4 思い〔後編〕
「待って」
立ち去ろうとするユアンだったが、キャロルの呼び止めに足を止める。
振り返ると彼女はユアンに背中を向けたまま、小さな人差し指でさっきまで彼が座っていた椅子を指している。
座れ。まだ行くな。
そう言っているようだった。ユアンは頭を掻きながら席について、反対側の席に視線を向ける。
「何だよ、まだ何かようか?」
「……」
何も言い返してこないキャロルにユアンは首を傾げる。
(……なんか雰囲気的にもの凄く重要な話でもしそうな感じだな。もしかしたら自分の事を話す決心でもついたのか? 俺は今まで気使って聞かなかったけど。まあここはあいつから話出すまで黙っておこ)
ユアンは背筋を伸ばしてキャロルを見据える。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
何分経ったのだろう。さっきより周りの音が異様に大きく聞こえてくる。一秒一秒が長く感じる。しかし、彼女はまだ視線を上げない。
(……ん)
外に視線を向けると町には沢山の人たちで賑わっていた。夜と違ってこの町は、昼間は活気があるようだ。しかし、彼女はまだ視線を上げない。
(……んん)
すると、開けてあった窓の際に小鳥が一羽飛んできた。しかし、彼女はまだ視線を上げない。
(……んんん)
愛らしい声を出して、小さく跳ねながら近づいてくる小鳥。窓際からテーブルの上に飛び移った小鳥はそのままユアンの目の前で動きを止めた。しかし、彼女はまだ視線を上げない。
(……んんんんっ!)
しばらくユアンを見上げていた小鳥は、突然羽ばたいて彼の頭の上に乗ってきた。しかし、彼女はまだ視線を上げない。
(……んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんっ!!)
そして小鳥はユアンの頭の上に腰を掛け──、
「だぁあああああああああああああああああっ!!」
──ようとしたのだが、突然大声を出したユアンに驚いてどこかへ飛んで行ってしまった。同時に周りの客から再び視線を向けられる。だが彼は気にせずに、
「なんか喋れよお前! いつまで黙ってんだよ!」
「……」
息を荒げて怒鳴っているユアンに対し、キャロルは静かに視線を向ける。そしてこのときようやく彼女は声を出した。
「貴方はわたしのこと、なにか聞かないの?」
「は?」
「わたし、貴方になにも言ってないんだよ? 襲ってきた術師のこととか、いろいろ」
キャロルはまた視線を下に向けた。だが、彼女の言葉は続いていて、
「貴方はわたしのせいで怪我をしたの。気付いてるんでしょ? あの術師たちがわたしを狙ってたこと」
「……」
「多分、また来るよ、奴らの仲間。わたしを殺しに。そしたらまた貴方は巻き込まれるかもしれない。昨日以上の大怪我をしてしまうかもしれない」
ユアンは何も言わない。ただ黙って彼女の言葉を聞いているだけ。
「なのにどうして貴方はなにも聞いてこないの!? どうしてまだわたしと一緒にいようとするの!?」
彼女の声は弱弱しいものから、強く訴えるような声に変わっていた。
そしてキャロルの言葉もそこで終わった。自分を責めているような声が止んだ。しばらく沈黙が続き、次に声を出したのはユアンだった。
「それで、お前は話す気になったのか?」
「……え?」
先ほどとは違う雰囲気。真剣な表情。
「俺は前に『言いたくなったら言ってくれ』って言ったろ。無理に追及するつもりもないって言ったはずだ」
「もしかして、それで何も聞かなかったの?」
「ああ。他人の事情にズカズカ首を突っ込むほど無神経な性格でもねーし、それに、命も救われたしな」
キャロルは驚いていた。信じられないのだろう。あれだけの被害を受けておきながら、たったそれだけの事で何も事情を聞かないユアンの事が。
「……意味わかんない。どうかしてるよ貴方。お人好しにもほどがある。偶然旅の途中で知り合っただけなのに、名前以外はお互い何も知らないのに、ホント、普通じゃないっ!」
キャロルは涙声だった。目尻に大粒の滴を抱えて、鼻を啜って、一生懸命ユアンに思いをぶつけている。
「それ……、よく言われるよ」
ユアンはそう言うと席から立ち上がって、キャロルの隣まで歩いていく。足を止めると彼は彼女の頭にポンッと優しく掌を置いた。
「でも、ダメだな俺は。何も聞かない事が相手にとって良い事だと思ってたけど、そいつは間違いだったみたいだ」
同時に、彼は思った。自分はただ知るのが怖かったんじゃないのか、と。何も聞かない事が相手にとって良い事だ、なんてのはただの言い訳なんじゃないのかと。
命を狙われている人間に関わったって、どうせロクな事にはならない。面倒事に巻き込まれて怪我をするか、ひどい場合は死ぬのが落ちだ。
だが、それ以前に、と彼は思い、か弱い少女に言葉を放つ。
この時、ユアンとキャロル、二人のいる空間から、周りの音が消えた。そして、
「女の子を泣かしちまうのは、悪い事だからな」
そう。これが一番の理由。
自分の考えが間違っていたと思った切っ掛け。
するとキャロルの動きが、一瞬だけ止まった。
「よし、じゃあ聞く事にするよ。お前のこと、お前の事情。それでお前が泣き止むなら、それでいい」
ふるふると、少女の体が小刻みに震え出す。それはまるで、何かが耐え切れなくなって切れそうな感じだった。
「……いいの? これ以上わたしの事を知ったら、きっと貴方も奴らに狙われるよ?」
「別にいい」
震える声で放った少女の問い掛けを、しかし少年は一瞬も待たず一言で答える。
「……いいの? わたしと一緒に行動したらけがするよ?」
「別にいいっ!」
「……いいの!? わたしの話聞いたら、奴ら本気で貴方を殺しにくるよ!?」
「いいっつってんだろ! 何度も聞くな! そんでさっさと事情を言いやがれ!」
キャロルは頭を上げる。そしてすぐにユアンと視線があった。
涙が篭った弱弱しいブラウンの瞳と、真っ直ぐ強靭な芯が通った黒い瞳。
しばらく二人は互いの瞳を見つめ合っていたが、
ふぇ、と。決壊寸前だったキャロルの瞳から、大量の涙が溢れてきた。
同時に、彼女は大声で泣いた。
泣き声は飲食店中に響いていたが、キャロルは気にしていない様子だった。ユアンに抱きつき、涙で濡れた顔を彼の懐にこすりつけ、幼い子どものように泣いていた。
彼女は、初めてだったのかもしれない。誰かにこんな言葉を掛けてもらった事が。
その理由は、彼女がその身に余るほどの『危険』を背負って生きているから。その小さな身体ではすぐに押し潰されてしまうほどの大きな『危険』を。
だから彼女にはその『危険』を一緒に背負える仲間が必要だった。
だが彼女は他人に自分の『危険』を押し付けられるような人間ではなかった。
仲間が欲しくても、一人を選ばざるを得なかった。孤独になるほか、なかったのだ。
彼女に残されたのは孤独だけだった。
もしかしたら彼女は『孤独』と言う苦しみに負けて、荒野で倒れていたユアンを助けたのかもしれない。
孤独は、一人は、とても辛い事だから。
“話し相手がほしかったんだよ”
ユアンの脳裏に少女の言葉が蘇る。
その言葉にいったい、どれだけの思いが込められていたのか、彼は知らない。
でも、
(これも何かの縁だ。最後まで付き合ってやるよ)
心の中で、何かを誓うように言ったユアンは、優しく少女を抱いた。周りの目なんて一切気にせずに。少年は少女が泣き止むまで、何も言わずにただ抱いていた。