2 赤い『陣』
小鳥の囀りが鼓膜をつつく。
目を覚ましたら、優しい陽の光が視界に飛び込んできた。思わず開きかけた両目を閉じてしまうが、すぐにまた開き直す。
「……朝か」
ユアンは首を動かして時計の掛かっている壁に視線を向ける。
時刻は午前一〇時一〇分前後。朝と言えば朝なのだが、起きるにしては遅い時間帯だった。
「少し寝過ごしちまったな」
ぼんやりとした思考でそんな事を呟くユアンは、時計から視線を外し部屋の中を軽く見渡す。一人用のホテルの一室。その中には彼以外、誰もいなかった。一人用なのだから一人しかいないのは当たり前かもしれないが、彼の場合は違った。もう一人、彼以外に同じ部屋を借りた者がいる。
「……あいつ、どこ行ったんだ?」
ベッドから上半身を起こして、頭をボリボリ掻きながらユアンは言う。そこで彼は、ふと気付く。昨日の夜の全身筋肉痛みたいな体のだるさは消えていたが、代わりに自分の体が相当『臭う』と言う事に。
「そういや昨日風呂入らずに寝ちまったんだっけか」
ユアンは立ち上がると、部屋の隅に置いてある自分のバッグの中を漁り始める。中から着替えを取り出すと、そのまま部屋を出て行った。
「確か風呂は四階だって言っていたよな」
狭く、一段一段が異様に高い階段を上っていく。四階も三階と建物の構造はほぼ同じだったが、上ってきて早々、目の前に他の部屋とは違う少し大きな扉が目に入ってきた。
「ここが風呂場のようだな」
そう言いながら扉を開き脱衣所に入っていく。中は思ったより広かった。このホテルの一室ほどの広さはあるだろう。
ユアンは入り口に置いてあった籠を一つ手に取ると、その中に着替えを入れて着ている服を脱ぐ。肩に巻いてある包帯を剥ぎ取るように外すと、タオルを左肩に乗せて風呂場に繋がる扉へ向かう。肩の傷は完全に塞がっており、見た感じ湯に浸かっても大丈夫そうだった。
「さーって何週間ぶりかの風呂だ。存分に綺麗になろー」
おー、と一人で言いながらユアンは木の扉に手を掛け、勢いよく右側にスライドさせる。すると視界が白い湯気に包まれた。
(……?)
おかしいな? とユアンは思った。今は朝の一〇時過ぎで風呂には普通誰も入っていないはず。なのにどうしてこんなにも湯気が充満しているのか。
(誰かが入ってんのかな? まあ別にいいか。風呂場は広いし、男同士なんだからなーんの問題もない。……って、あれ?)
そこでユアンは再び思った。
(つーかこの風呂場って……、女湯と男湯、分かれてたっけ?)
その答えはすぐにわかった。なぜなら、
ユアンの視界に、生まれたままの姿でシャワーを浴びている、見慣れた少女が映っていたからだ。
「……………………」
彼はその場で固まった。
少女は両手を上げてブラウンの髪を洗っている最中だった。
柔らかそうな肌に蒸気を纏った水が滴り、ほのかに赤みを帯びた背中には、髪からシャンプーの泡が落ちてきている。幸い彼女は背中を向けていたので大事な部分はほとんど見えなかった。しかし女の子の裸なんて生まれてこのかた見た事がない事もないユアンは、二の腕の下から覗く小さな膨らみを見て、
(うわー、今まで子どもだと思ってたけど、やっぱり子どもだな。全然ないよ。それにしても女の子の肌ってほんときれいだよなー。柔らかそうで。ってなに俺は普通に鑑賞してんだ!?)
変態な感想を心の中で思っていたユアンは、すぐさま全裸の少女から視線を外そうとして、ふと気付いた。
少女の背中。細くて小さなその背中に、赤くて丸い『陣』(魔法陣のようなもの)が描かれている事に。
「……?」
思わずユアンは少女の背中(裸)に視線を戻していた。
女の子の背中にはあまりにも似つかないその『陣』は、彼女の背中を埋め尽くしていた。すぐに気付かなかったのは湯気で見難かったからだろう。
そしてユアンは彼女の背中に『陣』が描かれている疑問の他に、もう一つ気掛かりな事があった。それは、
(あの『陣』の形、一度似たようなの見た事がある。けど『あれ』は簡単に手に入るものでも扱えるものじゃねーし。それにあの『陣』、『あれ』と本当に似てるけど何かが違う。無理に強化されてるし、自動制御術式が変に組み込まれてるし……)
リミッターと強制停止術式は付いてるようだけど、と彼は少女の背中から視線を外し、その場で『陣』ついて考え込もうとしていた。その時だった。
「すごく堂々とした覗きだね」
ゾクリと、冷え切った声が聞こえた。
温かい蒸気が舞っている使用中の風呂場ではあまりに相反する、絶対零度のような感情の篭っていない声が。そしてユアンは外していた視線を前へと向ける。視線を向けてしまう。
少女は素っ裸の状態で肩越しに振り返っていた。悲鳴は上げなかった。ただ黙って覗きの現行犯であるユアンを見つめているだけ。対する彼は金縛りにあったかのように固まっていたので、しばらくの間二人の視線が絡み合い、時間が止まった。
「……」
「……」
人間を見ている瞳ではなかった。まるで捌かれた魚の残骸でも見ているかのような、気持ちの悪いモノでも見ているかのような、不の感情が詰まった瞳だった。
その場に、シャワーの音だけが響き渡る。
いったいどれだけの時が経ったのか、分からなかった。一秒が永延に感じられ、呼吸すら忘れてしまいそうなのに、湿った空気が肌に染み込み、素っ裸の少女に視界を支配されている。
そして、気が付いたらユアンは風呂の扉を左にスライドさせていた。
トン、と扉が完全に閉まると、後ずさりをしながらゆっくりとその場から離れていく。するとシャワーの音が消えた風呂場から、少女の声が聞こえてきた。
少女は一言、
「……ヘンタイ」
そう呟いた。