15 最終ラウンド
「痛っつ……」
ユアンは右肩を左手で押さえながら、上半身だけ起き上がった。肩から大量の鮮血が溢れ出し、傷口を押さえている左手は赤く染まっている。生暖かい液体が腕を伝って地面に落ちる。
焼けるような痛みに耐えながらユアンは辺りを見渡す。そしてまず視界に入ったのは、三メートルほど先に仰向けで倒れている眼鏡を掛けた男だった。
「倒した……のか?」
ほとんど賭けに近かった。手裏剣に手裏剣を重ねる技は今までやった試しがなかったから。以前からやってみようとは考えていたのだが、なかなか使える機会が訪れなかったのだ。
(分離せずにそのまま合体しちゃうんじゃないかと思ったけど、無事にうまくいってよかったー。これで俺のこの『力』はまだまだいろいろな応用が利くって事が分かったな)
ユアンは新しい技を覚えた! と言う訳なのだが、まだ安堵はできない。他の敵がどこかに潜んでいる可能性もある上に、彼にはまだやることがあるからだ。
テーブルの向こうにいる一人の少女の安否。それを確認しなけれ安息なんてとてもじゃないができない。
「……キャロル」
思わず少女の名前を口に出してしまったユアンだったが、
「なぁに?」
「うわぁ!」
いきなり隣から甘ったるい女の子の声が聞こえた。それに驚いたユアンはもの凄い速度で振り返ると、すぐ隣に一人の少女が膝立ちをしていた。
「思った以上の反応だったよ。そんなにびっくりした?」
「当たり前だ! いきなり横から声をかけられたんだからな」
ユアンは少女の姿を見て、内心ほっとしていた。血などを出している様子はなく、何より生きていた事に安心していた。
「本当に黙らせちゃったね」
「なんだよお前。俺の言葉信じてなかったのか?」
「うん」
直球ストレートの即答だった。真っ直ぐすぎる返答と自分の信頼の無さにユアンが落ち込んでいると、
「でも助かったよ。貴方が床に伏せたらそのままの状態で、どこか別のところに移動しろって言ってくれなかったら、今ごろ私死んでたよ」
あはは、と笑いながら言うキャロル。
「なんだか今でも信じられないなあ」
「おいおいなんだよそれ。お前も見てたんじゃねーのか? 俺の活躍を」
「見てたよ。見てたんだけど何だかね」
なぜか曖昧な言い方しかしないキャロルに、ユアンは怪訝な表情になる。
「貴方って術師としての階級ってどのぐらいなの?」
「あ? なんだよいきなり」
「いいから答えて」
キャロルが真顔で急かすように聞いてくるもので、ユアンは『見習い術師だけど』と言う。
「……見習い、ね」
「何でそんな事聞くんだよ?」
「なんでって、それは貴方の元力があまりにも小さいから──」
と、喋っている途中、突然キャロルの口が止まった。そして彼女の瞳は信じられないものでも見ているかのように、怯えていた。驚いていたのではなく、怯えていた。
そんな彼女に首を傾げそうになったユアンだが、彼もすぐ異変に気付いた。
自分のすぐ後ろに何かが立ち上がった。ユアンはそう感じていた。同時に背筋に殺気のような寒いものが走る。
「……」
ゴクリと口に溜まった唾を飲み込み、ゆっくりと後ろを振り向く。そして見た。
今にも巨大なハンマーを、キャロルとユアンの頭上に振り下ろそうとしている大男を。
「な──ッ!」
さっきまでユアンの後ろで倒れていた黒いフード付きのローブを羽織った大男。ユアンが撃破したはずの敵。
大男の体はガクガクと震えていた。まるで雪の中を薄着で歩いているように。それに左腕の側面の布は赤黒く染まり、顔面、より正確に言うと両方の目からは横一線に赤い鮮血が今もなお、とどまる事無く溢れている。
おそらく視力はもうないだろう。それにとても戦える状態でもない。そんな事は誰が見たって分かりきっていた。だが大男は的確に『敵』の位置を掴み取り、今また襲いかかろうとしている。
