11 余裕から絶望へ
時刻は午後六時三〇分。
太陽は地平線に隠れ、荒野は暗闇に沈んでいた。
静寂が辺りを支配し、虫の音が響き渡っている。
だがその暗闇を破るように光を放つ廃墟郡があった。
そこからは複数の人の気配があり、人の声も聞こえる。
「逃がしただと?」
黒いローブを羽織った少年がそう問いかけているのは、彼よりも明らかに年上で屈強な体つきの二人の男だった。
「……すいません、ラージーさん」
言ったのは二人の内の一人、黒い髪の男。年下に頭を下げているのを見ると、少し情けないように映ってしまう。
「縛っていたロープには阻害術式を組み込んでいたはずなんだが」
ラージーと言う少年は、地面に座っている二人の男を見下ろしながら言う。
阻害術式とは、術者が術を発動しようとすると発動し、元力の循環を遮ってしまう効果を持つ。術的拘束力が弱いものは簡単に破られるが、強力なものだと強引に術を発動しようとした場合、元力が体内で暴発し内臓などが破裂する事がある。
彼らの使っていたのは後者の方だ。
「奴はそれを破ったんです」
「あれはそんな簡単に破れるもんじゃねぇ。お前らはちゃんと見張ってたんだよな?」
「それは……」
口の中で言い篭った黒髪の男に、ラージーは怪訝な視線を向ける。
「……まさかとは思うが、席を外していた、なんて事はないよな?」
「……」
何も言わない部下達に、ラージーは溜め息をついた。
今、彼の後ろにはロープで縛られた一人の少女が倒れている。その少女はとある少年を誘き寄せるための餌であり、自分の任務対象でもある。
そして、周りには大勢の黒いローブを羽織った人間が囲んでいた。それを外からさらに囲うように、廃墟の角や木の枝など様々なところに、円柱状に加工された『光浸樹』の枝が取り付けてある。そのため辺りはそれなりに明るかった。
と、不意に別の男の声が割り込んできた。
「まあそんなにイジメてやんなよ。そいつらだって逃がしたくて逃がした訳じゃないんだろ?」
ラージーは声のした方向に視線を向ける。
そこにいるのは一人の男。名はキファーフ=スィナン。歳は二〇代前半ぐらい。青に近い黒髪と青い瞳。黄金のネックレスを首に下げている、不良みたいな男だ。
彼は二階建ての廃墟の上に座っていた。ラージーは見上げながら、
「ダメっすよキファーフさん。こういうのは厳しく教育しねーと」
「相変わらず頭硬いなお前は。鞭ばかりじゃ部下はついてこねーぞ」
「生憎と俺は力しか使えないんでね」
皮肉そうに言ったラージーは再び二人の男に視線を向ける。
「それで、奴はどこに逃げた?」
「……」
二人の男は黙ったまま。
「知らねえのか」
黙りこむ二人の男にラージーは再び溜め息をつく。
「面倒くせーなあ。また町に行かなきゃなんねーのかよ」
うんざりしたような声を出した少年だが、そこで再びキファーフがこんな事を言ってきた。
「どうやら、探さなくてもよさそうだぞ」
「?」
唐突な言葉に訝しげな表情をしたラージーは、キファーフに視線を移し、彼の視線の先を追う。そして行きついたのは、小さな光がポツポツと灯っている町景色だった。
だが、彼の注意はすぐに別のモノに移った。
その手前にいる三つの人影に。
「あれは……」
はっきりとは見えないが、ラージーは確信した。
あの三人の内の一人は、東洋人の少年だと。
理由は分からない。ただ直感したのだ。
「自分からきやがるとは」
ニヤリ、とラージーは彼特有の邪悪な笑みを浮かべる。
「こっちから探しにいく手間が省けたな」
彼はローブの中に片手を突っ込み、一本のナイフを取り出す。銀色の刃が周りの光に照らされて輝いている。
(目標は東洋人だが、まあ端から潰しに行くとするか)
ラージーと三つの人影との距離は、まだ一〇〇メートル以上ある。だが足に仕込んでいる、身体能力を一時的に強化する術式を使えば、五秒でゼロにする事が出来る。
「右から首を跳ねてやる」
姿勢を低くし、体勢を整える。暗闇の向こうから近づいてくる三つの人影、特に右側の影に鋭い視線を向ける。ナイフを握っている右手に力を込めて、前方向に体重を移し走り出そうとした。
しかし、彼がその場から離れる事はなかった。
原因は、自分が今まで凝視していた右側の人影が、不意に消えたからだ。
(な!? 消え──)
そして、それが起こったのもほぼ同時。
突如、轟音と共に右側にいた黒いローブを羽織った人間、合計二一人が、上空約一〇メートル位置まで紙のように吹き飛ばされていた。
「──ッ!」
大地が震え、絶叫が迸る。
走り出す寸前だったラージーは、一瞬遅れて不自然な体勢なまま右側に視線を向ける。
そこにはさっきまで立っていた部下たちはおらず、代わりに巻き上げられた粉塵と、一人の老人が立っていた。
右手に白い大剣を持ち、左手に黒い鞘を携えた、白髪の目立つ老人が。
その老人の瞳はひどく冷めていて、直接睨みつけられている訳でもないのに寒気を感じさせられる。
地面に振動が伝わった。それが空に上がった人間が地面に落下したものだと気付いた時には、既に連続で同じような振動が地上を揺らしていた。
(あいつは……、ヤバイ!)
ラージーは直感した。あの老人は危険だと。レベルが違い過ぎると。
今までの余裕は跡形もなく消え去り、代わりに恐怖と絶望が沸々とこみ上げてくる。
固唾を呑み、無言のままラージーは立ち尽くす。