5 戦局の一転〔前編〕
濛々と立ち込めていた粉塵が、少しずつ薄らいでいっている中。
当初二秒強は掛かるはずだった一連の動作を、僅か〇・四秒で成し遂げたラージーは、
「な、に?」
目の前の状況に言葉を失っていた。
理由は明快。
叩き潰したはずのユアンの残骸が何処にも見当たらないからだ。
彼は確信していた。自身の勝利を。わざと懐を空ける事で敵を誘い込み、その上で必殺の一撃を叩き込む。自身が考えた作戦は完璧だったと自負していた。
実際に手応えはあった。人間の骨を砕く、あの独特な触感。肉の中で弾ける骨の音。
それらの感覚は、その後に起こった爆発によりすぐに吹っ飛んでいったが、確かに覚えている。記憶として。
だが、いない。血の一滴すら残っていない。
(どういう事だ……)
何らかの術を発動したのか。しかし発動より早くメイスが振り下ろされ、敵はそれを受けてから消えた。
考えられる可能性としてはそれがベスト。
(何にしても、奴はまだ近くにいる。どこかで怪我を癒してるのかもしれねぇ)
攻撃が当たった事は確実。致命傷になっているのかどうかは分からないが、長引かせると厄介だ。
そう判断したラージーは地面にめり込んだメイスを引き抜こうと思い、利き腕である右に力を込めて、
左斜め後ろから気配を感じた。
(──ッ)
視界で確認する暇はなかった。
それを殺気だと感じた彼はメイスを素早く引き抜き、そのまま気配を感じ取った方向へ大きく振るった。
大気を引き裂く凶音。
そして次の瞬間には、
ゴンッ────ッッ!! とメイスが鐘のように鳴っていた。
鳴らしたのはユアン=バロウズの拳。
鉄の棒と人間の拳が衝突し、互いに大きく弾かれる。
(ぐ……っ!)
鐘を鳴らした時に起こるような強烈な振動が獲物全体を震わせ、ラージーの掌に大きな負荷を掛けた。
(人間の拳が……、鉄を鳴らした!?)
鋼鉄の手袋でもしていなければ決して成しえない芸当。しかしユアンはそれを素手の拳で成し遂げた。普通なら拳の方が潰れていなければいけないはずなのに、彼の手の甲には岩を殴った時に出来るような削り傷程度しか負っていなかった。
(こいつ、鉄塊を砕く気なのか──!?)
そう思わせるに十分な一撃が、ユアンが地面に着地すると共に再び拳となって握られる。
対する弾き返されたメイスはラージーの頭上。つまり胴体はまたもがら空き。隙だらけと言うことだ。
(このままじゃ間に合わねぇ!)
先ほど腕を高速で動かしたあの術式を発動させるしかない。
そう判断した彼は右肩に刻んだ強化術式の『陣』に元力を送り込もうとして、
鼻を中心に鋭い衝撃を感じた。
それが顔面を殴られた事だと判断した時には、
彼の体は真後ろに飛んでいて。
地面から弾みを受けた。体がバウンドし乾いた大地に背中を合わせる。鼻の先端に疼痛な痛みが走った。鼻の骨が折られたのだ。
「がッあっ!」
短い悲鳴を上げ、ラージーは地面に蹲る。敵前だと言う事も忘れ、武器を手放し、湧き水のように血液が溢れ出してくる鼻を両手で押さえている。するとラージーの耳朶に、少年の声が入って来た。
「……やっぱりそうだ」
何かを確信したかのような声を放ったのは、ユアン=バロウズと言う少年。
「お前は防御術式なんて使っていない。それどころか自分の使っている術式に制限を掛けてやがるな」
痛みのせいで真っ白になっていたラージーの思考が、その声によって呼び覚まされる。彼はぼんやりとした視界の中にユアンを映す。
「お前の扱っている術式が、『神の十二聖書』系列の術式だと聞いた時から変だとは思っていたんだ。あの術導書に載っている術式、特に『ゲブラー』に載っている術式は、例え術式の密度を一〇〇〇分の一に薄めても、その威力は家の一つや二つなんて簡単に吹っ飛ばせるほどのはずだ。
なのにお前のそれはなんだ? 地面を軽く抉る程度の破壊力しかねーじゃねーか」
そもそも『神の十二聖書』の術式は簡単に手に入るものではない。それはラージーも分かっている。
十二冊の内の九冊は、この世界で最大の都である『宗教都市エルサレム』のエルサレム大図書館に保管されている。そこには、他にも様々な術導書が保管・管理されており、中には世界の構造そのものを破壊しかねない危険な書もあるので、警備体制は世界でも一位二位を争うほどに厳重だと言われている。
そんな所から盗み出すのはほぼ不可能だ。
残りの三冊は未だに行方が分かっていない。五〇〇年前から所在が掴めていないとか。
「悪いが俺はこの目で『神の十二聖書』の術式を見た事がある。と言うかその術式を使っている人を知っているし、その術式を習得しようとした奴がどうなったのかも知っている」
どうやってそれを手に入れたのかは知らないけど、とユアンは付け足した。
強力な術式には必ずリスクがある。
『神の十二聖書』に記載されている術式『セフィロト法』は、習得しようと思えば誰でも習得できてしまう、至って簡単な術式でもある。ただ、習得はできてもそれを実際に行使できるかどうかはまた別の話で。なぜなら九九・九九九九九九%の確率で術者は習得した直後に命を失うからだ。
例え運良く生きのびたとしても、絶対に無傷では済まない。脚や腕を無くしたり、内蔵の一つ二つを無くしたり。と、対価として必ず何かを失う。
なによりこの対価が途轍もなくふざけたもので、それを無くしたらその者は生きていけないようなものばかりを奪っていくのだ。人体で言うと心臓だったり。心で言うと自分の命よりも大切な人の命だったり。
「これは俺の感覚的な判断だが、お前の術式は確かに『神の十二聖書』系列のものなんだろうな。そんでその術式を習得する際に、お前は何かを失ったのも確か。
それが自分の体の一部なのか、それとも他の何かなのかは知らないが、でもまあご苦労な事だよな?」
「……」
「それ相応の対価を払ったのに、お前はその術式をコントロールできなかった。お前には強大すぎたんだろ」
ユアンの声には感情が乗っていない。ただ、その言葉は明らかに相手を蔑むものだった。
(この野郎……ッ!)
