真昼の月
アクヴァールは傾いている。
水の都と讃えられた日々が懐かしい。
*
「これがあのシムル……?」
シムルというのは乱花の中でも特に強力と言われる黄色の花。
近付く者を己の養分にするために呑み込んでしまうと言われている花。
けれど、あの切り株がそのシムルだというのか……?
ルウは呆然とした。
「だがシムルは伝説上の植物じゃ……」
「あんた、アクヴァール人じゃないわね?」
怪訝な瞳。
ルウは返事に詰まった。
「そうなのね?だってアクヴァール人ならシムルの木のことは誰でも知ってるもの」
頷くしかなかった。
少女の周りにいた騎馬隊が、剣に手をかける。
ナディ人はある特定の人々を除いて、生まれてから死ぬまでその生涯で他国に渡ることはない。
それはアクヴァール人とて同じこと。
生まれ落ちたその場所で、一生を過ごすのだ。
他国に足を踏み入れることは、それすなわち侵入とみなされる。
だからルウが今こうしてアクヴァールにいるということは、アクヴァール襲撃の敵国人と思われて当然のことだ。
ルウは気を張った。
死ぬ覚悟が出来ていないわけじゃない。
ただ、……ただ、誤解されたまま他国で死ぬのはナディの未来を考えても良くないと思った。
もしここでルウの出身国がナディだと知れたら、それこそナディはもう二度と再興出来ないだろうから。
けれどこんな風に包囲されて、どうすれば良いというのだ。
「あんた、名前は」
「訊ねる前にまず自らが名乗るべきだろう」
ルウは言い切った。
空気が張り詰める。
さっきから見ているとやはりこの少女がこの隊の手綱を握っているようだから、口ごたえしたら手討ちに遭うかもしれない。
それでも言い切った。
自分はこの国の人間ではない。
命を懸けて守るべき国も失った。
だから今の自分にはこれ以上失うものは何もない。
彼女がどんな立場であれ、それに従う必要などないのだ。
「……そうね。私はサラよ。サラ・メリル・ド・アクヴァーレス・アクヴァ」
……いくら何でも立場が違いすぎる。
サラ・メリル・ド・アクヴァーレス・アクヴァ。
アクヴァール国第一王女。
本当にこれは最悪の事態なのかもしれない。
「で、あんたは?」
「……ルウ。本名は……忘れた」
「ふぅん。女みたいな名前ね」
女みたいな名前。
それは侮辱か。
この名前の何が悪い。
ルウは頭に血が上った。
『綺麗な名前。あなたにとても良く似合っている』
遠い昔、亡国の姫にそう言われたことをふいに思い出したからだった。
それを罵ったこの少女。
サラはルウを頭のてっぺんからつま先まで見定めると、何を思ったかこの姫君は周りにいた騎馬隊たちにこう宣言したのだ。
「この男……ルウは今日から私の騎馬隊隊長よ!」
……は?
それからルウは引きずられるようにして大きな城に拉致された。
茨でぐるりとその周囲を囲まれたその城。
サラはここが自分の城だと言った。
そして、しばらくとてつもなく大きな部屋に閉じ込められた。
……おかしい。
昔ナディにいたときに学んだアクヴァールの城は、こんなに古びたものではなかったはず。
それに、自分の地理感覚を信じればここはアクヴァールの北だ。
アクヴァールの首都アクヴァスは南の、ナディから見て最も近くに位置していたはずではなかったか。
あの娘、大国の王女の名を語る偽者か?
いや、でもあれだけの騎馬隊を率いることが出来るのは並々ならぬ立場の者だけ。
一体彼女は何者で、ここはどこなんだ。
ルウの頭の中はもはやパンク寸前だった。
自分はなぜあんな娘のところにいることになったんだ。
ルウは頭を抱えた。
*
見かけ倒しもいいところだ、あのわがまま姫。
連れて行かれたのは大広間。
また同じように押し込められたとき、なぜか違和感があった。
そして気付いた。
彼女以外の広間にいる誰もが武装していたから、この部屋にそぐわなかったのだと。
サラがルウに近づいて、その他の者たちに告げた。
「この男はルウ。今日、ついさっきから騎馬隊の隊長よ」
場内がざわめいた。
「おいっ、ちょっと待てっ。俺は承諾なんてしてない」
「うるさい。あんたは私の言うとおりにしてればいいの」
「何だと!」
「ルウ、貴様姫様に向かって何と無礼な口の利きよう!」
「爺は黙ってなさい!」
「は、はい、申し訳ありません……」
「いいわね、もう決めたの。あんたには拒否権なんてないのよ。分かった?」
ルウはサラを睨んだ。
サラも負けてはいなかった。
「絶対に嫌だ。けれどその前にこの状況を説明しろ。アクヴァールの民が何で武装なんかしてこんな辺鄙なとこにいる」
「あんた、本当に何も知らないのね」
アクヴァールは水の楽園と讃えられるに相応しい水の豊かな国だった。
周辺諸国と比べても水が多い大国。
王も王妃もその家臣も、もっと言えばアクヴァール国民全体が平和に暮らしていた。
戦ももう長いことしておらず、それが当然になった穏やかな世。
だが、それが裏目に出た。
サラの父母、つまり王と王妃はそのやや平和ボケした国民の筆頭であった。
花を愛でたりして暮らす毎日。
幼きサラはそれが父母のなのだと認識していたくらいだ。
けれどサラ―――アクヴァール王女として生まれた彼女は少々変わり者であった。
平和な世の中にあって兵法を熱心に学んだ。
アクヴァール第一兵学校の首席であったグレイ・シュバリエをも凌ぐ才能を開花させてしまったのである。
そして今。
彼女は王と戦っている。
「バカかお前は。なぜ王と戦っている?……大体無謀過ぎる。それに王は……父親だろ?」
「バカバカ言わないでよバカっ。ホント失礼なやつなんだから、あんたって」
父親、という言葉にさすがにサラの瞳が翳る。
ルウも踏み込んではいけないことだと分かっていた。
それでも言わずにはいられなかったのだ。
「……戦うしかないのよ」
「勝つために、勝つためだったら自分の親でも斬れるのか?」
「斬れるわ……それは私にしか出来ないもの。それがアクヴァール王女の運命ってやつだから」
サラは俯いていた顔を上げてルウを見る。
そして1つ息をついて、今度はしっかりとルウを見据えた。
その瞳に、ルウは強い意志を見た。
天空に、真昼の月が青白く浮かんでいた。