(……何だ、こいつは)
驚きよりも、どちらかと言うと恐怖の方が大きかった。腕を裂かれ、視界を奪われても動いている化け物に。普通なら大量出血で意識が跳んでいるはずなのに、大男は立っている。何も見えないはずなのに、ユアンたちの位置を捕らえられないはずなのに、大男は正確に二人の頭上にハンマーの頭部の狙いを定めている。
「……臭うぞ、臭うぞ! 『風』と『天使』の臭いが! 必ず殺してやる。必ず殺してやる!」
急いでこの場から離れようとした。だがすぐには体が動かない。肩の痛みに体力を持っていかれてしまっているようだった。隣にいるキャロルだけでも突き放そうと思ったが、それだけの時間がない。
途中、遠くで大きな音がしたような気がしたが、ユアンは気にしている暇がない。
大男の腕に力が入るのが分かった。体の震えを抑えて地面をしっかりと踏み締め直しているのがわかった。
一瞬、大男の全ての動きが止まり、そして巨大なハンマーが振り下ろされる。
男が立ち上がったのを確認してから経った時間は約一〇秒。そして十一秒に達する時には、
ドゴンッ! と言う鈍い音が響いていた。視界が真っ暗になる。体の中の骨が砕ける音がした。吐血する苦痛の声が聞こえた。
ユアンは死んだと思った。だが同時に死んだと思っている事に違和感を覚えた。
死んだのなら何も思えられないはず。何も考えられないはず。しかし自分は『死んだ』と思い、考えている。
そして彼はようやく気付いた。
視界以外はどれもユアンやキャロルのものではなかった事を。自分が生きている事を。
「……」
ユアンは思わず閉じてしまっていた視界を開いて、辺りを見渡す。
相変わらず崩れた喫茶店の入り口前だった。次に視界に入ったのは大男が握っていた巨大なハンマーだった。それは彼のすぐ目の前に落下して、石畳の地面を粉砕していた。そしてその三メートル先で仰向けに倒れている大男と、その大きく出っ張った腹の上で転がっている小柄な男。
いったい何が起こったのか、理解できなかった。
潰されるはずだった自分が生きていて、潰すはずだった大男が吹き飛ばされ昏倒しているこの状況が。
と、その時だった。後ろから足音が聞こえてきたのは。
瞬間的に振り返ったユアンは無駄に広い町の中央通の真ん中に、ある一筋の光を見た。その光は揺れながらこちらに近づいてきている。ゆっくりと、だが確実に。
その光には殺意があった。だがそれはユアンやキャロルに向けられているものではないような気がする。喫茶店の壊れた入り口の中から漏れ出している光の中に、一筋の光は自ら正体を明かすかのように足を踏み入れる。そして、
ユアンたちが泊まる予定のホテルに居た、おじいさんが出てきた。
「……え?」
唖然とするしかなかった。暗い中央通からなぜこのタイミングでホテルのおじいさんが出てくるのか。そしてなぜおじいさんの右手には真っ白な剣が握られているのか、分からなかったから。
ただ、ここで言える事が一つある。
それはホテルのオーナーであるおじいさんと、人を殺すための長さ一・五メートルほどの刃の狭い白い剣が不自然なほどに合致していると言う事。普通の、平和な世界に生きる人間なら絶対にあり得ない事。つまり、それが意味する事は、
「……敵」
「安心せい。ワシはお前さんらの見方だ」
ユアンは思わずギョッとした。さっきの一言は一人事のつもりだった。隣にいるキャロルにも聞こえるか聞こえないかの音量で言ったつもりだった。にも関わらず、一〇メートル以上離れている剣を持つおじいさんは彼の言葉を聞き取り、なんなく答えた。
普通の人間の聴覚では絶対に出来ない事だ。地獄耳と言う領域を越えている。
困惑するユアンにおじいさんは気付かずに、
