ルウ
緑の森。
広がる水面。
並々と続く青い絨毯のようで呆然とした。
かつての祖国を見るようで。
いや、これほどではなかったかもしれない。
……しかしもう比較は出来ないのだ。
祖国はすでに陥落しているし、ルウは人生で初めてその地に降り立ったのだから。
アクヴァールと呼ばれるその国は、豊かな水で名を轟かせている大国である。
周辺には大小30ほどの国々がひしめいていて、ルウが生まれ育ったナディ国はアクヴァールの南方に位置する小さな国であった。
ナディは治安も良く、水にもそこそこ恵まれていたため周辺諸国の中でも5本の指に入る住みやすい国と言われていた。
ルウはナディが好きであった。
国王、王妃ともに心優しい人物で、民にも慕われていた。
ルウ自身「この王と王妃の国のためなら」と騎士に志願したほどだ。
必死になって剣を学び、兵法を身につけた。
そのおかげで15になる頃にはナディ国史上最年少の騎士団一等兵の大任を拝すようになっていた。
実は、ルウにはどうしても矢を射るようなスピードでその出世街道を邁進しなければならない理由があった。
彼の想い人は、ナディ国王女べスであったのだ。
見目麗しく、父母に似て清らかで美しいと評判だった彼女。
もちろん騎士は姫と恋仲になれるような身分ではない。
けれどルウは彼女に焦がれていた。
少しでもべスのそばに近づきたかった。
手を伸ばしてはいけない人だった。
清らかで。眩しくて。
ただ1つ、この身をかけてお守りすると誓うしか出来ない想いであった。
それなのに……守ってやれなかった。
それどころか、何もしてやれなかった。
「ねぇルウ、あなたはナディが好きかしら?……私は好き。この国に生まれて本当に良かった」
あの朝、そう呟いた時の彼女の花のような美しい笑顔が今でも瞼の裏に焼きついている。
ルウは目を閉じた。
今、とうとうこの手は一度も触れぬままに彼女は永遠に手の届かないところに行ってしまった。
生き残ってしまった自分はどうしたらいいのだ。
今まで人生の全てをナディのために生きてきた。
ベスと過ごすささやかな時間のために。
それを失った今、何を支えに生きれば。
思い出されるのは、あの幸せだった日々。
それはもう、二度と戻らない。
そしてそれは、ルウの淡い夢の季節の終わりだった。
*
アクヴァールにもナディにも言えることだが、実は雨季のほうが怖い。
ざんざんと雨が降る。
花が一気に開く。
人間にとっては恵みだから雨自体は問題ない。
しかし、それが突然ピタッと降らなくなることがある。
それを雨枯といい、そこからが地獄だ。
その地獄の日々は乱花節と恐れられている。
花々が狂うように乱れ咲き、止まらない。
あたり一面が花に覆われてしまうほどに。
見た目には美しいが、その花々は降り続いた雨を、そしてそれ以外の水分をも吸い尽くしてゆく。
そして大地は枯れる。
水を失うのだ。
だから乱花節は別名「失水節」ともいう。
乱花節は毎年のことではない。
大体10年周期でやってくるので人々はそれに備えることが出来る。
しかし、今年のようにある日突然それが襲ってくることがある。
そうするともう、出来ることは何もない。
人々はただ水を求める。
その求水心が戦を呼ぶ。
そうして歴史上滅びていった国は数多あるのだ。
しかしルウは、アクヴァールはもちろんのことナディにもその心配はないと思っていた。
王がしっかり給水制度を敷いていたため、水に飢えた国民が暴挙に出るということはないからだ。
それに王は民に慕われていた。
だから大丈夫だと思っていたのに。
今考えてみれば、それが油断であった。
ナディの周りには西にシモンという国がある。
ここは治安も酷く、元々暴れやすい国民性であった上にナディの水の豊かさを羨んで日頃から何かと因縁をつけては揉め事を起こそうとしていた。
ルウからすれば、シモンのほうがナディよりずっと大きく力のある国なのだからナディのような小さな国にそこまで執着せずとも良いのではないかと思うのだが、シモン国王の考えはそうではなかった。
ナディをこのままにしておけば、そのうちシモンを超える大国になると恐れたのだ。
それまではナディ軍が機転を利かせて何とか凌いできたのだが、この乱花節にシモン国はとうとう武力に出た。
ナディの水を奪い取ろうと画策したのである。
ルウ率いる騎士団は健闘した。
けれども軍事大国シモンの前には力が及ばなかった。
戦いの第一線から何とか王一家を守るためにと戻ったナディ国の王都ナーザは、火の海だった。
大地は割れ、人は渇きに倒れた。
あの南方に名高い美しい水の都ナーザはどこへ行ったのだ。
すでにルウに出来ることは自分が生き残ること、ただ1つだった。
*
ずぶぬれの森。
ルウは緑に覆われてひんやりとした切り株を見つけた。
そこに腰を下ろして、大湖を見ながらこれからの行く末を考えた。
……これだけの水がナディにあったなら。
戻らないと分かっているのに、今目の前にあるこの水があのとき祖国にあったならと思うとやるせなくて何も考えられなくなる。
この世界には、国交という言葉は存在しない。
あるのは戦だけ。
ナディからアクヴァールまでは歩いて丸2日かかった。
べスがいないなら死んでも構わないと思っていたにも関わらずこうして歩いてきて、そして生き長らえている自分を呪いたかった。
「ちょっとあんた、そこからどきなさい!今すぐに!!」
静寂を破るけたたましい声。
女のものだった。
ルウは驚いて振り返る。
するといつの間にこんなに近づいたのだろうと思わざるを得ないほどの馬に乗った人間が自分に向かっている。
その先頭に立っていたのは少女のようだ。
そしておそらく、先ほどの声の主。
「何してんの、とろいわねっ!もう、早くっ!!」
突然怒鳴られたって訳が分かろうはずもない。
自分はただ座っていただけ。
それが、なぜこんな風に包囲され、怒鳴られ、睨み付けられなければならないのだろうか。
……しかもこんな少女に。
ルウはむっとした。
そして敢えてそれを無視した。
「ちょっと、聞いてるの!……あっ!!!」
不穏な気配がした。
それを機敏に感じ取ったルウは、さっと切り株から飛び降りる。
その瞬間切り株からまるで生き物のように枝が伸び、もしまだそこにルウが座っていたなら巻きつかれて下手をすれば絞め殺されるか体内の水分を全て搾り取られるかしていただろう。
すると後頭部をいきなり誰かに殴られた。
「い……っ」
片手で頭を押さえる。
誰が叩いた。
振り返ると、それはやはり先ほどの少女だった。
「何すんだバカっ」
「それはこっちの台詞よ大バカモノっ」
少女は騎乗しているので見上げる形になる。
その姿はべスと引けをとらない愛らしさ。
髪は栗色に長く、輝いている。
12、3歳だろうか。
あどけないのにその美しさはまるで宝石のようだと思った。
何枚も着込んでいる白い布が彼女の美しさを引き立たせていて、将来は世界に名高い美女になるに違いない。
……でも。
その実、この口の悪さと手の早さ。
最悪だ。
ルウは彼女を睨み付けた。
するとそれに気付いた彼女が言った。
「あんた死ぬとこだったわよ!あれがシムルの木だって知らないのっ?」