6 優しい願い、暗い思い
どうして、こんな事になったのだろうか。
そう思った少女は、掠れる視界に己の体を映し出す。
出血は止まらない。衣服が赤に染められていっている。激痛に全身が覆われている。
流れ出す自分の鮮血を眺めながら、少女は再び思う。
どうして、こんな事になってしまったのだろうか。
最初はただ、嫌なだけだった。
少年の足を引っ張ってしまっている自分が。何も出来ない自分が。
これ以上彼を困らせたくなかったから、これ以上間違えたくなかったから、彼女は行動を起こした。
手足をロープで縛られて身動きの取れなくなっているこの状態を、打破するために。
自分の身が解放されたと知ったら、きっと今戦っている彼らの重荷も軽くなると考えたのだ。
抜け出す手段は考えてあった。とても簡単、難しくない。この世界の人間なら誰でも持っている物を使うだけ。
それは、元力だ。
本来、元力には物体を物理的に害する力はない。相手を威圧させたり、幸福または不快な思いにさせたりする事はできるが、直接的に傷つける事はできない。元力は飽くまで超常的な現象を起こすためのエネルギーなのであって、それ単体では何の効果もないのだ。
そんな元力にも種類が存在する。
大きく分けて三種類。
人力・天力・魔力。
詳しい説明は省き、基本はこの三種類。どれも直接的な物体の接触・破壊等はできない。
だが、どんなものにでも『例外』と言うものは付き物で。
例えば、元力だけで人や物を傷つける事ができたり。
例えば、その元力専用の術式でないと術を暴走させてしまったり。
これらの性質を持つ元力は異元力と呼ばれ、それを持つ者は一億分の一ぐらいの確率で出現する、とても稀有な存在だった。そして、ここにいるキャロル=マーキュリーがその一億分の一人だったりする。
彼女の内包する元力の性質は、前に挙げた二つの例えそのもの。元力だけで物体を破壊でき、術式を暴走・暴発させてしまう。
そのため、彼女は術を使えないし、本来この世界の人間なら必ず通わなければならない、術の基礎知識を学ぶ『術師教育学校』(通称スクール)にも行った事がない。彼女が術を行使する事で、周りに危害を加えてしまう恐れがあるからだ。
だが、今キャロルはここでその性質を逆手に取ろうと考えた。
彼女の両手両足を縛っているロープには『阻害術式』が組み込まれている。『阻害術式』は術者が術を発動させようとすると発動し、元力の循環を阻害する、一般的な拘束術式だ。そのため、術者は術でそのロープに干渉する事はできない。
そこでキャロルは一つの事を思い付く。
『阻害術式』は術を発動する前、つまり元力を練り上げると発動する。でも彼女の場合は術を発動させるに至らなくても、元力だけでロープに干渉できるため、本来より動作をワンテンポ削減できる。
簡潔に言ってしまうと、『阻害術式』が発動する前にロープを切断できるかもしれない、と言う事だ。
(まさか、こんな所でわたしの力が役に立つなんて、考えもしなかったよ)
自嘲気味にキャロルは思う。
今まで、この力のせいでとても辛い思いをした。
他の人、同じ歳の子ども達は当たり前のように使っている術。それが使えない事が。存在そのものが危険である自分が。
(小さな明りを灯すだけの術式も、わたしがそれを発動させると強力な閃光弾に変わってしまう。ロウソクに火を点けるだけの術式も、わたしは業火を出してしまう)
どうしても行き過ぎてしまう。制御の効かない力。
こんなもの無くしてしまいたいと、一体何度思った事か。
(もしかしたら、自分から使おうって思ったの、初めてかも)
それ程に、彼女はそれを嫌っていた。
でも、もしこの状態を打破できたのなら、この力があって良かったと思えるかもしれない。
(自分を好きになれるかもしれない)
そんな淡い期待を胸に、少女は自分の立てた、一種の賭けに近い推測を行動に移した。
息を吐き、気を沈め、意識を集中させる。
瞬間的に体内の元力を両手両足に集め、『阻害術式』が発動する前にロープに干渉する。
元力がロープに接触すると同時に、それに刻まれている『odstantia』と言う文字が光を放ち、
バチッ!! と何かが弾ける音がした。
手足を拘束していたロープが全て弾け飛んだのだ。
そう。
少女のか細い両手両足首の皮膚と共に。
「い、ぎ──ッ!!」
血液と皮膚が散ると同時に激痛が感覚を蝕み、少女は悶絶した。跳ねた赤黒い液体は乾いた大地に染み付き、白かった少女の手足は生々しい真紅に彩られる。絶叫すらしなかったものの、押さえの効かない出血と痛みに少女の意識は遠退いていく。
時に現実とは無慈悲な悪魔に姿を代える。
小さな少女の願いすら、ほんの些細な希望すら、弾き返し嘲笑う。
彼女の立てた推測は半分当たって半分外れていた。確かに彼女なら術を発動しなくても、元力だけでロープを破壊する事ができる。そのため本来よりワンテンポ行動が早くなるのは必然的だ。
しかし、彼女はここで大きなミスをしていた。
『阻害術式』は元力を練り上げる後と、術を発動させる前に起動する。簡単に言うと、
“元力→阻害術式発動→術式発動&ロープ切断”
と言った具合だ。この場合は阻害術式が先に発動しているため、ロープからは抜け出せない。
