱちくりと目を見開くルウ。
サラはすっと目を開けた。
励ましてくれたというのか、あのわがまま姫が。
しかし、今初めてこの少女をこの大国の姫と思えた。
目が合う。
至近距離に息を呑んだ。
「ル、ルウを励ましたわけじゃないからねっ……ナディの再興のためよっ……あくまで……ナディの民のためなんだから……!」
目の前の姫君もその距離に気づいたのか途端に顔を赤くした。
ばっと振り向いてすたすたとルウから離れていく。
「サラ、」
「だからっ、あんたを励ましたわけじゃないってばっ!!」
思わず呼び止めてしまった。
囁きほどの小さい声だったにも関わらず、彼女には届いていたらしい。
耳を真っ赤にして乱暴に言い返すと、本当に部屋から去って行った。
しかし本当にそうだ。
自分はナディの民。
たとえ今ナディを失ったとしても、自分が生きていればいつか再興出来る。
素直にそう思えた。
そして、ルウは笑みを零した。