「やっぱりこやつらはお前さんらを狙っていたらしいな。先手を打っておいてよかった」
「……先手?」
慎重に聞き返すユアンに対して、おじいさんは気軽い調子で、
「ああ実はな、ついさっきこの中央通じゃないほうの大通りで、お前さんらを狙っていた黒いローブを着た人間達を四〇人ほど始末してきたところなんだよ」
「……は?」
話を聞いて、間抜けな声を出してしまった。立て続けに意味の分からない出来事や言葉を言われて思考がついていけなくなっている。
肩の痛みも忘れて、ユアンは状況を整理するために一から質問する事に決めた。
「ちょっと待ってくれ。黒いローブの人間を四〇人ほど始末したってどういう事だ? それってつまりこいつらの仲間って事なのか?」
「まあおそらくそうだろうな。着ているローブが同じだし」
「んであんたは他に四〇人いた黒いローブの人間達を一人で全員始末したって事なのか?」
「ああ」
とんでもない事を簡単に肯定したおじいさん。
(何なんだこの人は。四〇人のローブの人間って事はおそらく全員術者だよな。それを一人で片付けたってのか? それが本当ならこのじーさん、とんでもねー怪物じゃねーか)
術者ランクは『魔道師』、それか戦闘に特化している『騎士』と言ったところか。
ユアンが頭の中をごちゃごちゃにしながら考えていると、おじいさんは不意に少し尖った口調で、
「まだやる気なのか?」
それは二人に対して言った言葉ではなかった。
「ちくしょう……!」
言ったのは、さっきまで大男の腹の上で転がっていた小柄な男だった。
「何なんだよ。……何なんだよお前は!」
小柄な男が着ている黒いローブには所々切り傷が入っていて、切り口には赤黒い染みが付いていた。呼吸は荒く、立っているのも辛そうに見える。男の両手には刀身が三〇センチ程度の双剣が握られているが、肝心の両腕が力なくだらりと垂れ下がっていてとても戦える様子ではなかった。
しかし男の瞳にはまだ戦意の火は消えておらず、その証拠に覚束ない足取りで一歩前に踏み出した。
「いきなり襲い掛かってきて、仲間のほとんどを切り裂きやがって! お前のせいで俺達の任務は完璧に失敗だ! お前のせいで俺達はもう終わりだ!」
男の絶叫が響き渡る。理不尽な暴力に対する悲痛な叫びのようだった。だがおじいさんは進める足を一旦止めて、そして心の底からつまらなそうに、
「お前はそんな事を言える立場なのか? 四〇人で二人の子どもを襲おうとしていた奴らが。ワシはただお前らに命を狙われている子羊を助けただけだ。どう見ても完全な『悪』はお前らだろうが」
おじいさんは吐き捨てるように言った。その言葉に小柄な男は黙ってしまった。
「さて、どうするんだ? 本当にまだやる気ならワシは確実にお前を殺すが……口振りじゃあ死にたくないようだけど? 死にたいのなら向かってこい。死にたくないのならさっさとここから消えろ。二つに一つだ。さあ、どっちにする?」
「……ちくしょうッ」
小柄な男は奥歯を噛み締め、ゆっくりとした動作で双剣を鞘に納めた。そして後ろに倒れている大男の下へ安定しない足取りで歩いていく。大男に向かって何か喋りかけると、突然さっきまで昏倒していた大男が立ち上がり、眼鏡を掛けた男の方へ向かっていく。
気を失っている眼鏡を掛けた男を担いだ大男と小柄な男は、そのまま何も言わずに暗い町の中央通に消えていった。
完全に気配が消えた事を確認すると、おじいさんは白い剣を黒い鞘に納めてユアンのいる方へ振り返る。
「無傷じゃあないようだが、まあ生きていてよかったよかった」
「あんたは一体何なんだ?」
「ん? ワシはホテルのオーナーだけど?」
「いや、俺が聞きたいのはそう言う事じゃなくて──」
「まあそう焦るな。話なら後でしてやるから、今はその怪我を何とかせなあかんだろ?」