Heavenly Blue
3年の時が過ぎた。
もうこの世界の誰もが、憶えていないだろう。
ナディという国があったこと。
そこにはエリザベスという美しい姫がいたこと。
そう。
生きているものには時間が流れる。
その中に埋没してゆく失われしものたち。
苦しんでも、生きているからこそ輝くものたち。
*
アクヴァールは王を失った。病死であった。
あっけないほど静かに、まるで戦などなかったかのように穏やかな顔。
そしてアクヴァール軍は、主君を失った。
正気に戻ってみれば、自分たちは何をしていたのだろう。
ただ主君の一時の気の迷いに振り回されていただけなのでは?
そう感じ始めていた。
グレイが跡を継ごうとその力を奮ったが、上手くはいかなかった。
サラを自分の后にと考えたようだが、シュミルにそれを阻まれた。
その攻防によってシュミルも命を落とすことになるのだが、グレイの追っ手からかろうじて逃れたサラは結局彼の妻になることはなかった。
グレイはそれでも前進しようと試みた。
けれど今度は民がそれを許さなかった。
民がサラを守ったのだ。
そして、アクヴァールは民のものなりと高らかに宣言したのである。
これが後世に名高いアクヴァール憲法の淵源となる。
その後アクヴァールはあの茨の城のあるシピコを首都に据え直して出発した。
*
緑に満々たる水面を臨む1人の男がいる。
2日前まで長い間髭すらも剃らずに放浪を続けていた。
今は真っ黒の外套をかけているが、その左肩には腕がない。
3年ぶりの茨の城。
この豊かな水を見れば、彼女がどれだけ想いを込めて民のために水を生み出してきたかが一目瞭然だった。
歩く道々で彼女の噂を聞いた。
17になった彼女はそれはそれは美しくなったという。
誰に訊いても彼女は慕われていた。
今度、彼女は誰かの后になるそうだ。
良かった。
彼女は幸せにしているのだ。
そして、アクヴァールも姫と共に幸せになろうとしているのだ。
王を迎えられるほどに。
……あんたも生きてよ、ねぇっ!!
そんな泣き顔がふと心をよぎった。
逢わない方がいいと知っている。
暗い記憶は呼び覚まさないほうがいい。
彼女が幸せに生きているのならそれでいいと。
それなのにふらふらとここまで来てしまった。
自分の思考に苦笑せざるを得ない。
片腕の騎士は、剣を振ることも叶わなくなっていた。
利き腕ではないし、ここまで不便なものとは思わなかった。
あの日失いかけた命は、またしてもこの世に残ってしまった。
やっとの思いで辿り着いた幾つかの国々も、他国の人間を受け入れることはなかった。
しかも片腕。用心棒すら出来ない。
今日まで生きてこられたことが奇跡だった。
命がここまで延びたのは、いつの間にか心に棲み付いていたあの少女が幸せに暮らすのをいつかこの目で見たいと思ったからか。
分からないけれど、確かにルウは生きている。
そして、今はここにいる。
*
少し離れた水際で、白い布に身を纏った女性がアクア・ストーンを清めているのを見つけた。
あれはアクアの儀式。
水を作ることの出来る水の華女のみに許された行為。
そして、それは。
「ルウ、なの……?」
急に吹き付けた風に、ルウの外套がゆらりと空を舞った。
目線の先には、天使と見間違うほどの美しさを讃えた女性。
艶やかな髪が風にさらわれて、目を細めた彼女がそっと片手で押さえる。
水面に反射する光がその髪をきらきらと淡く光らせる。
……綺麗だった。
「サラ……」
その瞬間、認めてしまった。
自分は彼女が好きだった。
いつの間にか。
そして……ずっと、今も。
「ルウ、……ルウっ!!」
「……」
跳ねるようにこちらに駆けてくる彼女の姿を信じられない思いで見つめていた。
それだけで生きていて良かったと思えるほどに。
かろうじて言えた言葉はそれだけだった。
もう一度出逢えたなら、もっと何か言おうと思っていたこともあったのに。
彼女は体当たりでルウの胸にぶつかり、その外套を握り締めて離さない。
失われた手では、彼女の背を抱き締めることが出来なかった。
「サラ……?」
彼女は俯いたまま震えている。
ルウはその顔を覗き込んだ。
「……カ……バカ……ルウのバカ……っ」
やっぱり彼女は泣いていた。
ルウは苦笑した。
息をつくと、彼女を片腕で抱き締めた。
彼女はその腕の中で、しばらく泣いたままだった。
「お前でかくなったなぁ」
「何それ。当たり前……って言うか久しぶりに逢ってそれなの?」
ふ、と笑いが零れる。
サラも笑った。その笑顔がいい。
ルウは目線を遠くに遣る。
どこまでも向こうが見えないくらいに大きな湖。
「よくここまで立て直したな」
「誰がやってると思ってるの?」
「……はいはい。まったく相変わらずのお姫様だ」
嬉しかった。
再びこんな風に出逢った頃のように憎まれ口を叩き合う日が来るなんて。
隣に腰掛けたサラがぎゅっとルウの腕のない側の外套の裾を握り締める。
ん?とルウは彼女を見た。
彼らの足先が向く緑の湖は、彼女の髪のようにきらきらと輝いて。
天国のようなどこまでも蒼いそれは、まさしく彼女だった。
「おかえりなさい、ルウ」
息が詰まる。
思わず泣いてしまいそうになった。
今自分を真っ直ぐに見上げてくるこの瞳は、3年経った今でも変わらない。
「ただいま」
それでもルウは、少ししたらアクヴァールを去ろうと思っていた。
自分がここにいたらサラは迷惑するだけだ。