そして、ここで『術式発動』が消えたとしても、
“元力→阻害術式発動&ロープ切断”
となる訳で、『ロープ切断』が『阻害術式発動』より早く行われると、一体誰が言い切れるのだろうか。
結果的に阻害術式とロープ切断は同時に行われ、最終的に少女は両手両足を酷く負傷すると言う最悪な状態に陥ってしまった。
ところが、そんな彼女を更に追い詰める事態が、目の前で起ころうとしていた。
ロープが弾ける音を聞いて気付いたのか、一人の少年が自分に視線を向けていたのだ。ひどく歪んだ形相で、光を無くした瞳を。辛い現実に突き当たったかのような、絶望の表情で。
武器を握った敵がすぐ側にいるのに、それを一切無視して彼は覚束ない歩幅でこちらに近づこうとしている。
(……だ、め)
激痛に苛まれながらも、少女は必死に思う。
少年の足を止めなければならない。これ以上敵から注意を反らしていたら、取り返しの付かない事になる。だから来てはいけない、と。
だが、現実と言う高い壁は少女の思いを決して通さない。
彼女が声を出す前に、赤と黒の髪を持つ『敵』が再び進撃を開始したのだ。
敵は飛び上がり、少年の横合いに着地した。対して少年は、一メートルもない至近距離に敵がいるにも関わらず、尚全く反応を示さない。そんな少年に敵は躊躇いなくメイスを振るい、容赦なく抉るように腹を殴り後ろへ飛ばす。鈍い音が辺りに散乱し、赤い色が舞い散った。血痰を吐き、無抵抗のまま飛ばされた少年の体が罅割れた大地の上を転がっていく。
(……いや、だよ)
敵と少年の距離は二〇メートルに広がった。
それでも敵の強襲は止まない。自分の背後の地面をメイスで叩き、起こった爆発の衝撃を利用して、高速で少年の元へ迫る。
それに直面している少年は腹を抱えて上半身を起こした所。ようやく正気に戻ったようだが、太い鉄の棒で腹を思い切り殴られた彼に、追撃を加えようとしている敵を対処できるとは思えない。
破壊を生む凶器が弧を描き、再度標的に襲い掛かる。
撲殺の一撃を回避するため、標的である少年は転がるように体を横合いへ反らす。
メイスが大地を抉った。
ほぼ同時。爆破した。
発生した爆発の衝撃は全て少年のいる方向へ。
「──や、めて」
そんな弱弱しい少女の声など、噴出した轟音と粉塵、悶え苦しむ少年の絶叫に掻き乱されて消えるだけ。
ボロボロの体が回転しながら宙を舞っていた。体からは力が抜けていて、衝撃に運ばれるがまま滑空する。血の尾を引き、左腕の即席ギブスが外れていく。誰がどう見ても彼には既に意識はなかった。
それなのに、敵は追撃を止めない。
掻き上がった灰色のカーテンの中から太い鈍器が勢い良く突き出てきた。それは空中を浮遊していた少年の背中に直撃し、骨が砕けるような音と共に彼の体を更に大きくぶっ飛ばす。
「もう、やめてよ……」
不安定に揺れる力の無い声は、やはり誰にも届かない。少年が傷を負う度に、胸の奥が死にそうになるぐらい締め付けられて、死んでしまいたいと思ってしまうほど苦しかった。
一体、少年は何度地面の上を転がったのだろうか。
彼の体には無数の切り傷や痣などがあり、まるでボロ雑巾のようだった。息をしているのかすら怪しい状態だ。
そんな少年を見て、少女は涙を流し、ただ嘆く。
(このままじゃ、死んじゃうよ)
また、自分のせいで大切な人を亡くしてしまう。以前と同じ、目の前で。
いやだ、と現実を否定したがる少女の心は、底から滲み出てくる『感情』に少しずつ浸かっていく。
そこで、倒れている少年の指が微かに動いたのが分かった。奇跡的にも彼は生きているようだったが、ただそれだけだ。死んでいないだけで彼にはもう立ち上がれる力はない。だらしなく投げ出された体に、気力など感じられる訳がなかった。
それでも、敵は追撃を止めない。
メイスを握り、粉塵の中からゆっくりと歩を進める破壊者は、決して立ち止まらない。
(死んじゃう……)
完全に標的の息の根を止めるまで、あの敵は進撃し続ける。否、もしかしたら息を止めたとしても、敵の暴力は治まらないかもしれない。少年を原型すら残らない肉塊に変えるまで、握った武器を下ろさないかもしれない。
それ程に、敵は狂っていた。
(助け、なきゃ……)
少女の底から溢れてくる『感情』は、次第に心を満たしていく。
少年を救いたいと言う思い。死なせたくないと言う願い。
少年を傷つけている敵への怒り。許さないと言う憎悪。
(助けなきゃ、あの人を……)
それらの思いは少女の心を埋め尽くし、集約し、混ざり合い、どろどろの『負』へと変わっていく。手足の痛みなど彼女は当に忘れていた。
視界が狭くなっていく。自分と言う存在が他の何かに奪われて行っているような感覚がする。だが、彼女はそれに抗おうとは思わなかった。それどころか、それに全てを委ねようと思ってすらいる。
何故だろう。
同じような感覚を以前にも感じた事がある。
あの時はどんな気分だっただろうか。
思い出そうとして、だが止めた。そんな事などどうでもいいと思ったからだ。
今やらなければならない事はただ一つ。
「────助けなきゃ」
視線の先にいる一体の敵を粉砕する事。
そのためならば、少女は何も躊躇わない。どんなモノにも頼る。
こうして、その小さな体に秘められた強大な『狂気』の翼は、羽を広げた。