ラージーは地面に転がりながらユアンを睨むだけ。
「だから制限を付けた。おそらく爆破の威力を最小限にし、爆破によって起こる衝撃を他の術式によって操作する。衝撃を操作できれば爆破の中にいても、自分のいるところだけを安全地帯にする事ができるから」
爆破の威力を最小限にしたのは、あまりに衝撃が大き過ぎると操作できないから。そして何より、威力を最小限にしても十分な殺傷能力を持っていたから。それと操作できる衝撃は『破滅の衝撃』によって生み出されたモノのみ。
それらの事は言葉にすら出していないが、ユアンは分かっていると思っていいだろう。
「ここまではある程度予想が付いていたんだ。問題だったのは爆破が起こる条件。こればっかりは体張って確めるしかなかったな。御蔭で腕一本やられた」
言いながらユアンは左腕を軽く振り、ラージーはそれに視線を向ける。
(完全に折れてるな。ざまぁ見やがれ)
遠目からでもはっきりと分かる。ユアンの左腕、正確には前腕の中心部分が青黒く腫れていた。相当ひどい内出血を起こしているのは明快だ。
「ズバリ言って、お前の術式は地面を叩かないと発動しない。そうだろ?」
「……、」
「俺は最初、爆破のタイミングは自分で操作しているのかと思っていたんだが、俺の腕にメイスが当たっても、俺の腕は吹っ飛ばなかった。その後、俺はすぐにお前の後ろに回避したんだが、ここでちょっとおかしな事が起こってな。メイスが地面を叩いた瞬間、爆発したんだよ。俺の腕には当たっても爆発しなかったのに。何でだろうな?」
まあそん時に、お前が爆破を防いでるんじゃなくて操ってるんだって分かったんだけどな。そう付け足すとユアンは近くに落ちていた短い木の棒を広い、T=シャツの袖を破いて、腫れている左前腕部に巻きつける。
「そこで、俺はある仮説を立てた。それは──」
──『破滅の衝撃』は地面を叩いた場合にしか起爆にしないんじゃないのか。
「案の定、俺の仮説は大当たり。お前のメイスと真正面からぶつかった俺の拳は爆発しなかった」
右手と口を使って、木の棒を左腕と一緒に破いた袖で固定し、即席ギブスを作ったユアン。
「そうでもしないと、誤って自分の体に触れたときに起爆するかもしれないから。そんな所だろ」
そんなユアンの推理を黙って聞いているラージーだが、彼は奥歯を砕く勢いで噛み締めていた。
(なんだ、こいつは)
彼には理解しえない。
目の前にいるのは、見た目はただの旅する少年だ。でも、
(こいつの洞察力、行動力は異常だ)
本格的に戦闘を開始してからまだ一〇分も経っていない。それなのに眼前に佇む少年はラージーの術式の構造をほぼ全て見抜いている。それに『神の十二聖書』の事をよく知り過ぎている。あれは確かに有名だが、中身まで知っている者は極僅か。誰でも知っている事ではない。
なのにあの少年は知っている。おそらく実際に『神の十二聖書』の術式を使っている本人以上に。
「よく出来た術式だとは思うぞ、実際。でも相手が悪かったな。俺は術式の構造を見抜くプロだ。術者が己の術式構造を知られるのは死に等しいってよく言うよな?」
ラージーは何も言い返せない。ただ地面の上に転がって黙ってそれを聞いている。
「宣言してやる」
何を思うでもなく、何をするでもなく。ラージーはじっと敵の睨みつける。
そしてユアンは言った。
「お前はもう、俺には勝てない」
戦局の一転を確定するように。