彼女はもうすぐ誰かのものになるのだから。
再会した瞬間に彼女への想いは封印することに決めていた。
願わくは、彼女が幸せに過ごせますようにと。
*
ルウはサラに手を引かれて茨の城に足を踏み入れる。
変わらない景色。
けれどそこにいる人たちも、そこに流れる空気もあのときとは違うのだ。
サラがちょっと待っててと言い残してルウの元を離れる。
彼女は14の頃に戻ったようにはしゃいでいた。
まるでルウのことを久しぶりに会った恋人と思うかのように。
それでもいいかと思う。
たとえひとときでも彼女が笑えるのなら、ここまで生きてきた意味がある。
「ルウ様ですね?」
突然話しかけられて驚いた。
声の主はあの頃のサラと同い年くらいの少女だった。
「あ、ああ」
「お召し替えをお願いしとうございます」
「え……?」
わけも分からぬままにどこかに連れて行かれ、強制的に着替えさせられる。
淡い水色の正装。
その衣装は、ルウのためにあつらえたと言っても過言ではないほどにルウにぴったりだった。
けれどこれは。
アクヴァール王国の王族のみが着る衣装ではないか。
ルウにはそれを着ることは許されないはず。
それなのに、どうして。
わずかに混乱するルウを尻目に召使いの者たちは部屋を出てゆく。
そして入れ替わりに入ってきたのは、サラだった。
「サラ……?」
「まぁ、ぴったり!」
「っておい、何だこれは!」
近寄ってきたサラもまた、透ける水色のオーガンジーが揺れるドレスを身に付けていた。
それは、アクヴァール王国の花嫁衣裳。
ルウは目を見開いて、その美しさに息を呑む。
「だってルウ、あなたがただいまって言ったのよ!」
「な、何言ってるんだ……?」
「だって……私、あなたが好きなんだもの」
「サ、ラ……」
「好きなの!好きだった、ずっと、ずっと……それにね、ありがとうって言いたかった。私のことを守ってくれてありがとうって言いたかった!」
彼女は俯く。
ルウは困惑する。
だってサラ、お前は。
「ダメ?」
「ダメ、って……だってお前もうすぐ結婚するって……」
「あんなの希望的観測よ」
「え?」
「ルウが帰ってきたら、結婚するからってお母様には言ったの。私が結婚するって噂が流れれば、ルウが戻ってきてくれるんじゃないかと思って。それって人質を取るときの兵法の基本でしょ」
人質って……えぇ??
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「ダメ。待たない。ねぇ、結婚して、ルウ」
「……」
「お願い」
お願いって。
ルウは絶句していた。
彼女をもう一度見られたらそれで満足するはずだった。
彼女が幸せに暮らしているのなら、自分はそれでいいはずだった。
それなのに。
彼はこうしてサラを目の当たりにしている。
自分の気持ちを認めてしまった以上、これほどに美しい彼女の姿を見て何とも思わないわけがない。
むしろ愛しくて。
すぐに抱き締めてしまいそうで怖かった。
一度抱き締めてしまったなら、もう2度と他人になど触れさせたくないと思ってしまうから。
彼女には婚約相手がいるというのに。
そう思って堪えていたのだ。
それを全部脱ぎ捨ててもいいのだろうか。
「……俺には、片腕がないぞ」
「名誉の負傷だわ」
「お前をずっと守りきれる自信もない」
「そんなの……逆に私がルウを守ってあげる」
「第一俺は、アクヴァール人じゃない」
「私と結婚すればアクヴァールに籍が出来るわ」
「お前なぁ」
「どんなルウでもいいの。とにかくルウがいい。……だってこの3年、ずっと待っていたのよ?あんたが生きろって言うから、1人でも生きてきた。それはずっといつかルウに逢えるって信じてたからだわ」
サラの手が震えていた。
どんな自分でもいいと言う。
片腕がなくても。
アクヴァール人じゃなくても。
ここまで生きてきたのは自分に再会するため、ただそれだけだったと。
ルウは息をついた。
「どうしてもダメ?誰か他に好きな人がいるの?あ……べス……べス姫のこと、今でも忘れられない?」
「バカ」
そう言って、ルウはまだ尋ね続けようとするサラを力強く抱き寄せてその唇を塞いだ。
今、サラにその名前を出されるまで、彼女のことは忘れていた。
今なら分かる。
あれは、恋ではなかった。
憧れだったのだと。
でも……サラは違う。
彼女とは、共に生きてゆきたい。
手を伸ばして触れていたい。
胸がいっぱいで、何から対処したらいいのかまとまらない。
「ルウ……」
長い沈黙の後、サラが真っ赤になってルウを見た。
ルウはとりあえず笑って見せた。
「お前が許してくれるんだったら、俺はここで生きてゆく」
「……」
「そうしたらもう、俺はお前から離れない」
「え……」
「誰が何をしようと、俺はお前から……離れない」
真っ赤になっていた顔は、きょとんとルウの顔を見つめていた。
そして、その不器用な告白の意図するところが分かったのか、ますます顔を赤らめた。
けれどその瞳はやはりきらきらと輝いて。
「臨むところよ!」
彼女は満面の笑みでそう言い放った。
*
昔々、ある国に王女が即位した。
少女の名前はサラ。
ちょうどその頃、小さな国で拾われた男の子がその国の王女に淡い憧れを抱いた。
少年の名前はルウ。
2人はまだ出逢っていない。
これは、ある大国に咲いた一つの華とそれを守る騎士のお話。